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大型彫刻船落成儀礼・・・大嶋智子
八人乗彫刻船の造船
 二〇〇一年四月下旬、大型船が造船されていると聞いてイラヌミルック村を訪れた。その日の午後、これから山の造船現場へ向かうという男と会った。鍋を背にしたその男は、村の後背にあるタロイモ水田のあぜ道を抜け、山へ向かう。携帯電話で目的地にいる相手に位置を確認しながら、小川沿いの勾配を軽々と登っていく。おぼつかない足取りでついていく私は完全に足手まといだ。二〇分ほど行くと、電動ノコギリの音が聞こえてきた。急勾配を上がると視界が開け、下草が伐採された跡に、二五人程の男たちが見えた。中央には切り倒された木が、すでに船首を思わせる形となって置かれていた。老練な男が三〜四人、斧を振るっている。ときどき五〜六人の青年が交代する。木材の切り倒しにはノコギリが使われるが、成形や表面研磨などほとんどの作業に手斧が使われる。片面が仕上がり、裏返す時には、一三人で持ち上げてやっと動く重さだ。朝七時に開始された仕事が終わり、部品が青年たちに担がれて山を下りたのは午後四時過ぎだ。造船用テントの脇で、船主から協力者たちに食事や酒が振舞われた。
 
山での船首製作
 
完成した船首を村へ持ち帰る
 
接合、刳り合わせる
 
 造船されているのは、チヌリクランという船だ。ヤミ族では、一〜三人乗の小型船と六〜一〇人乗の大型船が区別され異なる名称で呼ばれる。小型船タタラは、個人単位での漁に使われる。一方大型船チヌリクランは、船組による共同の飛魚漁を目的としたものだ。造船および所有も父系親族で結成される船組単位でなされる。どちらの船も基本的構造は同じで、一本の木から一つの部品を作り、それを接合、刳り合わせる。新造船は二七本の部品から成る。船底には龍眼のように硬質な、船首にはパンノキのように柔らかい材質と、目的に合った木材が選択される。造船の専門家がいるわけではない。伝承による技が、手斧一本で生木をしなやかなカーブを描く船首に作り変える。繊細な彫刻もヤミ族の船の特徴だ。船の大小を問わず、彫刻し彩色を施す船とそうでない船は区別される。前者は夏に、後者は冬場に作られる慣例だ。彫刻船では落成儀礼を催す倣いである。家屋や彫刻船、近年では協会や校舎でも、落成儀礼には、タロイモと豚が饗応につきものである。振舞に充分な量が用意できる経済的ゆとりがないと彫刻船は作れない。造船、彫刻技術に精通し、かつ歌会を主催できるだけの歌の才と知識も要求される。財、技術、経験を兼ね備えた男のみに可能な誉高い仕事なのだ。新造されているのは八人乗彫刻船チヌリクランである。イラヌミルック村では一〇年ぶりの大型彫刻船だ。(1)
 同村には八つの船組がある。造船中の船組名はシラ・ドゥ・トノラノンという。八人の乗組員は、父方のいとこ同士であるシャプン・RとシャプンNの二人と、それぞれの息子合計六人だ。造船経験があるのは父親二人だけである。シャプン・Rは七〇歳を超えており、実質的な創作活動はシャプン・N(六〇歳)が引き受けていた。息子世代は造船は初体験である上、常時村にいるわけではない。落成儀礼の時期を七月末と決め、人手不足を考慮に入れた結果、二〇〇一年三月から造船に着手したという。この時期は飛魚群が蘭嶼沖を飛来する一年のうち最も多忙な季節で、かつては造船を禁忌とした時期でもある。筆者が訪れた四月下旬、ヤミ暦のパパタウ月、船主一家は昼間造船、夜は飛魚漁にと多忙な日々を送っていた。四月二五日早朝、船の脇で豚一頭が屠られた。ヤミ族社会では、相互扶助で家屋や船を建造する。豚の饗応は協力への返礼にあたる。山仕事はこの日が最終日だ。船の部品はすべて揃い、接合や彫刻、彩色といった次の段階へ進む。これらの仕事をほぼ一人で担うシャプンNは、七月末の落成儀礼にむけて多忙な日々が続く。







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