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日本人のヤミ族文化研究・・・土田滋
一、鳥居龍蔵[一八七〇−一九五三]
 明治二八年(一八九五)、日清講和条約が締結され、台湾が日本に割譲された。東京帝国大学理科大学はただちに動物、植物、地質人類学の四分野の調査を行うことに決した。ところが台湾山地にまで身の危険を挺して行こうという人がいない。標本整理係りだった鳥居龍蔵にお鉢がまわってきたのは、そういう事情だった。まだ二五歳という若さだった。
 鳥居の台湾調査は明治二九年(一八九六)から明治三三年(一九〇〇)にわたり、合わせて四回行われたが、紅頭嶼(現在の蘭嶼)調査はその第二回、一八九七年一〇月二五日から一二月二九日まで、およそ二か月間に及ぶ調査であった。その頃までは、世界中どこでも、調査にあたってはスケッチを描いてすませ、あるいは必要に応じて写真屋を呼んでとらせるのが常だった。鳥居は速習で写真撮影の技術を習得し、人類学の調査に世界ではじめて写真機をたずさえ、調査者自らが写真撮影を行い、貴重な写真を多数残してくれた。当時の写真器材は重く、かさばり、とくにガラス乾板は割れやすいし、湿気にも弱い。にもかかわらず台湾調査以後も鳥居はかならず写真機を携行した。記録としてもつ写真の重要性を、よく認識していたからであろう。紅頭嶼の住民が「ヤミ族」と名のることを発見したのも、鳥居龍蔵である。
 
鳥居龍蔵とヤミ族の船・三人乗りのタタラ(彫刻文様付き)
〈『乾板に刻まれた世界−鳥居龍蔵の見たアジア』東京大学総合研究資料館より〉
 
 当時は紅頭嶼へ行くのも定期便があるわけではない。総督府(台湾総督は乃木希典)の好意により特別の船を仕立ててもらったのである。はじめ助手三人を連れていたが、そのうちの二人は一か月後に来た船に便乗して台北に帰ってしまった。残った助手・中島藤太郎と二人で調査を続けていたが、ある日、炊事中に博物学採集用のアルコール缶に誤って火が移り、その火はさらに藤太郎の衣服に燃え移った。ために藤太郎は大やけどを負い、鳥居の懸命の看護の甲斐なく、翌日死亡した。ヤミ族は変死者のアニト(霊魂)を極端に恐れる。鳥居は、ひとり、丘の上に穴を掘って亡骸を埋め、冥福を祈った。その間、わずかにバナナと椰子の実をもって腹をこしらえ、数日間を生きのびたという。日本で初の、現地調査中の事故死であった(鳥居龍蔵『ある老学徒の手記』朝日新聞社、昭和二八年)。
 このような困難があったが、このときの鳥居の紅頭嶼調査の結果は、『人類学写真集 台湾紅頭嶼之部』(東京帝国大学理科大学明治三二年)、『紅頭嶼土俗調査報告』(東京帝国大学明治三五年)、『人類学研究・台湾の原住民(二)ヤミ族』東京帝国大学理科大学紀要第三二冊第四編明治四五年)などの大冊、あるいはたくさんの小論文となって発表され、その後の日本人類学における現地調査の方法論の基礎を築くことになった。
 これらを読むと、まだ日本語も台湾語も中国語も通じない時代に、鳥居たちはどのようにして意思の疎通をはかり、あれほどまでに詳しい調査ができたのだろうと、不思議に思う。森丑之助によれば、鳥居たちは言葉が通じないため、二ヵ月間ただひたすら観察し記録するだけであったという中島藤太郎が火傷により死亡して二、三日たったとき、村の酋長と有力者が鳥居のもとに現れ、ヤミ族は死ねば「mata anito(マタ アニト)(アニト[霊魂]の目)」となって天に輝くと信じている、中島氏の霊も今頃は空に輝く星となっているだろう、と言って慰めてくれたとある。鳥居の書いた手記の中でももっとも心をうたれる美しい部分だ。しかし実際はヤミ語で「星」はmata-no-angit(マタ ノ アギット)「空の目」であり、アニトではない。しかしangit「空、天」のngをnと聞き違え、末尾のtをかな書きすれば「ト」としか表せない。「アニト」と混同したのも無理からぬことだった。しかしともあれ、紅頭嶼の研究が、その後の鳥居の研究者としての出発点となった。
 じつは前述した二人の助手が先に島を離れたその同じ便船には、台湾原住民研究のもう一人の先達・伊能嘉矩(一八六七−一九二五)も乗っており、鳥居を訪ねている。紅頭嶼に数時間滞在したものの調査は行われなかった。主として漢文を書いて意思を疎通させていた伊能には、まだ漢文を読める人が誰もいなかったヤミ族相手では、調査のしようがなかったからだろう。当時の原住民調査の困難がしのばれるのである。
 
二、浅井恵倫[一八九五−一九六九]
 鳥居龍蔵の紅頭嶼についての詳細な報告書は、大いに内外の注目を集めた。後にフィリピン・、バタネス州知事(一九〇八−一九一〇)となったOttoJ.Scheerer(一八五八−一九三八)はさっそくドイツ語に翻訳し(Ein ethnographischer Berichtüber die Insel Tobago [nach R. Toriis Kotosho Dozoku Chosa Hokoku] Mittheilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur-und Völkerkunde Ostasiens 11.2: 145-212.1908)、さらに鳥居の採集したヤミ語の単語を比較し、ヤミ語が台湾本島の言語よりはむしろフィリピンの言語に近いことを証明した(The Batan Dialect as a Member of the Philippine Group of Languages. Manila: Bureau of Science, Division of Ethnology Publications 1. 1908)。
 台湾が日本統治となった一八九五年に生まれた浅井恵倫は、早い時代からマライ語やポリネシア語、そして人工語であるエスペラント語に興味を持っていた。大正七年(一九一八)に東京帝大文科大学言語学科を卒業したが、卒業論文は、ポリネシア諸語についてエスペラント語で書いた。おそらく鳥居やシェーラーの論文を読んで興味が触発されたのだろう。鳥居はすぐれた人類学者であったが、言語学的な聞き取りにやや問題があったのも、上述したとおりである。おそらく浅井は、自分のような言語学者こそが正確な聞き取りをしなければならないと思いこんだのだろう。一九二三年、一九二八年、一九三一年の三回にわたって紅頭嶼を訪れ、ヤミ語の調査を行い、その成果はA Study of the Yami Language, An Indonesian Language Spoken On Botel Tobago Island(Leiden:J. Ginsberg, 1936)となってまとめられ、オランダのライデン大学に博士論文として提出され、受理されたのである。
 浅井は言語学者としてはじめてヤミ語の構造を明らかにすることに成功した。まだ「音韻論」や「音素」などの概念も、ようやくその萌芽が見られ始めた時代である。トルベツコイによる古典的名著『音韻論の原理』(一九三九)の中にも、浅井のヤミ語研究について言及され、ヤミ語が音韻論の考えを具体的にひとつの生きた言語に適用した世界で初めての例となった。この研究によって一九七〇年代に至るまで、ヤミ語が台湾原住民諸語の中でも研究がもっとも進んだ言語の一つだったのである。
 
三、鹿野忠雄[一九〇六−一九四五]
 小さい頃から昆虫少年だった鹿野忠雄は、大正一四年(一九二五)台湾総督府高等学校高等科(後の台北高等学校)が設立されるとともに入学し、登山と昆虫三味にふけるようになった。紅頭嶼をはじめて訪れたのは、昭和二年八月のことである。そのとき、鹿野は紅頭嶼の自然とヤミ族の独特の文化にすっかり魅了されてしまった。授業などはそっちのけで山地にばかり入り浸っていたため留年せざるをえなくなり、昭和四年三月にやっと卒業させてもらったが、大学受験はさておいて、翌四月、二回目の紅頭嶼行を計画し、高雄港に来てみると、台北帝大文政学部土俗人種学教室教授・移川子之蔵(一八八四−一九四七)、助手・宮本延人(一九〇一−一九八八)、学生・馬淵東一(一九〇九−一九八八)、在野の民俗学・考古学研究家・小此木忠七郎の一行とばったり出会った。鹿野もこの一行に加わり、行動を共にしたのである。土俗人種学教室の最初にして最後の唯一の学生だった馬淵東一は、のちに偉大な民族学者となるが、これが初めての野外調査だった。この一行が紅頭嶼に着くと、いれちがいに植物学者・瀬川孝吉(一九〇六−一九九八)が紅頭嶼の調査を終えて台湾本島に帰った。若き研究者・鹿野忠雄、瀬川孝吉、馬淵東一の三人の運命的な出会いである。(山崎柄根『台湾に魅せられたナチュラリスト・鹿野忠雄』平凡社1922)翌年の昭和六年には、瀬川孝吉は稲葉直道と共著で『紅頭嶼』(生き物趣味の会)という本を発表している。
 鹿野忠雄は昆虫学、動物学だけではなく、自然人類学的、文化人類学的、考古学的なあらゆる面で、そして紅頭嶼ばかりではなく台湾本島の山地、原住民諸族について幅広く研究を深めていった。動物相、昆虫相からしてウォーレス線の北限は台湾本島と紅頭嶼・火焼島との間にあることを発見したのも鹿野忠雄である。昭和五年四月、東京帝大理学部地理学科に入学するが、相変わらず鹿野はフィールドワークに没頭し、結局、博士号を授与されたのは昭和一五年、京都帝国大学からであった。ヤミ族や紅頭嶼関連のたくさんの論文があるが、中でも瀬川孝吉との共著によるIllustrated Ethnography of Formosan Aborigines. The Yami Tribe. (Tokyo, 1945)をあげなければならない。敗戦直前だったため、出版後ほどなくして空襲によりほとんどが灰燼に帰した。戦後、一九五六年に丸善から再版されたが、印刷した八〇〇部のうち四〇〇部を製本しただけで、残りは理由不明のまま廃棄処分されてしまうという不運な運命をたどった。鹿野忠雄自身も、陸軍省からボルネオの民族調査の依頼を受け、昭和一九年八月に北ボルネオに入ったものの、一年後の昭和二〇年七月、キナバル山をのぞむタンブナンで目撃されたのを最後に、消息を絶ってしまう。一説によれば、日本の憲兵によって撲殺されたのだという。享年三八。あまりにも早く、そして無惨な死であった。
 なお、移川・宮本・馬淵によるこのときの紅頭嶼調査の結果は『台湾高砂族系統所属の研究』(東京・刀江書院、一九三五)の一部に含まれている。さらについでを言えば、浅井恵倫のヤミ語調査の結果の一部は『原語による台湾高砂族伝説集』(東京・刀江書院、一九三五)にもヤミ語テキストとして収録され、これら大著二冊は翌年それぞれ日本学士院賞と恩賜賞を授与された。両冊ともそのスケールと量においてこれを凌駕するものは、以後出版されていない。民族学と言語学それぞれの分野における金字塔といってもよいものである。また馬淵にとって最初のフィールドとなった紅頭嶼についての論文はほとんどないが、帝国学士院『高砂族慣習法語彙』にその時の経験と調査が十分に生かされている。
 
浅井恵倫とヤミ族
[アジア・アフリカ言語文化研究所蔵]
 
駐在所前で撮影されたヤミ族と日本人
前列左から宮本延人、後藤武夫、小此木忠七郎、移川子之蔵、後列左から田中、鹿野忠雄、馬淵東一。
[『人類学玻璃版影像選輯』国立台湾大学出版中心(一九九八年)より]
 
 ヤミ族は、台湾原住民としては珍しく、酒もタバコも、戦後までのむ習慣がなかった。のちにすぐれた民族学者となった馬淵東一が、最初のフィールドワークを行った紅頭嶼を、どうしてそれ以後二度と訪れようとしなかったのか、私はながらく疑問だったのだが、お酒が大好きでもあった馬淵にとっては、酒が飲めない紅頭嶼は、あまり行きたくないフィールドだったのかもしれないと、直弟子の笠原政治横浜国大教授は言う。あるいはまた、畏友・鹿野忠雄のフィールドを荒らしたくないという心理もはたらいたかもしれない。多いにありうることではあるが、ヤミ族にとっては、残念なことでもあった。
 もう一つついでにふれておきたいのは、この歴史的な紅頭嶼における写真のほぼ中央に写っている後藤武夫警官のことである。後藤はプユマの頭目系の出身で、戦後はパイワン族の女頭目と結婚し、台東県金崙村に住んだ。プユマ語はもちろん、ヤミ語、パイワン語、日本語、台湾語、そして中国語をよくし、語学の天才だった。一九七一年、松澤員子(現在神戸女学院理事長)が住み込んでパイワン調査をしたときのアシスタントが、この女頭目だった。馬淵東一が調査中の松澤員子を訪ねたとき、後藤武夫との再会に驚き、また大喜びしたそうである。私もパイワン語方言調査のためこの村に二、三日滞在し(一九八一年一〇月)、後藤武夫にも会ったことがある。亡くなる二年ほど前のことだった。いろいろな人の出会いがあるものだと、つくづくこの世の不思議を感ずるのである。







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