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 “サスケハナ”や“ミシシッピ”は外車なのですが、外車はいつまで造られたかです。先ほど言ったように、スクリュー艦というのは1843年ごろできています。ところが外車が意外にその後もつくられ、“サスケハナ”ができるころが最後の外車船です。イギリスも1850年に建造された船が一番最後の外車船です。アメリカもこの後、第2次航で現れる“ポーハタン”が最後の外車船になります。ちょうどペリー艦隊が現れるころは、外車とスクリュー船との入れ替わりの時期になっています。当時、アメリカの軍艦はスクリュー艦が使いものにならなかったので、日本に来たのは“ミシシッピ”、“サスケハナ”ともに外車であるし、2次航で来た“ポーハタン”も外車で全部が外車船でした。
 次に主要寸法とあります。長さは“サスケハナ”が76.2mです。長さの定義は、話すと長くなるのでやめておきますが、水線長というのは水線の長さです。船の長さはいろいろな長さがあり、定義によってものすごく違います。それだけはご承知おきいただければ結構なのですが、全長から始まって、いろいろな長さの種類があり、私も造船に入ったときに、最初は長さの定義はかくかくしかじかと聞いて、船って意外に複雑なのだと思ったことがあります。それぐらい幅や長さ、深さの定義はいろいろややこしく、時代、時代によって違います。
 いまはわりと簡単なのですが、この当時、造船所、国によって、てんでばらばらで、違う国の船の寸法を比較しても比較にならないのです。そういうことで、ちょっと複雑であるということを覚えていただければいいです。全幅、型幅とありますが、これもやや専門的になるので恐縮です。肋骨があって外板があります。ここまでの寸法が全幅です。内側が型幅と称しています。ちょっと細かい話になりました。型幅、全幅は現在の定義と同じです。両者で300mm違うというのは外板の板厚の分だけ違うということです。
 深さがホールドと書いてありますが、この深さの定義が現在とまったく違います。これもやっかいな話なのですが、ホールドに敷板があります。上甲板があり、ビームがあります。ここからここまでを当時深さと称していました。ですからホールドの深さを測ることになるからホールド深さといいます。ちなみに現在の船ですが、現在の船は甲板があって板の内面からキールの上面までが船の深さです。
 トン数は先ほど言いましたように満載排水量とbmトンと書いてありますが、その当時もそうなのですが、だいたいbmトンの数字が一般に使われていたようです。たとえば、これはもっと後の話ですが、薩摩とイギリスが戦争をします。薩英戦争です。英国の軍艦が、鹿児島に行って戦争するのですが、その軍艦のトン数がたいていの歴史の本にダーッと書いてあります。たいていの本に書いてありますが、あれは全部bmトンです。この本にもありますが、イラストレイテッド・ロンドンニュースという当時、日本でもよく読まれた英字新聞がありますが、それを見てみると、軍艦のトン数は全部bmトンで書いてあります。ですから満載排水量よりもbmトンが使われていたと考えればよろしいのではないかと思います。
 帆装装置はバーク型といいます。レジュメの3ページを見ていただければよろしいのですが、3本マストのうち一番前と真ん中は左右方向に帆が張ってあります。横方向に帆が張ってあって、一番最後の帆が縦方向の帆になっています。このように前2本が横方向で一番後ろが縦方向のものがバーク型ということで、わりと多く使われたタイプの帆です。この本には出ていませんが、3本マストとも横方向の帆が張ってある船も多いのですが、それはシップ型と称しています。
 帆のついでに言っておきますが、歴史の本などに“サラトガ”と“プリマス”のスループというのを翻訳して、1本マストの縦帆船と書いてあります。実際は1本マストではなく、明らかに3本マストなのです。どういうわけで1本マストの縦帆船なのかと思って、普通の字引を引いてみると、スループは単檣の縦帆船と書いてあります。単檣は1本マストという意味でもちろんそういうスループもまれにありますが、ここでは先ほど来から話しているように、スループは軍艦の種類です。しかし、スループを1本マストの縦帆船と書いている歴史の本が非常に多いのです。家に帰ってご覧になるとおわかりになると思います。帆の面積が1970平方メートル、これだけの広さがあるということです。
 次に蒸気機関の話ですが、形式が斜動型というタイプです。レジュメの3ページの内部精密解剖図に描いてありますが、外車の斜め左下に滑り台のような台があります。これは台でエンジンではありません。その長い滑り台のところにチョコンとおんぶしているようなものがありますが、これがシリンダーです。その上はパイプです。これはまた別です。
 このシリンダー内のピストンから棒が伸びていて、外車を回す仕組みになっています。その右側がボイラーです。この絵には二つしか見えませんが、右左二つずつということで、トータルで4缶あります。こういった斜動型というタイプをその当時の外車船では使われていたのはアメリカだけです。
 イギリスは、あとで時間があったら話しますが“ミシシッピ”に使われているサイドレバーというタイプです。これがイギリスで使われている大部分のタイプです。斜動型は非常に珍しく、アメリカ海軍ではよく使われたのですが、アメリカだけで、ほかの国ではあまり使われなかったタイプです。当時の書かかれた本を見ると、メンテナンスが楽など、いろいろ書いてありますが、本当のところはどうしてアメリカで斜動型が使われたのかはよくわかりません。
 馬力も文献によってバラバラなのですが、私のほうでいろいろ考えて、ほかの船からの類推も考えて、だいたい795馬力くらいではないかと考えたわけです。エンジンの馬力もまたやっかいな話なのですが、当時使われた馬力に2種類ありました。一つはIHPと書いてありますが、これは図示馬力という馬力です。エンジンのピストンの中の圧力の変動を実際に測り、そこの面積から馬力を計算するということで図示馬力と呼ばれていました。
 その下に括弧してNHPと書いてありますが、これが当時、1850年代から60年代ぐらいにかけて使われた馬力の呼び方です。これはその後いっさい使われていません。現在ももちろん使われていないです。この当時だけ使われた馬力なので、非常に特殊な馬力なのですが、レジュメの7ページに公称馬力(NHP)の定義とあります。そこに書いてありますようにピストンの断面積とピストンの平均スピードに3万3000分の7を掛けた数字です。これはだいたいエンジンの大きさを表すような数字です。
 公称馬力というのは蒸気圧力とまったく関係のない数字ですから、その後、蒸気の圧力が高くなるにつれて、実際の馬力のIHPとNHPの差がどんどん広がっていくことになりますが、この当時はたかだか2倍程度だろうということです。公称馬力はエンジンの大きささえわかれば、誰が計算しても簡単にできることです。420とか“ミシシッピ”の場合は434ですが、文献にこの数字が出ているのはまず見たことがないのですが、一応簡単に計算できるから、この表に入れました。なぜ入れたかというとIHPの数値が間違いないかどうかということです。文献によっては合計出力が1500馬力などと書いてあるものがありますが、これは当時の蒸気圧力から考えると、そんなことはあり得ないわけで、そのチェックのために公称馬力を計算をしてみました。
 次にボイラーです。先ほどお話ししたように、実はこれは銅なのです。びっくりするかもしれませんが、やかんみたいなものです。圧力も大して高くもないし、さびない銅板のほうがいいだろうと考えられたようです。鉄よりは全然さびないですし、銅のほうが長持ちするし、地金で売った場合、銅のほうがはるかに高い値段で売れるということで、蒸気機関の初期の場合は、銅製のボイラーがかなりつくられたようです。これも小冊子のほうには詳しく解説しておきましたが、この当時はいまのようにボイラーの水に清水を使うということがなく、海水をそのまま使っていたので、海水炊きボイラーということです。
 なぜ海水かということですが、蒸気のエンジンはピストンを動かして仕事をした後の排気を1回水に戻してやるわけです。戻す場合、いまなら細いパイプを使った表面式のクーラーの中に入れます。これは細いパイプの中に海水を通して、その周りに蒸気を入れてやるというタイプのコンデンサーです。当時はそんな複雑な構造のものはできないので、海水をそのままコンデンサーの中にぶち込んでいたのです。ですからまた海水がボイラーの中に入るということで、清水を使っても、結局何もならないので、はじめから海水を使うということです。するとますます錆びるということで、銅製のボイラーがかなり使われていました。
 もちろんだんだん蒸気の圧力が高くなると銅ではもたないので鉄製になるのですが、そういった蒸気をもとの水に戻してやる装置が、現在のようなシステムになるのは1860年代の後半ぐらいで、それまでは海水をぶち込んで、もとに戻してやるというタイプです。
 日本では1860年代の幕末の外国からたくさん蒸気船を買うのですが、みんなボイラーの腐食に悩まされていたわけです。
 推進装置は外車装置が2台、直径が9.45メートルというものすごいでかいものです。この部屋ぐらいでしょうか。石炭庫が900トン、速力はあまりはっきりしないのですが、いろいろほかの船から類推すると8ノットぐらいではないかと考えられます。
 大砲は意外に少ないと思われるかもしれませんが、合計で9門です。シェルガンというのですが、シェルというのは棚のシェルと同じスペルです。普通の大砲の弾はまん丸い鉄の弾ですが、その中をくり抜いて、その中に火薬を詰めて簡単な信管をつけて発射する、炸裂弾と称しているものがシェルガンです。それをフランスのペキザンという人、なかなか難しい読み方で日本の文献でもペキザン、ペクザンなどとなっていますが、この方は海軍の方ではなく陸軍の方で、この方が炸裂弾を1820年から1840年にかけて研究され、一応完成します。1840年代の初期から、各国の海軍に使われるようになりました。
 これが木造船には非常に有効だということで、その後の主流になっていきますが、この当時はまだ主流ではありませんでした。イギリスあたりでできた軍艦は、シェルガンが3分の1、残りはいままでの普通の鉄の弾でした。“サスケハナ”や“ミシシッピ”は全部シェルガンでした。いままでの大砲よりは威力があるので、少なくてもいいだろうということでたぶん減らしたのだろうと思います。この船だけではなく、この当時建造されたアメリカの船は大砲の数は少ないけれどシェルガンをたくさん積むのが特徴でした。
 帆船のほうもシェルガンをかなり積んでいます。10インチのものと8インチのものがあったのですが、10インチのほうは船首に2台、後ろのほうに1台積んでいました。
 乗組員は300人ですが、日本に来たときに300人いたかどうかはわかりません。後で説明しますが、軍艦の水兵の居室は部屋ではなくハンモックですから、かなりのプラスマイナスがあり得るので、実際に日本に来たときに何人いたかというのはちょっとわかりません。たぶんこれより多いと思います。これは海兵隊がかなり乗っていたためです。
 それでは精密画について、ちょっとお話ししようと思います。レジュメの3ページ、上甲板ですが、前のほうに大砲がチラッと顔を出しています。デッキのところに羊がたむろしていますが、これは食料用の羊です。もちろん小屋がちゃんとあったはずですが、これがどこにあったかわからないので放し飼いにした絵が描いてあります。ペリーの日記を読むと、アフリカのケープタウンと香港でだいぶ積んでいますが、もちろん食料用のほかに、沖縄と小笠原で島民のお土産に使ったようなことが書いてあります。上甲板はそんなところです。







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