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テクノニミー[子供本位呼称法・親従子称制]・・・森口恒一
 最初にヤミ族の言語調査を行った時、台北の元中央研究院所長の劉斌雄先生を訪ねて蘭嶼でヤミ語の調査をするには、誰に聞いたら良いか伺った。先生は、ご自身も著者である『蘭嶼雅美族的社会研究』(衛恵林、劉斌雄著)の系図を見ながら、親しい、日本語の良くできるヤミの人を何人か各部落ごとに選んでくれた。そのリストを持ち蘭嶼にでかけた。当時、郷長であったシ・マヌカスさんは、港の前の庁舎で執務されていたのでうまく会えたが、他の人たちを探し始めるとなかなか見つけ出せない。台北で訪ねるようにと教えてもらったシ・ガリワスという人はいるかと探してもはかばかしい答えは返ってこない。ちょうど日の高い時間で、若い人たち、特に、子供が多かったのでだれ一人あの人だと答えることができなかった。そして、しばらく経つと皆が三々五々農作業や海から帰ってきて、やっと年寄りの人たちに会うことができ、尋ねると「ああ、シャプン・マニニワンか。」と、教えてもらった名前とは違う名前が出てきた。そこで、良く聞いてみると独身の時は、シ・ガリワスであったが、孫ができたのでシャプン・マニニワンになったと説明してくれた。劉先生が調べた時は、まだ、独身で、その後結婚して、名前が変わり、また、子供が結婚して孫ができると名前が変わるというシステムがあることがわかった。
 この呼称法は、ヤミ族だけではなく、ヤミも含まれるフィリピン・台湾の国境地帯に広がるバタニック・グループのあらゆるところでかつては使われていた。南のフィリピン側のイトバヤット島では、かなり最近まで、また、ルソン島に近いバブヤン島では、今では伝統的な名前は、使わないで、ヨーロッパ系のペドロとかトマスという名前を使っているが、システムとしては昔ながらの伝統的呼称法が用いられている。すなわち、「子供本位呼称法」または「親従子称制」と呼ばれているものである。ここで、呼称法とするのは、実は、よく調べてみると、人には使わせない、知らせないもう一つの本当の名前があり、他人がその人を、呼んだり、指示したりするときにこの「子供本位呼称法」を使うからである。それゆえ、その本当の名前を聞き出すのは、至難の業である。
 
ヤミ族の揺り籠
(三木淳撮影)
 
シ・タガカイの名前の変遷
 
 この呼称法のシステムは、簡単で、男女に関係なく長男・長女が生まれ、名前が与えられた時、それに伴って父母、祖父母、曾祖父母の呼称が、「(新生児)―の父・母」、「(新生児)―の祖父母」、「(新生児)―の曾祖父母」という形になるのである。
 たとえば、ある男の子が、小さいときは、シ・タガカイであったの(上図参照)が、結婚して子供が産まれ、その子にシ・ピアヴァサンという名前を付ける(上図(II)参照)と、その人は、シャマン・ピアヴァサン、彼の連れ合いは、シナン・ピアヴァサンとなる。また、シ・ピアヴァサンに子供、すなわち、シ・タガカイにとって孫ができ、その子の名前をシ・パヴィヌンとすると、シ・タガカイは、シャプン・パヴィヌンになる(上図(III)参照)
 ここで、語頭にあるシは、人名をあらわす冠詞で、シャマンはsi ama ni―(―の父)、シナンは、si ina ni―(―の母)、シャプンは、si apo ni―(―の祖父母)で、曾祖父母は、シャプンコタン―(si apo no kotan ni―)、曾曾祖父母シャプンコアン―(si apo no koa ni―)となる。また、生存中であるか、死んでいるかで、―ミナ―が間に入って、シミナ―(si mina―)、父母の場合は、それぞれ、シミナマン―(si mina ama ni―)、シミナナン―(si mina ina ni―)となる。
 それでは、なぜこのような呼称法を使うのであろうか。前述のように実際はこの呼称の他にもう一つの名前を持っている。しかし、これは他人には絶対知らせない、使わせないようである。本当の名前を公にしたり、公開の場で使われるのを嫌うようである。そうするとこれは、何らかのことば忌みがその原因であるように思われる。
 ヤミの人たちは、極端に死者の名前、死に関する語彙を使うことを嫌う。また、彼らの信じているアニトは、人々がいるところ、また、あらゆる所に存在している霊であり、その霊がヤミの人たちの人生、生活、一生を支配していると信じているので、自分自身の存在、自分自身の言動、考えを霊であるアニトに知られ、名前を知らせることによりその人に悪さをされることを極端におそれるゆえにできたシステムかもしれない。
・・・〈静岡大学人文学部教授〉
 
 インドネシア、フィリピン、台湾、そしてポリネシア、メラネシア、ミクロネシアの太平洋の島々にまで拡散し居住するようになったオーストロネシア語族が、かつて主要な食糧としてきたのはタロイモとヤムイモであった。イモ類は栽培面積当たりの生産カロリーがかなり高く、このタロイモ・ヤムイモ栽培は早くも七〇〇〇年前頃からニューギニアで始まっていたが、近年はその多くが稲作などに取って替わられている。
 このうちタロイモ(Colocasia esculenta)は湿潤な環境に適しているため、畑でも栽培されるが水田で栽培されることが多く、その水田耕作は日本でもかつては沖縄や九州南部で広く見られた。蘭嶼(旧称紅頭嶼は、一八九七年に鳥居龍藏が人類学調査を行って以来、このタロイモ水田耕作がいまだ広く営まれ主要な生業となっていることで知られてきた。
 本稿は、蘭嶼のヤミ族(タオ族)が営む、そのタロイモ水田耕作の様相を中心に、社会組織との関係や歴史的な変化を、いささかなりとも紹介してみたい。
 
一、蘭嶼の自然環境とヤミ族の伝統的生業
 蘭嶼は、台湾島の南端から約七四キロメートルほど東方の海上にあって、およそ北緯二二度、東経一二一度に位置し、その南方に連なるバタン諸島、バブヤン諸島などフィリピン領の諸島嶼と同様に、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界にそって形成された火山島である。この島の海岸線の長さは約三七キロ、面積は約四八平方キロだが、火山島のため大部分が標高五四八メートルの芳蘭峰(現地名jirako Avak)などの山岳によって占められ、比較的平坦な土地は少なく、その大半は九本ほどある渓流が海岸の手前に開けた谷口に形成する扇状地である。
 蘭嶼は年平均気温がおよそ二五度C、年降水量は三〇〇〇ミリ以上もあり、かなり高温多湿な気候のもとで、島内の多くが熱帯林と繁茂した草原におおわれている。ヤミ族の人々は、このような環境のもとで、長らく次のような生業を営み生活してきた。
(1)水田(akaen(アカウン)複数はahakawan(アアカワン)の耕作・・・扇状地に水田を棚田状に造成し、渓流から灌漑用水(sawaran(サワラン))を引いて、soliと呼ばれるタロイモを栽培する。灌漑用水は共同で管理され、水田は個々人で所有されて世帯ごとに耕作が営まれる。
(2)草原の焼畑耕作・・・山麓の草原を焼畑として開墾し、主にサツマイモ(wakay(ワカイ))、タロイモ(kitan(キータン))、水田のsoliとは区別される)、粟(kadayi(カダイ))を栽培するが、世帯ごとに占有し耕作する畑のniwakawan(ニワカワン)が大半を占めており、一部に父系親族集団あるいは村落全体で共同して粟を栽培する畑のohmaen(オマウン)がある。
(3)森林の畠(ohviyan(ウビヤン))、果樹園(mowamowa(モアモア))、樹木育成地(pimowanmowan(ピモアモアン)・・・森林の樹木を伐採し、下草を除去して造成した小畠(焼畑にはしない)でヤムイモ(ovi(ウビ))を栽培し、その跡地にバナナ、パパイヤ、ビンロウなどを植えて果樹園とする。また、家屋や舟の主要材を得るため、父系親族集団あるいは村落全体で共同してリュウガンやパンノキを育てる樹木育成地もある。
(4)家畜の飼育・・・世帯ごとに村内で豚・ニワトリを飼育、草原や山間にヤギを放牧。
(5)沿岸の漁撈・・・三〜六月にかけて蘭嶼の周辺に回遊してくるトビウオを、cined keran(チヌリクラン)と呼ばれる大型船を用いて夜間の松明漁を行う協同漁撈と、一年を通しta tara(タ タラ)と呼ばれる小舟を使って営まれる個別漁撈からなるが、これらは主要な蛋白食糧源となっている。
 なお、戦前の調査(奥田他 一九四一)によれば、主要作物の作付面積の比率は、水田のタロイモが四一・二〇パーセント、草原の焼畑のサツマイモが二六・五九パーセント、同じくタロイモが一九・一二パーセントで粟が三・六八パーセント、森林の畠のヤムイモが九・四四パーセントとなっている。この報告は、調査の状況からみて必ずしも正確とは言い難いが、伝統的な生業形態のおおよその様子を示している。
 
二、ヤミ族の歴史と社会の変化
1、蘭嶼への移住と定着――ルソン島と台湾島の間には、南からバブヤン諸島、バタン諸島、そして蘭嶼が連なっており、紀元前の昔からオーストロネシア語族の諸集団の移動がみられたようである。ヤミ族は、台湾島よりバタン諸島の先住民との関わりが深く、その言語もほぼ共通でバタニック諸語をなしている。ヤミ族が蘭嶼に居住するようになった正確な時期はいまだ不明だが、確認できる系譜からみて少なくとも六〇〇年前には確実に定着していたと考えられる。その口碑伝承や考古学的遺跡からすると、当初は彼らが山麓の森林地帯に住み、主に焼畑農耕により生活を支えていたことが伺われる。
 
(1)渓流から取水する灌漑用水の取入れ口
 
(2)石垣で組んで造成された用水
 
(3)岩肌を削り石垣で造られた用水
 
2、灌漑用水築造と渡洋交易――口碑伝承からみて、四五〇年前頃から扇状地に隣接した平坦地に集落が移り、渓流から水を引く灌漑用水の築造が進み、水田の造成とそのタロイモ耕作が拡大していった。また、バタン諸島と金、銀、中国製陶器、鉄、豚などを交換する、avang(アヴァン)と呼ばれる渡洋船(最大一六人乗り)を用いた贈与交易も発展した。それに伴いasa so tengh(アサ ソ トウグウ)と呼ばれる父系親族集団が発達し、祖霊(komilin(コミリン))信仰が卓越するようになった。
3、孤立の時代――一七八三年にスペインがバタン諸島を植民地化した為この渡洋交易は途絶し、他方で一九世紀前半になると台湾商人が来島し、豚と引き換えに鉄、銀などを供給するようになったが、その接触は限られたものだったので、蘭嶼は二〇世紀初頭まで孤立の時代を迎えた。父系親族集団のasa so tenghは分裂して、いくつかのasa itetegean(イトゥトゥグァン)に分かれ機能も弱体化し、他方で個々の世帯(asaka vahay)と双方的親族関係に基づく相互協力が次第に社会生活を支えるようになり、特別な様式を持つ家屋や装飾舟の築造に伴うmivazay(ミヴァライ)(落成祭礼)を中心とした個々人の間の「威信競争」が発達し、祖霊信仰より天上神(tao do to(タオ ド ト))信仰が卓越するようになった。
4、近代世界への統合――一八七七年に清国政府が蘭嶼に使節と贈り物を送り、行政上はその下に置かれたが、全く干渉はなされなかった。しかし、一八九五年に台湾を領有化した日本が、二〇世紀初頭に蘭嶼に警察署を置き統治に乗り出した。これ以降、いっそう世帯を中心とした生活となり、威信競争も更に拡大した。第二次大戦後に蘭嶼も中華民国領となり、政府の手で旧来の宅地が整理されて国民住宅が建てられ、また台湾の経済発展に伴い消費生活も普及し、近年は伝統的な社会慣習もタロイモ水田耕作も著しく衰退しつつある。







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