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私はこう考える【自衛隊について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2001年12月号 Voice
行使された集団的自衛権
佐瀬昌盛(させまさもり)
(拓殖大学海外事情研究所所長)
安保理決議一三六八号「前文」
 九月十一日に米国のニューヨークとワシントンで乗っ取り旅客機による同時多発テロが発生し、その翌月の十月末にはわが国で略称「テロ対策特措法」が成立した。信じがたいスピードでの立法成就である。それを可能にしたのは、基本的には次の二つの事情だろう。
 第一、ほぼ十年前の湾岸危機/戦争時の苦い記憶、すなわちカネを出す以外には不作為に終始した屈辱感がバネとなったこと。同じ屈辱を再度重ねる場合には日本は沈没しかねないとの危機感が、朝野に充満していた。
 第二、対韓、対中関係できしみが生まれていたとはいえ、小泉政権が依然として高い国民的人気を獲得していたし、なおそうであること。第一の事情に加えてこの第二の要素があったからこそ、新たな国際危機に対し政府と立法府とは湾岸危機/戦争時とは大きく異なる対応をとることができた。そのこと自体は評価されてよい。
 その反面、九月十一日から六週間ほどのあいだの姦(かしま)しかった国内論議に耳を傾けていると、最初のボタンが――もともと三十年ほど昔に――懸けちがえられているため、費やす必要のないエネルギーが浪費されたとの思いを禁じえない。本稿はその思いの産物である。
 議論の方向が狂っているのではないかとの思いが私を捉えたのは、悲劇の翌日に国連安保理が早々と採択した決議一三六八号についてのわが国の報道や政府、有力政治家たちの反応を知ってであった。これを説明するためには、まずその決議一三六八号を眺めることから始めなければならない。
 同決議全体はいわば前口上と六項目の決議事項とから成っている。説明の都合上、まず六項目を先に眺めよう。
 それは前日のテロ攻撃につき、(1)これを「明確に非難」し、かつ、この種の行為を「国際の平和及び安全に対する脅威であると認める」、(2)犠牲者とその家族および米国民と米国政府に対し深甚な「同情及び哀悼を表明する」、(3)テロの犯人、組織、後援者を法の裁きにつけるようすべての国家に「求め」、彼らにその責任を問う旨を「強調する」、(4)とくに一九九九年の安保理決議第一二六九号の完全実行を期して国際社会に協調努力を倍増するよう「求める」、(5)国連憲章下での安保理の責任に従ってテロに対応し、テロと戦うため「あらゆる必要な手順をとる用意」を表明し、(6)この問題に引き続き関与してゆくことを「決定する」、とするものであった。
 この六項目が厳密には決議事項なのであるが、この種の安保理決議にはその趣旨説明に当たる前口上が付される。それを以下では「前文」と呼ぶことにするが、決議一三六八号には三段にわたる「前文」が置かれた。決議事項そのものが重要であるのはいうまでもないが、いかなる趣旨、いかなる動機から次なる決議がなされたかを語る「前文」部分は、ときとして具体的決議事項よりも重要な意味を含むことがある。私見では、決議第一三六八号の場合がまさにそれに当たる。同決議の三段にわたる「前文」はこうである。
 「安全保障理事会は/国際連合憲章の原則及び目的を再確認し、/テロ活動によって引き起こされた国際の平和及び安全に対する脅威に対してあらゆる手段を用いて闘うことを決意し、/憲章に従って、個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識し、・・・」先に示した六項目がこれに続く。
 わが国の報道機関は無論、右決議の採択を一斉に報じた。しかし、その初動報道には一つの共通の特徴があった。決議事項の報道に重点が置かれ、「前文」の部分は相対的に軽視されたのである。私はすべての報道機関の報道をチェックしたわけではないが、目を通したかぎりでは、第(5)項に挙げられた、テロに対抗するため「あらゆる必要な手順をとる用意」のくだり、そして「前文」第二段の――同趣旨の――「あらゆる手段を用いて闘う」のくだりにもっぱら照準が当てられていた。もちろん、そのこと自体は間違っていない。信じがたい事態の発生を前に、「安保理がいかなる措置をとろうとするのか」は国際社会の関心事中の関心事といえるものだからである。
 新聞による初報がそれだったので、この一三六八号決議にどのような「前文」が付されているのかは当初は掴めなかった。しかし、インターネットで同決議全文を入手、一読して私は唸った(うなった)。私が唸ったのは、分けてもそこに右に示した第三段の文言、すなわち、「憲章に従って、個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識し」のくだりを発見したからだ。それは、私にとり大きな驚きだった。私見では、「前文」第三段こそがこの安保理決議の核心である。だのに、わが国の報道機関はどうしてこの第三段に無関心でおれるのか。
「戦争級テロリズム」というエポック
 その構成から一目瞭然であるように、安保理決議一三六八号の六項目決議は、国連憲章第五一条に謳われている「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を「前文」第三段でわざわざ「認識(recognizing)」して採択されている。煩雑さを避けるため短い表現に置き換えると、安保理は、九月十一日のテロ攻撃への対処は「自衛権」の問題であってよいとわざわざ言及したのである。
 このことに私が唸った理由は三つある。それは、(1)安保理が乗っ取り旅客機をもってする九月十一日のテロ行為を事実上「武力攻撃」と認定したこと、(2)国家ではなく非国家が国連憲章の禁じる「武力攻撃(armed attack)」の主体たりうると安保理が認めたこと、(3)「武力攻撃」に対する反撃権、すなわち「自衛権」が憲章中に謳われている旨を、それが行使される以前に安保理としてわざわざ「認識」してみせたこと、である。
 この三点は、必ずしも分かりやすいとはいえまい。だからこそわが国の報道機関も初報段階ではその重要さに気付かなかったのかもしれない。だが、難解だから触れないでおくというわけにはまいらぬ。この三点の重要性を、できるだけほぐして説明してみよう。
 まず(1)について。九月十一日の同時多発テロは、報じられているところでは、複数のハイジャッカーたちが懐中ナイフだかカッターナイフだかで乗客、乗務員を脅し、操縦室に殺到してこれを占拠、自ら操縦する軍用機ならぬ民間旅客機を世界貿易センタービルの二棟および米国防総省にぶっつけて、破壊したという行為である。武器らしい武器も、爆弾も使用されていない。そういう「武力攻撃」がありうるのか。そもそも決議一三六八号では、この犯行が「武力攻撃」だと呼ばれているのか。
 同決議はこの犯行を「テロ攻撃(terrorist attacks)」とは呼んでいるが、「武力攻撃」という表現は直接的には使われていない。では、私がそれを「武力攻撃」と読み換えるのは行き過ぎなのか。そうではない。それを分かってもらうためには、憲章第五一条に目を通してもらわなければならぬ。そこにはこうある。
 「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃(armed attack)が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない(以下略)」
 つまり、憲章第五一条の認める「自衛権」とは、加えられた「武力攻撃」に対する反撃権なのであり、「武力攻撃」の存在こそが「自衛権」行使のための不可欠の、しかも唯一の前提条件なのだ。
 であるから、決議一三六八号「前文」第三段で「自衛権」への言及があるということは、逆にいって「武力攻撃」の発生を安保理が事実上認めたことにほかならない。でなければ、「前文」第三段はまったく意味をなさない。要するに安保理は、九月十一日の「テロ攻撃」の実質的意味は「武力攻撃」だと判断したのであり、だからこそ「自衛権」への言及が「前文」第三段に盛られたのである。
 国連安保理はこれまで、いわゆる国際テロリズムの問題をいくども手掛けてきた。けれども、たとえば米国が一九八五年に発生したローマとウィーンの両空港に対する襲撃事件や翌年の西ベルリン・ディスコ爆発で米国民の多数の生命が奪われたのを理由に、八六年四月にリビア空爆に踏み切り、この行動を第五一条に基づく「自衛権」の措置だとして正当化を試みても、安保理は米国のこの主張に同調したことはなかった。換言すると、その種のテロ行為を安保理は「武力攻撃」だとはみなさなかったのだ。
 国際法の世界でも、一九七一年発効の「航空機不法奪取防止条約」で、「暴力、暴力による脅迫その他の威嚇手段を用いて当該航空機を不法に奪取し又は管理する行為」は「犯罪行為」だとされ、「武力攻撃」とは次元が違うと考えられてきた。しかし今回、安保理は発生した「テロ攻撃」をたんなる「犯罪行為」とは見ず、「武力攻撃」そのもの、もしくはそれに相当するものと判断したのである。犯行者たちが秘めていたであろう意図、失われた人命数、破壊の甚大性、今後のマイナス影響の深刻さ、かつその長期性などを考えると、安保理でこの新判断が全会一致を見出したことは、よく理解できる。ここに、「武力攻撃」に関する国際法上の解釈には、一つのエポックが画されたのである。
 そういうことをも勘案して、私は「武力攻撃級テロリズム」という表現、あるいはそれを解かりやすくする意味で「戦争級テロリズム」という用語を使いはじめている。ところが、ある報道機関によるインタヴューを受けて「戦争級テロリズム」に言及したところ、相手記者は呆れたような表情を浮かべ、「なにを大袈裟な」といわんばかりであった。むしろ私はそのことに呆れ、これでは決議一三六八号の「自衛権」言及にわが国の報道機関が不感症であったのもむべなるかな、と密かに長歎息するほかなかった。
安保理が「自衛権」行使勧告?
 前述の(2)、すなわちテロ集団という非国家主体が「武力攻撃」の主体でありうる、したがって「自衛権」事態の対象たりうると認定されたことの意味の考察に移ろう。
 当たり前のことだが、国際法解釈の世界では「武力攻撃」の主体、したがってそれに対する反撃権の対象、すなわち行使される「自衛権」の客体は国家であるというのが常識だった。しかし、先に引用した国連憲章第五一条の規定からも分かるように、「武力攻撃」の主体、「自衛権」行使の客体は文理上不明である。この第五一条に基づくNATO条約第五条(「締約国は、ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する」)や、日米安保条約第五条(「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が・・・」)などでも同様に、「武力攻撃」の主体が国家でなければならないと読む必要はない構文となっている。
 なぜ「武力攻撃」の主体を示さない構文が伝統化したのかは、勉強不足の私には現在のところ不明である。多分、内戦状態にある国家の非政府勢力が隣国に「武力攻撃」をかける事態なども想定されたからではないかと推測される。いずれにせよ、「武力攻撃」の主体が何でなければならないかは文理上示されていないのであるから、戦争級テロリズムをその主体とみなす新解釈は十分に成立しうる。と同時にそのことは、戦争級テロリズムが憲章第五一条にいう国家による「自衛権」行使の新しい客体たりうることをも意味している。今回の決議一三六八号をそういう新解釈の先鞭とみなすことができるだろう。
 以上のように、(1)、(2)を合わせると、今回の決議一三六八号をもって、「武力攻撃」に対する「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の行使を認めた憲章第五一条の解釈には新しい地殻変動が起こりつつあると見ても誇張ではあるまい。個々の国家実行によってではなく、ほかならぬ全会一致の安保理決議によって、そういうエポックが画されつつある。私はそのことに唸ったのである。それだけに私は、ごく一部の国際法専門家を除いてわが国を掩(おお)っている、この画期への不感症ぶりが不思議でならない。
 残された(3)の問題、すなわち、「武力攻撃」に対して反撃する「自衛権」規定が憲章中に謳われている旨を、それが未行使の段階で安保理がなぜわざわざ指摘してみせたのか、その意味を考えてみよう。
 ここでも先に引用した憲章第五一条の文言に立ち戻る必要がある。そこに明らかなように、国家の「自衛権」の行使には三つの条件が付いている。第一には、先ほどから繰り返し述べているように、それに先行して「武力攻撃」を受けていること。第二には、「自衛権」の行使が許されるのは、安保理が「国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限られていること。第三には、「自衛権」行使の措置は、「直ちに」安保理に報告されること、である。
 このうち、いまここで重要なのは、第三の条件である。「この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに・・・」との文言から明らかなように、「個別的自衛権」、「集団的自衛権」のいずれの行使についても、安保理への「報告」は事後的に「直ちに」なされればよい。換言すると、「自衛権」発動の事前通告義務はない。いわんや、妙な表現で恐縮だが、安保理の側にそれとは逆の事前勧告義務なぞがあろうはずもない。「武力攻撃」があったと判断された場合、「個別・集団の自衛権」の発動いかんはその発動主体の自前の判断に委ねられている。その行使の正当・不当性は、「報告」を受けた安保理が事後的に判定するのである。
 この仕組みが理解されるなら、今回の決議一三六八号で憲章にもとづく「自衛の固有の権利」が安保理構成十五ヵ国の全会一致をもってわざわざ事前に言及されたことは、きわめて注目に価する。というのも、本来、「前文」第三段の文言は不必要なのだからである。安保理によるそんな事前の「認識」表明がなくとも、「武力攻撃」に対する「自衛権」は行使できる。だのに今回、安保理はそれが未行使の段階でなぜわざわざ国家固有の「自衛権」を「認識」してみせたのか。しかも、発生した「テロ攻撃」を「武力攻撃」と読み換えてまで、「自衛権」に事前言及したのはなぜか。
 それを、安保理が米国およびその同盟国に向けて「自衛権を発動していいんだよ」と隠微に事前勧告したのだと読むのは行き過ぎだろう(それでも、アナン国連事務総長がほどなく、「一三六八号だけで十分」と示唆したのは意味深長だ)。同決議成立の裏事情を掴んでいないのだから、これ以上の推測は避ける。だが、米国の「自衛権」未発動段階で安保理決議に早々と「前文」第三段が登場したのがただごとでないことだけは確かである。だのに、わが国では(1)、(2)についてと同様、この(3)についても特別の関心が払われることはなかった。
「集団的自衛権」行使の声明ラッシュ
 もっとも、わが国でもこの「前文」第三段への注目が、いつまでも欠けていたわけではなかった。たとえば保守党の野田毅党首はほどなくこの第三段に触れ、米国は――日本の他の野党が必要視したようなもう一つ別個の安保理決議がなくとも――個別的自衛権を行使しうるし、NATO諸国は米国のため集団的自衛権を行使するだろうとの見解を述べていた。新法制定過程で、政府答弁もいくどか第三段に触れた。だが、この認識は安保理決議一三六八号によって直接にというより、むしろ、同じく九月十二日に発表されたNATO理事会(大使級)声明によって触発されたもののようだ。
 同理事会は、「この(テロ)攻撃が合衆国に対して国外から(from abroad)仕掛けられたことが確定される場合には、それは、ワシントン条約(NATO条約)第五条の適用を受ける行為とみなされるであろう」と声明した。その第五条とは、いずれかの加盟国に対する「武力攻撃」を全加盟国に対する攻撃とみなし、その場合、各加盟国が「国際連合憲章第五一条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して」共同防衛に当たるとする規定である。
 NATOはその五二年に及ぶ歴史上、一度も「第五条事態」を宣言したことがなかった。しかも、「集団的自衛権」とは米国が欧州のため行使してくれるものだと信じ、その逆を考えなかったので、いまや欧州諸国が盟主米国のためそれを行使する事態だとのNATO理事会声明は、欧州側にとり青天の霹靂であった。それでもNATO理事会は十月二日に米国特使による説明を受けて対米テロ攻撃が「国外から」仕掛けられたものだと確認すると、十月四日、米国の要請に応じるかたちで第五条発動を、つまりは米国のため集団的自衛権を行使する旨を決議したのである。この間に九月二十一日付NATO文書「条約第五条とは何か」では、九月十一日の「テロ攻撃」は米国に対する「武力攻撃」だと認定された。これで、超大国・米国のために行使される「集団的自衛権」とは何ぞやの議論に火が着くことになった。
 だが、集団的自衛権行使を言い出したのはNATOだけではなかった。ANZUS条約をもって米国と結ばれているオーストラリアは九月十四日、対米テロ攻撃に対し同条約第四条が適用される事態だと決定した。同条約には「個別的、集団的自衛権」の表現こそ見当たらないが、第四条は国連憲章に則り実質的にその行使手続きを定めている。米州機構(OAS)諸国も九月十九日、「憲章第五一条によって承認されている個別的及び集団的自衛の権利」を「想起する」と謳った決議を発表した。こうして、安保理決議一三六八号が誘い水となって、国際社会では「集団的自衛権」事態であることを謳う声明ラッシュが始まったのである。
正反対だったヴェクトル
 ただ、米国の重要な同盟国であるはずの日本では、そうではなかった。わが国政府は米国の他の同盟国のように「これは集団的自衛権事態だ」と言い出せるわけがなかった。小泉政権になってもなお、「わが国は集団的自衛権を国際法上は保有するが、憲法上その行使は許されない」との、内閣法制局の欠陥ある憲法解釈が政府を依然として縛っているからである(本稿でこの憲法解釈の欠陥性を指摘する紙幅はない。その欠陥性を知るためには、本年五月にPHP新書として刊行された拙著『集団的自衛権』を参照されたい)。
 そこで政府は、あたかも集団的自衛権とはまったく無縁の土俵で相撲が取れるかのように、テロ対策特措法を用意した。しかし、そのポーカーフェイスの陰で政府が最も腐心したのは二年前の「周辺事態安全確保法」制定時と同様、「集団的自衛権の行使は違憲」の内閣法制局見解にいかに抵触しないで新法を書くかという点であった。だから、この立法劇の真の主役はじつは「集団的自衛権」にほかならなかった。
 立法府はどうであったか。政府部内と同様、国会議員のあいだでも、緊急を要するテロ対策の一環として自衛隊を米軍支援のために派遣するには、既存の周辺事態安全確保法に若干の追加的解釈を施せば足りるとする論と、いや、新法が必要だとする声とが混在した。結果は閣法としての新特措法案の審議となった。新法案には、「戦闘行為」が行なわれていないことと「当該外国の同意」とを条件に、後方支援のための自衛隊派遣先が「外国の領域」にまで拡大され、武器使用規定の一定の緩和(第十一条)もあったので、それらにまつわる若干の新しい質疑はあったものの、国会論戦の基本的性格は二年前の周辺事態法審議当時と同じものだった。つまりは「集団的自衛権」こそが真の主役だったのである。
 わが国でも「集団的自衛権」問題こそがことの核心であったことは、国際的に「集団的自衛権事態」声明のラッシュが起こったのと、よく平仄が合っていた。ただ、議論のヴェクトルは正反対だった。一方は懸命に「集団的自衛権とは無関係」と叫び、他方では多くの国々が「集団的自衛権行使の事態だ」と声を合わせたからである。
 安保理決議一三六八号が「個別的、集団的自衛権」に早々と言及し、それに異論を唱える国が出現しなかっただけに、自衛権行使に踏み切った米国の重要な同盟国たるわが国の立場は、客観的に見てきわめて微妙だった。それでも、今回の件で「集団的自衛権云々を議論するのは事の本質と違う」、「今日の事件と集団的自衛権の問題は関係ないし、また関係させてはいけない」と敢えて立言する超大物政治家が二人いた。第一の引用は宮澤喜一元総理の、第二の引用は中曽根康弘元総理の発言である(『諸君!』十一月号掲載の両元総理の対談)。これこそは、「九月十一日」にまつわるわが国の悲鳴のハイライトである。
 全会一致の安保理決議一三六八号が直接に「自衛権」に、したがって論理的には「武力攻撃」に言及したのもものかは、宮澤元総理は起こったのは「犯罪」だと頑として主張する。「犯罪」に対して国家の「自衛権」は成り立たないから、「集団的自衛権を云々すべきでない」との宮澤理論は、そのかぎりで筋は通っている。だが、起こったのはたんなる「犯罪」ではなく、むしろ「武力攻撃」だ、とする安保理認識とのずれは深刻である。いわんや、九月六日に米国で「日米同盟をより効果的にするために、日本が必要と考える場合、自衛権の論理的延長として集団的自衛権を位置づけることを提案」したばかりの宮澤元総理においてをや(マスコミは、この宮澤演説は「集団的自衛権」政府解釈変更の必要を示唆したものと色めき立ったが、それはマスコミの不勉強の証拠である。前掲拙著の「宮沢喜一見解」の節を見よ)。
 中曽根元総理は「犯罪」説をとらず、「新しい型の戦争行為」説に立つ。とすれば、それに米国が「自衛権」をもって立ち向かっているのに、日本が「集団的自衛権」を「関係させてはいけない」とは一体、なにごとか。日ごろから「集団的自衛権」内閣法制局見解を隠微に(宮澤)、あるいは公然と(中曽根)批判してきた二人の超大物政治家として、この期に及んでの右の言説はおかしいのではないか。
本当の問題
 だが今回、二人の元総理をそんなふうに責めないことにしよう。私は「集団的自衛権」に関する政府の憲法解釈を欠陥品とみなし、その是正――「変更」ではない――の必要を唱えている。その是正は一日も早いほうがよい。だが同時に、私はこの問題でわが国が「有事に豹変する国」であってはならないと主張してきた(本誌、一九九六年十月号)。
 「九月十一日」以降は、わが国にとっても一種の「有事」である。このどさくさに紛れていま、小沢一郎自由党党首がいうように、「一瞬」で小泉総理が憲法解釈を変えるとしたら、日本のために私はそれをとらない。おそらくはこれこそが小沢党首の本来の主張だと信じるが、すでに長い議論があったのだから、もっと静かなときにいずれかの総理が、木を見て森を見ない内閣法制局官僚の憲法解釈を是正・変更すべきであった。残念ながら、いまは一球、見送るべきであろう。
 そう思うから、「集団的自衛権」を敬遠する格好の、腰の引けた「テロ対策特措法」だが、これを私はやむなく支持する。そして、分けても中曽根元総理の一見したところ君子豹変風の「集団的自衛権問題と関係させてはならない」との発言を責めることはしない。それを、老獪な元総理の、苦闘する現総理に向けられたせめてもの親心だと見ることにしよう。
 自衛隊が後方支援のため初めて外国領土へと派遣されることになれば、成立した新法にいくつもの問題点を指摘することができる。その多くは国会審議中でも取り上げられた。しかし、新法の規定や文言を超えたところに、じつは本当の問題がある。誰もそれを指摘していない。いずれ憲法解釈の是正・変更、あるいは改憲によって、わが国の集団的自衛権行使が合憲とされる日がくるであろう。その日にわれわれはつぎの問題に驚くことになろう。
 「集団的自衛権」の内容は国際的にはきわめて広範にわたるのに、ほぼ一九七〇年初頭に固まった現行の政府解釈では、それが「実力の行使」に関するものと狭く捉えられた。今日、「米軍の武力行使と一体化するか、しないか」ばかりが口角泡を飛ばす議論を呼ぶのはそのためである。
 他方、「周辺事態法」の「後方地域支援」や「テロ対策特措法」の「後方支援」などは、この「一体化」を避けて実施されるから「集団的自衛権の行使には当たらない」とされてきた。だが、それはわが国内部でしか通用しない議論であり、国際的に通用する考えでは、それらは立派に「集団的自衛権の行使」――ただし非実力的な行使――なのである。換言すると、国際的理解ではわが国は現状ですでに行使可能にまで踏み込んでいるのだ。
 そのことは、いまやNATOが史上初めて「条約第五条を発動」することによって、間接的に立証される。英仏を除けば、ドイツをも含めて、アフガニスタンのような遠隔地で「実力」をもってする「集団的自衛権行使」能力を備えていない。彼らの「行使」とはほとんどがわが国の二法にいう「後方地域支援」、「後方支援」以下にとどまる。それでもそれらの国は「米国のため集団的自衛権を行使した」と胸を張る。
 さて、日本がいつの日か「行使合憲」論に転換したらどうなるか。「行使違憲」論を掲げてあそこまでやる国なのだから、「行使合憲」となると、この先どこまで行くやら知れたものでない、との懸念が近隣諸国に台頭しても不思議ではあるまい。痛くもない腹を探られるのである。その場合、「行使合憲とはいっても、大したことをやる気はありません」と、わが国は弁明に忙殺されねばなるまい。
 これは長年、政治が内閣法制局に引きずられて、木を見て森を見なかったことのツケである。これ自体、深刻な事態だが、米国との関係ではもっと深刻なことも予想される。
 米国は、国際的理解では十分に「集団的自衛権の行使」――ただし「非実力」行使――の域に日本が踏み込んでいるのを承知していながら、わが国が「これは行使ではない」といいつづけるのを奇貨として、「ここまででは残念です。行使合憲論に転換してもらえるならありがたいのですが」と下手に出ていた。さて、日本が「行使合憲」論に転換するとどうか。
 「日本がご自分でおっしゃったように、いままでの後方地域支援や後方支援は全部が全部、集団的自衛権の行使ではないですよね。いままで以上の行動でなければ行使とはいえませんよね」というのが米国の言い分となろう。つまり日本は、愚かにも自分で集団的自衛権のバーを高く引き上げてしまって、今後、それを跳び越えなければならなくなっているはずである。それが日本にとって良い展望だろうか。
 テロ対策特措法の運用を考えるだけでも、頭痛の種がいくつもある。しかし、それだけにとどまっては危うい。利己心に発する集団的自衛権行使の肯定という、いままで省みられなかった作業に取り組まなければならない。
佐瀬 昌盛(させ まさもり)
1934年生まれ。
東京大学大学院修了。
成蹊大学助教授、防衛大学校教授、現在、拓殖大教授・海外事情研究所長、防衛大名誉教授。
 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。








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