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III 劇場の衰退
■映画上映の興行
 新しいスタイルで、自らの望む興行をおこなうという理想をいとも簡単に実現した各地の芝居小屋は、まさに「娯楽の殿堂」として地域に愛され、定着したが、その幸せな劇場の時代は長く続かなかった。
 そのもっとも大きな要因は映画であった。帝国劇場や内子座が設立されたときには、映画は、日本でもすでに最初の黄金期を迎えつつあった。日露戦争の記録映画は歌舞伎座ですら上映されるほどの人気で、また、歌舞伎の記録映画も制作され、各地で上映された。とくに芝居興行がおこなわれない夏場は劇場にとってありがたい素材であった。映画は、従来劇場に足を運ばない層を確実に劇場に足を向かせ、また、映画フィルムの不足を補い興行時間を長くすることを目的とした連鎖劇(映画の前後譚を実演で付け加えた興行)が流行したことも手伝って、芸能の大衆化に貢献した。芝居小屋では、最初から映画上映がおこなわれ、また、帝国劇場においても芝居興行がおこなわれない慣行になっていた八月には映画が上映されている。
 ではなぜ映画上映が劇場の時代を終わらせる要因になったのだろうか。
 一般に、映画は繰り返し観ることができるために、芸能の一回性を阻害したといわれる。もちろん、団菊の競演という稀にみる配役を歌舞伎記録映画(「紅葉坂」)でモノクローム音声無しとはいえ、手軽に味わえるのは画期的なことであり、その一方で芸能の神性は薄められたことだろう。また、一生見られぬ外国の景色を眼前にするのも、芸能では得られぬ体験であったに違いない。
 しかし、それよりも大きかったのは、劇場構造への影響であった。映画が興行上利益を生むものであるとの認識が広まると、山間の町にいたるまで映画館が建設された。内子町でも一九二五年には旭館という「活動写真館」(映画館)が設立された。内子の場合、すみわけが成功したのか、内子座は存続したが、もともと映画も上映した芝居小屋の多くは観客を奪われた。いきおい、人が集まる映画上映をたやすくするために、劇場構造の改変をおこなう劇場も増えた。一九二〇年代から二階正面の大向こうという芝居好きが集まる席をつぶして映写室を建設する劇場が増え、現存劇場のなかでは一九三七年設立の「ながめ余興場」(群馬県大間々町)は最初から一階に映写室が備えられていた。当時のフィルムは可燃性で火事の原因となっていたから、映写機を設置した映写室は厚さ一〇センチを越えるコンクリートで覆うことが決められていたために、大きく重くなり、席数を奪うのみならず、二階に設置されると劇場に撓みを生じさせ、寿命を縮めた。また歌舞伎などに比して短時間・安価の興行である映画では、観客の入退場をスムースにおこなう必要があるために、桝席では支障があり、椅子席化が進行した。加えて、芝居では許された見切り席は映画では許されず、両サイドの桟敷席も取り払われていった。そもそも一九二〇年代に相対的には大きく観客を減らしていた歌舞伎に必要な回り舞台や花道は次第に軽視され、場合によっては取り払われた。いくら地域の人々の出資による娯楽の殿堂であったとはいえ、否、そうであったからこそ小さな芝居小屋はもっとも人気のある出し物をかけざるを得なかったのである。
 もう一つ、映画は製作に芝居以上の資本を必要としたために、地域の声はあまり反映されず、マスとして全国でどれだけの観客が入ったかが重要になり、興行の大資本集中がすすんだことが挙げられる。すでに、一九一〇年代には大劇場を松竹が寡占して「松竹の劇場トラスト」と揶揄される状況が進行していたが、まだこの時期には、九州、東北、といったエリア毎に地方劇団が、歌舞伎を換骨奪胎した芝居興行を多数おこなっていて(だから市川団十郎が何人もいたりする)、彼らの芝居に関しては、地域の興行主が要求を出すこともできた。しかし、彼らが占める割合が、徐々に狭まったのである。映画製作に松竹が本格的に乗り出すと、映画の配給も松竹に一元化され、画一化していった。この結果、芝居の面での寡占もいっそう進行した。
 
■小林一三の劇場経営
 それでも帝劇は、関東大震災時焼失後の翌一九二四年一〇月に再建の際には過去十余年の蓄財一〇〇万円が使用されたというから安定した経営を続けていたのであろう。しかし、それ以降は、芸能の多様化、帝劇を活躍の中心としていた新派の不振、映画やラジオ放送などの新たな娯楽の登場などで、帝劇は貸し小屋化が進んだ。そもそも渋沢栄一たち大資本家の出資であった帝国劇場は、まぼろしの国立劇場を代替するという大きな目標を掲げていた反面、誰のための何を目的とした興行かという視点に欠けていた。採算面においても、大きな見通しを持っていなかった。宝塚少女歌劇を創設した小林一三は帝劇を批判して、歌舞伎以上の見るべき演劇がないこと、旧来と同じキャパシティで従来と同様の興行では経済的に成り立たないことを指摘し、失敗だと断じていた(「大阪毎日新聞」一九二一年二月二七日、三月六日、四月三日)。
 
宝坂少女歌劇を創設した小林一三。
帝劇再生を目指した
[阪急電鉄株式会社提供]
 
 ついに、一九三〇年一月に松竹に買収(表向きは賃貸)されることになった。松竹側の叙述によれば、帝劇側の借金は七〇万円におよび、保証金三〇万円・月に一万二千円、一〇年賃借で借金を償却するとの賃貸条件であったという。しかし、買い興行の増加などで経営はかげりをみせ、松竹移行後の帝劇では、移行記念に一度大歌舞伎がおこなわれたのみで、もっぱら映画館として利用された。これは再建後の帝劇が、換気暖房設備を整えていたうえに椅子席で舞台正面が見やすく映画上映が可能であったことと、キャパシティが歌舞伎座などに比して少なく、規模を増していた大歌舞伎などの大規模な実演芸能では利益がでないことを勘案した松竹の劇場経営戦略であったと思われる。帝国劇場こそは、この映画の爆発的人気と松竹による興行の独占の影響を真正面から受けた劇場であった。
 松竹は、一九一〇年代より買収した劇場を、キャパシティと設備によって、歌舞伎、家庭劇、演芸、映画と演目を振り分けて行った。結果として、道頓堀五座に数えられる江戸時代以来の名門弁天座(旧竹田芝居)が家庭劇の劇場になるというようなこともあったから、帝劇の映画館化は特別なことではなかったともいえるだろう。豪華な内装と整った設備で人気を博したが、当然、一人当たりの入場料が低い映画では経営が成り立たず、結局帝劇は、賃借期間の一〇年の満了を待たないで、一九三七年一二月、東宝が帝劇株式会社を吸収合併し、松竹との契約満了を待って四〇年二月より新派中心の劇場に生まれ変わった。帝劇の経営を批判していた小林一三がその主となったのである。
 
昭和三九(一九六四)年一月、
閉場直前の帝国劇場南側面外景。
最後の上映映画は『アラビアのロレンス」であった
 
閉場直前の帝国劇場外観
 
閉場直前の客席
[『帝劇の五十年』束宝株式会社より]
 
 東宝は、いうまでもなく、阪急電鉄が宝塚少女歌劇を基礎として、一九三二年に設立された株式会社東京宝塚劇場である。小林一三は、一九二〇年ころには、松竹は旧態依然の歌舞伎に固執して「宏壮美麗」な中座を建設するなど経営感覚が欠如していると、松竹の批判を繰り返し、劇場運営と演劇の近代化を主張したが、一九三〇年ころからは「国民大衆を相手の事業が一番安全の投資物件であることが理解され、それが証明せられる時は、興行界は一変して光明に輝くものと信じている。それ迄は、現在の松竹系を中心として、芝居も映画も、トーキーも経営せられるより外に途はないのである。」(『歌劇』一九三二年一月)と述べて松竹との連携をすすめ、東宝自身、松竹に次ぐ興行会社に成長した。映画にも積極的に進出し、大阪に北野映画街を形成しつつあった。
 帝国劇場は、戦災をはさんで、一貫して東宝の一劇場として現在にいたっており、その名前を除けば、“普通の”商業劇場となった。
 
■帝国劇場が目指した国立劇場
 一方、帝国劇場が目指していた国立劇場自体はどのようになったのか。
 国立劇場への構想は、その後も再燃した。たとえば、一九二一年に、オペラ歌手笹本甲午が、営利を目的としない劇場の設立を提唱し、貴族院衆議院に請願し、鳩山一郎らの賛同を得ていた。また、警視庁主導の演劇改善策が画策されていた一九二二年末には、観覧税などの廃止を主張していたグループが「改善の最も急務は国立劇場の設立で模範的な芝居入場料の安い芝居を国民一般に見せ、我演劇の位置を向上せしめ度いと同時に国民に簡単で質のよい芝居を観せ」るために本議会に請願もしくは建議することを計画していた。それは、「国立劇場は国家が費用を負担して、所属は内務省或は文部省の社会局に属せしめ所属俳優は定めないで、各座から都合の宜い俳優も出演するのだが帝劇、松竹、市村の各専務は充分了解を得て居るから独逸、仏蘭西の国立或は市立劇場の例を参酌して立案の予定」であった(『都新聞』一九二二年一二月二七日)。この議論は、現実にある芸能と劇場を基礎として劇場の国家維持を提唱したもので、依然として“演劇改良”的発想を含んではいたが、観念的な西洋崇拝を背景に唱えられた帝国劇場以前の国立劇場構想からは一歩も二歩も踏み出したものであった。
 一九三六年にも演劇法や映画法が画策されるなかで、早稲田演劇協会と大日本俳優協会が協力をして国立劇場設置委員会が設けられ、仏・独・露・英・米の国立劇場調査を前提とした「総合芸術の王者たり国民文化の精髄たる演劇が未だ曾て国家の保護を受けたる事無きは、我々の最も遺憾とする所である。乃ち我々は国立劇場の建設を要望して、一は世界的古典芸術たる歌舞伎の保存に資し、一は新時代を反映する新しき国劇の打成向上に寄与し、併せて国賓の接待・国家的祝典等に便して国際的使命を果たさんことを冀ふ所以である」との国立劇場建設趣意書を国会に建議し、建議案は翌三七年に満場一致で衆議院を通過したが、日中全面戦争の開始と総動員体制の推進のなかで立ち消えになった。この、戦前においては、もっとも実現に近づいた国立劇場構想の背景には、皇紀二千六百年祭を頂点とする国民精神総動員運動を先取りするような、演劇による日本精神の鼓舞を目的とした国粋主義的な面と、一九一〇年代以降全国に建設された多数の劇場=芝居小屋にみるように、演劇をはじめとする芸能の急速なひろがりがあった。
 
IV 戦後、国立劇場の設置
■伝統芸能保存のための劇場
 戦後になると、文化国家の建設が提唱されて、国立劇場設立に関する議論も再び活発になる。とくに、片山哲内閣下の一九四七年一一月には総理大臣の委嘱により、芸能文化関係の学識者による演劇文化委員会が発足した。この委員会の案によれば、大・中・小の三劇場と付属国立演劇学校の建設、歌舞伎、人形浄瑠璃等の伝統芸能の上演に加えてオペラ・バレエ等の上演を目的とし、建設までの暫定的措置として日比谷公会堂の使用と、各都市の劇場を無形国立劇場とすることが、その内容であった。これを受けて、『国際』一九四八年新年号をはじめとして新聞・雑誌などでも盛んに議論され、同委員会案は国会上程にこぎつけたが、片山内閣の崩壊にともない、立ち消えになった。
 国立劇場設立が次に具体性を帯びて議論されたのは、一九五四年の文化財保護法が改正されて、重要無形文化財指定制度が施行されたのを機に、文化財保護委員会が芸能施設調査研究協議会を発足させ、国立劇場設置を諮問したときであった。一九五六年には協議会は国立劇場に関する基本構想を答申し、閣議決定により、新たに国立劇場設立準備協議会が発足し、初めて建設具体化へ向けてスタートした。一九五六年の中間答申では、伝統芸能のための、二五〇〇人収容の大劇場と一〇〇〇人収容の小劇場という案がまとめられたものの、敷地獲得に二年を要する過程で、オペラ・バレエ・新劇など現代芸能関係者から、現代芸能のための施設建設が強く要望されて、再検討の結果、一九五九年には、一五〇〇人(伝統芸能)・二〇〇〇人(現代芸能)・七〇〇人(能楽堂)・八〇〇人(伝統芸能)の四劇場案が、答申されたが、敷地面積の関係から一五〇〇人(伝統芸能)・二〇〇〇人(現代芸能)・八〇〇人(伝統芸能)を、それすらかなわない場合には一五〇〇人(伝統芸能)・八〇〇人(伝統芸能)の二劇場を建設するという修正案が答申された。結局、一九六六年に竣工した国立劇場は、大劇場一七四六人小劇場六三〇人の、伝統芸能のための劇場となった。
 国立劇場設立過程の議論の一端は審議会の議事録などから明らかとなるが、もっばら議論の対象になったことは、伝統芸能の保存が必要であることと、敷地の確保、それに資金の問題であった。答申取りまとめの際に調査された二五ヵ国五二劇場の設立目的・事業内容・運営方式・財政制度・付属施設などや、各界からの国立劇場に対する要望―とくに付属劇団・オーケストラ等ソフト面の要望が多かった―などが議論の俎姐上にのぼることはほとんどなかった。また、財政は当初から独立採算が原則とされ、国の一般会計から国家公務員の給与のみの繰り入れが期待されていたのみであった。この背景には厳しい国の財政のなかで、国立劇場は維持運営に膨大な資金が必要との認識を払拭し、いち早く開設にこぎつけたいとの思いもあったとはいうものの。
 
■新国立劇場設立の争点
 このように、劇場の形態を優先し、運営の具体的方策を後回しにする議論は新国立劇場設立時にも繰り返されて、物議をかもすこととなる。劇場の運営と規模をめぐる問題は、新国立劇場(一九九七年秋開場)計画が具体化した一九八四〜八五年にも、建築家・音楽家を巻き込んで、複雑な論争に発展した。そもそも、一九六六年完成の国立劇場の目的が日本の伝統芸能に限定された際に、国会で「伝統芸能以外の芸能の振興を図る必要な措置を講ずべきこと」が決議されたことを背景に、新国立劇場(当時は第二国立劇場)計画の模索が始まった。高度経済成長期には、専属の管弦楽団、合唱団、バレエ団を含む壮大な構想があったが、オイルショック以降の低成長のなかで大きく後退、それがやっと動きだしたのがこの時期であった。打ち出された基本構想によると、場所は、渋谷区本町一丁目(いわゆる初台)の旧通産省東京工業試験場跡地の約三万平方メートル、オペラ・バレエ・ミュージカルのための大劇場(客席一六〇〇席)を中核に、現代演劇・室内オペラなどのための中劇場(一〇〇〇席)、実験劇場的な小劇場(三〇〇〜四五〇席)を併設するというものであった。
 これに対して、日本建築家協会や團伊玖磨・黛敏郎ら音楽・舞台関係者の一部が異論を唱えた。批判の骨子は、(1)初台は狭いうえに高速道路に挟まれるなど国立劇場にふさわしくない、(2)大劇場の使用目的のなかに商業演劇のミュージカルを含めたのはおかしい、(3)客席一六〇〇席は首都のオペラハウスとしては小さすぎるうえに、アイーダなどのグランドオペラに適さない、(4)設計コンペは国内に限らず国際コンペにするべきだ、との四点に集約できよう。基本構想を取りまとめた側と批判するグループのそれぞれの意見は各新聞・雑誌紙上で展開された。オペラ制作の現場にたずさわる声楽家・指揮者・制作スタッフの大半は、基本構想に沿った早期のオペラハウス実現を支持した。また、建築家内部でも日本建築家協会の意見に異議を述べるものがいた。論点は多岐にわたり、個人的な確執や劇場建設理念の理解の差などから噛み合わない意見も多数みられたが、反対者の意見のなかには、日本の劇場理解の特殊性を典型的にあらわした部分もみられた。その詳細を浅利慶太と黛敏郎(『文芸春秋』一九八四年七月号、九月号)および遠山一行と黛敏郎(毎日新聞』夕刊、一九八五年三月二五日、五月二〇〜二一日、六月三〜四日)の論争における黛の発言にみてみよう。
 黛は、五〇〇億円の建設費がかかる二国は現状の財政状態では建設不可能であることを前提として「国の予算だけに依存しなくても」「可能とする何らかの方法はないのか、という発想の大転換も含め」議論するとしたうえで、初台は「およそ国立オペラ・ハウスとして、あれ以上不適当な場所を探せといっても、まず無いくらい」で「日本が初めて持つ国立オペラ・ハウスがあの場所では・・・。情けなくて涙も出ない。」という。そして、ふさわしい場所として日比谷公演や丸ノ内の都庁舎跡を構想する。また、座席数に関して、第一に基本構想が手本としたベルリンドイツオペラは狭すぎて「ロマンティックないし写実主義的演出には向かない」こと、第二に、一六〇〇席の構想がまとめられた頃は、二国がオーケストラ・合唱団・バレエ・ソリスト・制作スタッフ等を常置し自主制作をおこなうことを前提としていたことを指摘し、その後、「専属オペラ団は置かず、年間約五十日の自主制作以外は貸し小屋にするという方針」が打ち出された現在、一六〇〇席では貸し小屋として「興行的に採算」が採れなくなって、「国立オペラハウスに閑古鳥が鳴く」事態になるとする。また、使用目的にミュージカルが含まれている点については、オペラやバレエが商業的ではありえないのに対してミュージカルが極めて商業的であることと、拡声器を使用するミュージカルと「生ま」の音であるオペラでは「アクースティク」が異なることを指摘して、認められないとした。
 この問題提起には、オペラが特別な存在であり、その専用劇場としての第二国立劇場はそれに相応しい立地条件であるべきだし、ヨーロッパの伝統的劇場はその都市と国家の顔となるべき場所に存在しているという、いわば「国家の劇場」としての側面が強調されている一方で、できあがる国立劇場が、しょせん「貸し小屋」中心になるとの前提に立った採算重視の発想とが混在していた。それを象徴的にあらわしたのが、ミュージカルの排斥の論理であった。オペラやバレエが「十九世紀までは王侯貴族が、二十世紀以降は国や地方自治体や財閥が、援助しない限り成り立」たないもので、商業主義のミュージカルとは「一線を画」さねばならないとする。ここでは採算が採れないものとしてのオペラやバレエの優先が説かれ、大劇場論との矛盾も露呈していた。
 團伊玖磨らの見解もほぼ同様であると考えられるが、ここには、戦前日本の国立劇場構想から存在した、いわば“帝国の劇場”としての威信の必要性という国家意識と、戦後の公立文化施設の増加に伴う商業的劇場の相対的減少および公立文化施設の貸し小屋化に対するあきらめと苛立ちが如実に反映していた。
 一方、戦後の地域の芝居小屋は、といえば、戦争直後の食糧難の時代に農村に向かったスターたちが舞台に立って一時の活況を呈したが、一九六〇年代からの、娯楽の多様化やテレビの普及、市民会館などの公立文化施設の急増などによって、より大きな都市から姿を消した。地価の高い大都市中心部では商業的に成り立たなくなったのである。その動向は地方都市にも波及し、一九七〇年台半ばには壊滅状態となった。現在、約二〇の劇場が個人と地域の努力や行政の支援によって活動を続けているのみである。
 
■劇場の公共性獲得を求めて
 国立劇場と、公立文化施設が戦前の芝居小屋や帝国劇場を十分に検討することなく、とくに暖昧な教育的配慮と国家(または地域)発揚を目的に設立され、松竹や東宝の大都市商業劇場や映画館と断絶した存在となり、断絶が最近にいたるまで継続したことは、日本の劇場をめぐる状況を不幸なものにした。
 先にも指摘したように、この二つのタイプの劇場群の運営は、日本における劇場の公共性のあり方や、国家と劇場の関係を象徴していると思われる。我々は現在、経済的苦境のなかで、劇場の公共性をいかに獲得しうるかに苦しんでいる。その背景には、劇場運営を市民の手に取り戻すことと行政による安定的な経済的基盤の保持とが整合しがたいという重い課題がある。国家にせよ地域にせよ、その基盤に関する市民の合意がないかぎり、劇場が消費されてしまうという轍を再び踏むことになるのではあるまいか。
・・・〈高畠華宵大正ロマン館〉
 
参考文献
嶺隆『帝国劇場開幕』中央公論社 一九九六年
徳永高志『芝居小屋の二十世紀』雄山閣 一九九九年
徳永高志『劇場と演劇の文化経済学』芙蓉書房 二〇〇〇年







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