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1999/01/08 産経新聞朝刊
【正論】作家 三浦朱門 「屠龍の技」なる愚を犯すなかれ
 
◆腰だめで言っている
 戦争中に腰だめという言葉があった。軍事用語である。日本軍は貧しい軍隊だったから、弾薬を惜しんだ。一発、一発、狙いを定めて射て、と教育された。しかし突撃に際しては、機関銃も小銃と共に敵陣に躍進し、その際は狙いを定めることはできないから、走りながらでも、銃尾を腰骨につけ、両手で銃を保持して射撃せよ、となっていた。つまり腰にあてて射つから腰だめである。大雑把な、精密さを欠く、しかし緊急時には仕方がない、といった意味に使われてきた。
 しかし教育について書こうとして気がつくのは、ほとんどのことが腰だめの材料しかない。就学児童数、彼らが何パーセント高校、大学に進学したか、などといったことは数字がある。しかし小学校六年生が、どの程度、小学校の教科内容を理解したか、といった統計は存在しない。高校一年の段階で生徒が数学や英語の学力はどの程度か、といったことは判らないのである。
 学力が低下しているとか、精神的に不安定である、とか言われても、その具体的な調査や統計は存在しない。国連の仕事として、数学と理科の国際比較をこれまで三度やっている。強いていえば、そのテスト結果が国連にあるはずだから、それをもらってくればよいようなものだが、いささか情ないし、たった三回のテストで、日本の戦後の生徒の学力の現実を考えるのは頼りない。
 教育についての言論の多くは、いわば腰だめで言っているのである。それぞれの狭い体験や見聞の範囲から得た印象に基づいて、自説を展開しているにすぎない。近年は小中学生の犯罪が多発しているように思うが、統計によると、過去に比べて殊に多くなったとは言えない、という文章も読んだ覚えがある。高校の学力低下も、高校が事実上の全員進学になったことに伴う、当然の結果であって、実体は昔とそれほど変わらないのかもしれないのである。
 
◆子供には無限の可能性
 かつて全国的な学力テストが実施されたことがあった。昭和三十三年である。
 それ以後、たとえば昭和三十六年ころからは、教員組合の反対闘争があって、円滑に行われなくなった。ことに昭和三十九年、福岡地裁が学力テストは教育基本法違反であると判決を下して、以後福岡県は実施しなくなったが、それ以前からも、参加しない学校、地区があった。学力テストを実施するなら、全国的に、全教員の積極的な協力によって実施しないかぎり、信用できるデータは得られないし、テストの結果を有効に利用することは、実際問題として困難なのである。
 荒れる中学校とか、不登校、イジメ、テレビの暴力番組の影響など、これらを教育の現場で考える場合には、色々と確認しておかねばならないことがある。しかしこの領域でも、特定の犯罪事件や、問題を抱えている子供のコンサルタントとなった専門家の報告があるばかりで、全児童、少年についての調査の類は存在しない。少数者を対象とする、かなりいい加減なアンケートなどを頼りに、この種の問題が論議されているのが実情である。
 この種の調査、テストは差別、選別につながるとして、一部の勢力からは拒否されてきた。運動会で一等、二等というのは子供の心を傷つけるからというので、あらかじめ同じような走力の者でチームを作って走らせるようなこともしてきた。走るのが速い子も、遅い子もいるが、それには目をつぶってきたのが、ここ三十年ほどの傾向である。
 子供には無限の可能性があり、教科書と教育方法によっては、学力の低下も、クラスの崩壊も防げるという夢は、社会主義国家の理想の崩壊と共に、消滅したのではないだろうか。
 
◆仲間と共に学び遊ぶ
 これから教育改革を行おうとしている時に、このような状態でよいのだろうか。現在の児童、少年少女たちの現状を把握して、そのよい面と問題である面を理解してこそ、対策もたてられる、というものである。
 一つの学級の人数にしても、少なければ、少ないほどよいと言った風潮があるが、それならば個人授業が一番よい教育方法なのであろうか。私は他の仲間と共に学び遊ぶことに、それなりの意味があると思う。
 教育研究所といったところは国にも自治体にも存在しているのだが、どの教科、どの年齢ではどの程度のクラス編成で、こういう方法で教育したらよい、といったことをあまり熱心に研究してくれない。少なくとも、これらの機関は一般に、あるいは教育関係者に報告はしてくれない。
 教育の現実が判らないで、教育改革をするのは、龍の存在も判らないのに、龍と戦う術を学んだという、古代の中国の「屠龍の技」なる愚をおかす恐れがある。(みうら しゅもん)
◇三浦 朱門(みうら しゅもん)
1926年生まれ。
東京大学卒業。
作家、元文化庁長官。


 
 
 
 
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