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1. はじめに
 船の科学館では、毎年海や船にちなんださまざまなテーマでセミナー(講演会)を年間6回開催しております。
 本年度は、ペリーが来航して150年。ペリーは1853年(嘉永6年)黒船4隻を率いて神奈川県の浦賀沖に来航し、フィルモア米大統領から託された親書を手に徳川幕府に開国を迫りました。
 本年度の講演会では、日米交渉の原点というべきこの出来事を、黒船来航の歴史的背景とそれに関わる幕府の対応、黒船が日本にいたるまでの道程と“サスケハナ”を旗艦とする艦隊と船の概要、そしてペリーの白旗書簡の謎をそれぞれ専門の講師を招き検証してみました。
 
作家 半藤一利氏
 
司会 本日の演題「黒船来航、日米交渉ここに始まる〜ペリーはなぜ日本に来たか〜」ということで約90分お話ししていただきます。講演の後、質疑応答の時間を設けさせていただきます。それでは半藤先生をご紹介します。
 
半藤 半藤でございます。工作船で大変賑わっておりまして、私の話なんかより、むしろあちらのほうがはるかに興味深いのではないかと思いましたが、たくさんの方にお集まりいただきましてありがとうございます。今日私が第1回だそうですので、もう皆さんご存じのことと思いますが、一応出だしだけをお話し申し上げます。
 嘉永6年といいますから、まさにいまから150年前、西暦1853年に浦賀沖にペリーの艦隊がやって来ました。太陽暦でいいますと7月8日、旧暦で申しますと、旧暦が後ですから6月3日、つまり日本は当時旧暦でやっていましたから嘉永6年の6月3日に浦賀沖にやって来ました。その第一報は下田沖で、たくさんの漁船が出ておりまして、これが沖のほうから、黒い煙をはいた大きな船を発見し、慌てて陸に漕ぎ帰って、それを浦賀の奉行に知らせた。浦賀の奉行がそれを知ったときには、すでに黒船は浦賀沖に錨を下ろし、ここでいわゆる日本の泰平の夢が破れたというお話になるわけです。
 今日の私の話は、その前の時点の話ということになるかと思います。これは余計なことですが、前の時点の歴史的なことをちょっと申し上げます。太平洋にたくさんの外国の船が来ていました。それは通商船もあるのですが、もっぱら捕鯨船が多かったという時代がありました。そこに蒸気で羽根を回して走ってくる、いわゆる蒸気船が登場してきました。
 これがだいたい19世紀の初めぐらいとお考えいただいていいかと思います。イギリスがシンガポールを植民地としたのが1819年です。つまりこのころに蒸気船が初めて太平洋に姿を現したとお考えいただいて結構だと思います。
 それからさらに先へ行き、1940年から42年にかけて、いわゆるアヘン戦争というものが起き、イギリスの蒸気船が中国のちゃちな船を次々と撃破し、これを打ち破り、南京条約というものを結び100年間、香港を自分で借り受けるという条約を結びました。つまり香港が、ついこの間中国に返されましたが、それまで100年間は中国のものではなくイギリスが半分植民地化していました。同時に中国の港を五つむりやり開港させ、そこにイギリスの船がやって来るようになりました。その中の一つに上海があるわけです。これが1842年のいわゆる南京条約というのですが、アメリカはこれを黙って見ていられなくなり、アメリカもまたアジアのほうに蒸気船をもって来ることになります。アメリカがイギリスの真似をして、当時の中国は清国といっていましたが、中国と、イギリスとほとんど同じ条約を結んだ。五つの港を全部アメリカの船も入れるようにするという条約を結んだのが1844年、イギリスに遅れること2年です。このようにアジアの国、つまり太平洋に蒸気船がやって来る。その前の時代は蒸気船ではなく何があったか。先ほど申し上げたとおり捕鯨船が山ほど日本の近海を含めて太平洋に来ていたのです。
 これがいちばんよくわかる小説があります。これは皆さんご存じだと思いますが、ハーマン・メルヴィルという方の「モビーディック」、「白鯨」です。いまでも読めると思いますが、ジョン・ヒューストン監督の映画になり、グレゴリー・ペックという、あまり上手ではない俳優がエイハブ船長になり、モビーディック、ものすごく巨大な白い鯨を追いつめて、ついにこれと格闘し、船もろとも死んでいった。たった一人だけ生き残るのですが、全員が海の藻屑と消えるという壮大なる小説です。
 そのメルヴィルの「白鯨」という小説を読みますと、中に当時のアメリカという国がいかに太平洋に出てきて、捕鯨のために大活躍をしていたかということがよくわかります。このエイハブ船長は片足がないのですが、この片足を失ったのも、その白い鯨、白鯨、モビーディックにやられたためなのですが、小説を読みますと、その失ったのも、実は日本列島の沖合いで悪魔のような白鯨と闘い、船を破壊されて片足を失った人物というふうに書かれています。つまり日本の近海まで来て、モビーディックと闘っていたことがわかります。これはアメリカが太平洋に乗り出してくる。実を言うとアメリカはカリフォルニアやオレゴン州など太平洋の西海岸のほうにはまだ出ていないわけなのですが、しかしそれでも負けてられないというので、大西洋を回って、あるいは南アメリカを回ってアジアに乗り込んできている。そして太平洋で懸命な活躍をしている。一つにはイギリスに負けまい、遅れてなるものかとうことがありました。大きい中国という国に対する貿易を考えたと思いますが、主に捕鯨でありました。
 メルヴィルの小説では、中国貿易よりも捕鯨のほうが大事でありました。当時は捕鯨というのは、日本人のように鯨の肉を食うわけではなく、油を取って照明や潤滑油、全部そういうものを鯨の油でやっていた時代ですから、鯨は非常に大事でした。そういうことからアメリカの捕鯨船は太平洋でくまなく走り回りながら大活躍をしていました。太平洋には五つの捕鯨場がありました。その最大のものは日本近海にあるとメルヴィルは「白鯨」の中で書いています。
 このメルヴィルの小説によりますと、700隻の捕鯨船が太平洋で活躍していました。約1万8000人の船員がいます。そして年間700万ドルの利益を上げていると小説の中には書かれています。この小説が書かれたのは20世紀に入ってからですが、舞台になっているのはだいたい1840年代ぐらいの時代だったと思います。つまり1840年代ぐらいには、アメリカという国はそれぐらい捕鯨に力を入れて、そして太平洋を自分の庭のように走り回っていました。
 日本はこの時代はまだ弘化年間で、260年間続いている鎖国という政策をがっちりと守り、わずかに長崎だけを開けて、そこにオランダの船が出入りするという状態で、日本は外国との交渉は一切なしでした。したがって日本の捕鯨船も出ていたと思いますが、アメリカに太刀打ちできるほどの大捕鯨国家ではなかったと思います。
 いずれにしろ、メルヴィルによればアメリカは700隻ぐらいの捕鯨船が太平洋を走り回っている。そういう状態になると、当然のことながら嵐あるいは暗礁その他いろいろの事故があり、捕鯨船が壊れる、損傷するということから、どうしても避難する場所、あるいはそれを直す場所が必要ではないかということが叫ばれてくるわけです。それがアメリカの最大の希望であったと思います。そこでペリー大提督という、正確に言うとマシュー・カールブレイス・ペリーと申しますが、この提督の出番がくるわけです。
 このペリーという提督は嘉永6年、日本に来たときには58歳で、かなりの年です。海軍軍人ですが、実を言うと退役というと何ですが、もう陸に上がって偉くなって、むしろ陸で指揮をする立場になっていたのですが、その方があえて出てくる。この方は生粋の海軍軍人で、17歳ぐらいから海軍に入り、約42年間ぐらい海軍の軍人として生活をしておりました。その前に海軍は帆船海軍ですが、蒸気船になってからの、いわゆる蒸気海軍の父とも言われるぐらいに蒸気船の開発、運航及び蒸気船そのものの活用をもっぱら考えた人です。機走帆船と言いますから、帆船に蒸気機関をつけた“フルトンII世号”という軍艦に乗って、その艦長になったのがはじめで、それからずっと海軍蒸気船の父として頑張り抜いた人です。
 当時は何と言っても超大国というか、七つの海を制覇していたのはイギリス海軍です。
 アメリカはむしろ新興国海軍でありました。そこでペリーという軍人の心の中には、新興国海軍アメリカにとって「イギリス何するものぞ。われらもまたイギリス以上の海軍国になり得る可能性がある」というファイトに燃えていたかと思います。もう皆さん歴史で習いましたように、イギリスは産業革命が起き、どんどん文明化の先端を走る大国になっています。アメリカは、それにちょっと遅れている国だったのです。
 ところが造船業に関する限りは、アメリカのほうがイギリスよりも少し先を行っていたと言われているのです。一つにはペリーを中心とするアメリカ海軍、蒸気海軍というものに対する新しい目が素早く働き、ほかの国よりも先を見通す力を持ちました。つまり蒸気海軍を建設するための努力がさかんに行われていました。
 一つにはメキシコというと国がアメリカの南にあり、この国がカリフォルニアやテキサス、あるいはオレゴン州など西海岸を全部制覇して抑えていました。このアメリカの西海岸に対する、東海岸のアメリカ合衆国がどんどん西へ西へと向かってきます。当然、メキシコと衝突します。いつメキシコと戦争するかわからないという状態になっていたので、なおさらのことアメリカ海軍は建設に燃えていたのです。
 ついに戦争が起きます。いわゆるメキシコ戦争で、1846年から1848年に続きます。そのときペリー提督は艦隊司令長官として、その軍艦に乗りメキシコ海軍と戦う。海軍といってもメキシコにはたいした海軍がありませんので、むしろメキシコの要塞と戦いペリーが大活躍をした。「ベラクルス」という映画もあります。ベラクルスという町を封鎖して、これを徹底的に叩きのめすという大殊勲を挙げたということで、メキシコ戦争におけるペリー提督の名前は非常にアメリカ人に印象深く刻まれたといいます。
 ところがメキシコ戦争でアメリカは勝ちました。すると当然の結果として、カリフォルニア、テキサスそしてオレゴン州といった西海岸が全部アメリカ合衆国の中に組み込まれます。つまりアメリカは太平洋という大きな世界を目の当たりに見たのです。それまでは大西洋を回って、アフリカの下を回って太平洋に出てくるという大冒険はしていましたが、いよいよ港が西海岸にもできるということが、もう目に見えてきました。そうなるとアメリカが大西洋を通って、下をグッと回ってアジアまで来るというコースよりも、西海岸に港をつくって、そこからまっすぐ来るコースで太平洋に入ったほうが早く着く。ということから、アメリカの目はいっそう太平洋に開かれるわけです。
 ところがアメリカというのは面白い国で、戦争に勝ってみたら、もう海軍はいらないのではないかという声もあちらこちらから出たようです。つまりたくさんの金を使って海軍を増強する意味がないのではないか。むしろ海軍は縮小したほうがいいのではないかという声が出てきました。ペリーはこれに対して「何を言っているか」と猛反対をしました。もちろん海軍が大事です。つまり捕鯨船が太平洋でさかんに活躍しています。各国の捕鯨船も出てくるし、各国の海軍も太平洋に出てくる。もうアジアの国々が次から次に植民地化されているときに、この太平洋にいるアメリカの商船なり捕鯨船なりを守るにはどうしても海軍が必要なのだということから、ペリーは懸命に反対運動を起こすわけです。
 つまりペリーが日本に目をつけたという基本には、このメキシコ戦争以後の海軍縮小というか、海軍に対して、それほど金をやるに及ばないというアメリカ全体の声に対する反対、反揆があったのではないかと思います。生粋の海軍軍人であるペリー提督が、58歳という年になってから、このときはまだパナマ運河ができていませんから、いきなり太平洋に出てくるわけにいきませんので、日本に来るためには大西洋周りでアフリカの喜望峰周りで出てくるのです。ものすごい大航海をやってまで日本に来る。日本に来て、何とかして港を開かせるということを自分の使命とするにあたっては、一つには海軍に対する削減、艦隊縮小というか、実際にアメリカはメキシコ戦争以後軍を縮小し、世界で5番目の海軍にまでおちぶれてしまうのですが、これに対してペリーは憤慨に耐えられない。まずそれがあったと思います。







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