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ヴァヌアツの地理と自然
 ヴァヌアツは、オーストラリア、シドニーから2,550km北の南太平洋上に位置し、ニューカレドニアの北200km、フイジーの東800kmの所にある。南北に1,300kmにわたるY字型の鎖状に連なる約80の島々から構成されている。エスピリッツサント島(サント島)、マレクラ島、エファテ島、タンナ島等の13の群島があり、総面積は、わが国の新潟県とほぼ同じ大きさである。
 この地域の島は、主に隆起珊瑚礁の高台をもつ火山島が多く、現在でも激しい爆発を繰り返している活火山もいくつかある。多くの島は、起伏の激しい山並みを持ち、深い森林で覆われている。海岸線は、フィジーやポリネシアの島々と比べて、リゾートに適した白砂ビーチは少なく、マングローブに覆われたところが多い。また、島の隆起により、海底が深くなっている為、大型船の航行が海岸近くまで可能となっている。
 気候は、南部が亜熱帯、北部が熱帯気候に属し、高温多湿であるが、海洋性のため凌ぎやすい。雨期は、11月から4月で、この時期に、度々サイクロンが発生する。5月から10月にかけては、晴天が続き、南東の貿易風が強くなる。また、火山帯に属し、度々強度の地震がある。
 
エファテ島
 
エファテ島のビーチ
 
ポートビラリゾート
 
ヴァヌアツの歴史
 ヴァヌアツでの最初の定住者は、紀元前3000年前ごろ、東南アジアから、インドネシアやニューギニアをへて移動してきたメラネシア人であると言われている。今のところ、ヴァヌアツで発見された最古の定住跡は、紀元前1400年頃のもので、出土した土器から日本の縄文土器と類似の文様を持つものが発見されている。
 11世紀から15世紀にかけては、南太平洋の東側からポリネシア人の大移動があり、その一部はヴァヌアツに定住し、様々な技術や異なった生活習慣を持ち込んだ。移住者も従来の居住者と同じように、それぞれで集落を作り、共同での生活を営んでいた。集落間の争いは、頻繁にあったが、強力な部族がなかったため、広い地域で統一されることがなかった。結果として100を超す言語や多種多様な慣習、文化が、今日まで残された。
 西洋との出会いは、1606年にスペイン人探検家、キロスにより、サント島が発見されたことに始まる。その後、1768年に、フランスの貴族ルイス・ブーガンビルがマエウォ島とペンテコスト島を発見している。18世紀になると南太平洋地域での英国の進出が目覚しくなった。この時期に、英国人キャプテン・クックは、探険のため訪れたヴァヌアツ諸島を「ニューヘブリデス」と命名した。1800年代の始め、白檀の木が発見されたことがきっかけとなり、ヨーロッパからの入植者が増加した。1870年代になるとフランスの進出が目立つようになり、農園経営における英国とフランスの緊張が高まった。英仏の利権争いは、激しさを増し、1886年には、フランスは、エファテ島に軍を送った。その後、1906年の協議の結果、「ニューヘブリデス諸島」は、英仏2カ国の統治下に置かれることになった。共同の統治下では、行政、司法、法律、警察、教育等全てが、2つのシステムを持つことになり、公式文書も英仏2カ国語で記載することになった。
 第2次大戦で、日本軍がソロモン諸島のガナルカナル島まで南下したことから、アメリカ軍は、1942年5月から、ヴァヌアツを前線基地として、エファテ島とサント島に数万人の兵隊を送った。特に、北部のサント島では、5つの空港、4つの病院、43の劇場を持つ、10万人の軍人が往来する街が出来上がり、軍事景気に沸いた。そして1945年の終戦により、アメリカ軍が引き上げ、街は元の静けさに戻った。
 1977年頃からイギリス寄りの急進派ヴァヌアク党を中心とする独立運動が高まり、行政は、実際的に自治政府で行われるようになった。1979年に総選挙で、ヴァヌアク党が圧勝し、それまで政権を握っていた親フランス派は、惨敗を喫した。1980年5月に分離独立派の反乱が発生し、その後、1980年7月に、英仏両政府の協力により、独立が認められ、新生「ヴァヌアツ共和国」が誕生した。







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