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 2番目はイギリスの海軍にしろ、イギリスの商船にしろ、捕鯨船はアメリカのほうが上なのですが、海洋型国家としてのイギリスはアメリカよりはるかに先を行っています。したがってイギリスに対する一種の反抗、「何するものぞ」という意気込みがあった。同時にイギリスはまだ日本に来ていないのです。オランダは日本と和親条約を結んでいるので、長崎にちょいちょい来ていますが、イギリスはまだ日本に来ていない。香港まで来て、すぐ日本に来るところなのですがまだ来ていない。ではイギリスを出し抜いて、先に行こうという思いがあります。
 さらにもう一つ言うと、アメリカと清国が条約を結びました。その結果、清国の五つばかりの港にアメリカの外交官がやってくる。この外交官どもが、実に世界情勢を知らないで、皆、泰平的というかつまらないことをやっている。この連中はけしからん、この連中に抑えられたのでは、アメリカという国の国威の発展がない。ということから、この連中を凌駕するような大きな海軍力を見せなければならない。こういうのがペリーの気持ちの中にありました。
 最後になりますが、いよいよ西海岸に港ができるだろう。現在、サンディエゴやサンフランシスコなどの港がありますが、あれが間もなくできるだろう。すると太平洋横断航路が将来においては必ず完成するに違いない。これをまず先にやっておこうではないか。こういったいろいろな思いが、ペリーをして日本という国にとにかくいちばん最初に乗り込んでいきたいとかりたてたのだと思います。これがまたアメリカの、外へ外へと向かおうとしている当時の大統領、アメリカ政府の気持ちと合致しました。
 そこでそれならばということで、日本遠征というものが、政府ぐるみで計画されるようになるわけです。つまりアメリカという国が1846年から1848年のメキシコ戦争に勝ちました。大事なことを忘れていましたが、カリフォルニアが自分の手に入りました。それとほとんど同時ぐらいに、いわゆるゴールドラッシュという言葉で言われるように、金がどんどん産出され、アメリカの西へ西へという勢いはいよいよ倍化され、ついに西海岸に到達することが目に見えているという状況になっていたのです。
 そこから太平洋というものに対するアメリカが「とにかく1番乗りしよう。米国からアジアへの太平洋に航路を先につくってしまおう」という大きな夢というか、アメリカという国は夢より、そういうことを使命感とする国ですから「それでは俺たちが先にやってやろう」ということで、アジアへのペリー派遣を政府ぐるみで決定するわけです。これが1852年といいますから、メキシコ戦争が終わってから4年後には、もうそのことが計画されました。3月24日ということになっています。考えてみますと、日本に来るのは1853年ですから「あれよ、あれよ」と言う間に計画が具体化していって、ペリーの艦隊が編成されたのです。
 ペリーに与えられた命令を申し上げます。いろいろな本に「貿易が第一だ。それから捕鯨船の問題が第2だ」と書かれていますが、どうも私の見るところによると、アメリカのペリーに与えられた命令書は、通商、つまり貿易よりも、とにかく日本という国、閉ざしている国の港をむりやりでもいいから開かせる。そのほうが大事である。そのほうに主眼が置かれていたように思うのですが、とにかく命令書を読みますと、「遭難や避難したアメリカ船員と、その財産の保護を目的とするために永久的な措置をとる。そのためには一つ以上の港をどうしても開かせる。」これが1番目です。遭難や避難した船員というのは捕鯨船、商船の船員も含みます。その財産というのは、船も財産の一つですが、財産の保護を目的とする永久的な措置をとる。そのために港を一つ以上開かせるということです。
 2番目が「食料、飲料水、燃料などの補給を確保する。災害の際の修理目的でのアメリカ船舶の入港許可をとりつける。」これも一つ以上の港からとりつける。貯炭場を設ける許可を得られることが非常に望ましい。当時の船は石炭で走りますので、石炭を置かせてもらう許可を日本から取る。主要な島にそれらをつくるのが無理ならば、少なくとも近隣にあると言われている無人島を設けること。ここが問題なのです。ここは大事なことなので後で申し上げます。とにかく日本の列島のどこか、日本の島を借りることは無理ならば、日本の傍にあると言われている無人島にアメリカの主要な設備をつくってしまおうということが2番目です。
 3番目は「通商」です。わが国の船舶が積荷を売却したり、バーター貿易を行うために入港許可をとりつける。要するに通商を行うために、港に入ることができるようにする。この三つです。
 要するに捕鯨船や商船の遭難した、あるいは壊れたために港に避難する。避難場所としての港を日本のどこかに開いてもらう。それを一つ以上いくつでもいいからとりつける。2番目は食料や飲料水、燃料つまり石炭ですが、こういうものを補給することができるようにする。できるならば、そのために港に入れることが望ましいし、石炭と貯めておく場所も必要とする。日本のどこかの島をそっくり借りられればいいが、借りられないなら、日本の傍の無人島をアメリカが確保してしまう。3番目は通商を行うために港を開かせる。これがペリーに与えられた命令です。
 ついでにアメリカ政府はペリーに対して、次のようなことも申し添えました。とにかくアメリカがいかに偉大なる力を持っているかということを、堂々と誇示せよ。アメリカの偉大さを日本人に思い切り示せ。2番目はヨーロッパのいずれの諸国とも、いずれの政府ともアメリカが一切関係がない、アメリカの独自の交渉であるということを強調せよ。アヘン戦争というものの情報が日本にどんどん入ってきて、イギリスという国がいかに野蛮な国であるか、侵略的な国であるかという情報が日本に入ってきていますので、日本でのイギリスの評判が非常に悪いということを、アメリカは察知しています。
 イギリスの仲間にされてしまうのは困るというので、つまりヨーロッパのいかなる国ともアメリカは関係がないということをしっかりと言え。さらに太平洋はすでにわが国の船舶でいっぱいになっている。アメリカと日本は太平洋という長い距離を間に置いているが、日に日に近づきつつあるということを日本人によく認識させろということを言います。以上のようなことをやるために、ペリー提督には、ある程度自由な裁量権を与えるということをアメリカはペリーに申し送ったのです。
 これを見るとわかるように、一応アメリカは大砲の威力というか、私たちの言葉で言うと砲艦外交というのですが、大砲の威力によって強引にこちらの要求を通すということをペリーにやらせることを命令はしています。ただし戦争をしていいとは、一つも書いてないのです。むしろ戦争はしてはならないと言わんばかりのことを書いている。つまりアメリカはイギリスとは違うということを日本人によくわからせようと言っているところから、それが受け取れるわけです。
 ペリーはこの命令を受け、いよいよ日本に向けて出港してきます。ちなみにちょっと忘れましたので「泰平の眠りをさます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」、たぶん私の後の先生方がこれを引用し、日本の情勢をご説明すると思いますが、これは斉藤月岑という人が書いた『武江年表』という本に出てくる話なので、当時の狂歌、当時の日本の情勢を「泰平のねむりをさます上喜撰」、「上喜撰」という当時、ものすごいいいお茶があったのですが「そのお茶を4杯飲むとねむれなくなってしまった」ということと「たった4杯の黒船がやって来て、いまや日本中、夜も眠ることもできないほどおびえている」という話を両方ひっかけたような歌です。非常によくできた歌なのですが、どうもこれは嘘らしいです。当時、こんないい歌ができるはずがないので、明治10年ごろできた歌らしいです。ということを最近、調べましたのでお知らせしておきます。後の先生が、これは当時の狂歌と説明しても、私は責任負いませんけれど。いずれにしろ、こういうかたちでペリーは日本にやってくることを決意したわけです。
 ではペリーはどの程度日本について知っていただろうかということが次の問題になります。ペリーという軍人はすごい勉強家のようで、日本に関する文献をとにかくたくさん買い込んで読んだようです。いちばん基本となったのは、シーボルトという日本に来て、医学を教え、日本から海図を盗み、シーボルト事件という事件が起きましたが、あのシーボルトという方が国に帰って書いた『日本史』というか『日本』という本がいわゆる基本の文献のようです。この本は1832年に1巻目が出ているのですが、次から次に続刊され、ペリーがアメリカを出発する直前ぐらいに最後の巻が出ました。アメリカを出発するときは“ミシシッピー号”に乗って出発したのですが“ミシシッピー号”に載せて、これを太平洋に来るまでの船の中で実によく読んだようです。
 そのほかゴローニン、これも日本に来た人ですが、この人の回想録、それからタルボット・ワッツという方の『日本および日本人』、シャルル・ボアという方、神父さんですが、この方の『日本史』というような、当時、出ている日本に関する文献を全部積み込んで、これを徹底的に読んで日本に来たようです。ペリーの日本認識は、とにかく非キリスト教国で、アジアにある唯一の文明国である。しかも世界においても、最古の歴史を持つ国であるという認識だったようです。したがって、自分は日本に行って、日本の港を開かせ、日本の国策を開国にひっくり返すことが、自分にとっては世界史的な使命と考える。「最も若い国の民である自分が、この最も古い国の扉を開けるのである」とペリーは常々言っていました。生涯最大の大仕事とペリーは考えていたようです。
 そういう人ですから、とにかく勉強もした。本だけではなく、出発前から太平洋で活躍した捕鯨船の船主たちや、新聞や雑誌に出ている日本の情報などを全部集め、日本という国がどういう国であるかということに対する認識をしっかりと固めてきたということは言えると思います。
 現代になると「へぇー」と思うのは、日本は1543年、ポルトガル人によって偶然発見された。これはポルトガル人が種子島に確かに来ましたが、偶然発見されたわけではなく、日本は昔からあるわけです。「そのときにすでに2203年の歴史を持ち」、ペリーはどこで見たのでしょうか。私たちは紀元は2600年と戦争中によく言っていましたが、ペリーの頭の中には、日本は2203年の大歴史を持ち、万世一系というのは私の言葉ですが、ペリーの言葉では、実に106代の統治者によって、天皇ですが、統治者によって支配されている国であるという認識であったようです。ですから日本は本当に古い国だと思ったようです。その古い国を、いちばん新しい新興国の俺が戸を開けてやるんだというのがペリーの大使命であったようです。







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