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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1990年1月号 正論
教育政策に見るイデオロギーの氾濫
明星大学助教授 高橋史朗
 
 これまで社会党の政策については様々な分野からの批判が行われてきた。ところが、何故か同党の教育政策に対しては、真正面から批判する試みが全くなかったといっても決して過言ではない。
 先の参議院選挙では、文部省出身の自民党の現職議員が一人、比例区の最下位近くであやうく滑りこんだのとは全く対照的に、マドンナ候補を含めて、日教組出身の社会党公認候補はゆうゆう軒並み当選を果たした。
 彼らが今後のわが国の教育政策全体に与える影響は極めて大きい。臨教審をはじめとする教育改革に関する各種審議会の答申の実施を阻み、骨抜きにするためのあらゆる努力が彼らを中心に行われている。
 一体、社会党は日本の教育をどのように変えようとしているのであろうか。目前に迫った衆議院選挙の結果次第では、野党連合のリーダーとして政権獲得の可能性もある「大」政党となった社会党は、これまでのように単に自民党の教育政策を一方的に批判するだけでは済まされない。従来の批判政党の域を脱し、教育政策についても日教組に依存しない独自の対案を国民の前に提示する必要がある。
 社会党は昭和五十三年に「日本社会党の教育改革政策」として、『80年代を展望する教育改革―教育の創造をめざして―』を策定し、これをたたき台として、スウェーデン、西ドイツ、イギリス、フランス、タイの専門家を含む国際シンポジウムを開催した。
 また、昭和六十一年には同党の教育改革プロジェクトチームが、教育荒廃と二十一世紀という時代の変化に対応するために、『日本社会党教育改革第一次案――ともに生き・学び・育つことを求めて』を作成し公表した。
 さらに、平成元年に入って、三月には「'89国政選挙にのぞむ政策集」において、「伯仲新時代へ」の教育政策を明らかにし、七月には月刊誌『真想』(教育情報社)において、十月には『社会党大研究』(経済評論増刊、日本評論社)において、日本社会党政策審議会が同党の教育政策を提示した。ちなみに、『社会党大研究』では、「社会党が政権をとったら」というタイトルが付けられている。
 そこで、以下、一般にはあまり知られていないこの五つの教育政策文書(便宜上、昭和五十三年の文書をA、昭和六十一年の文書をB、平成元年三月、七月、十月の文書を各々C、D、Eと呼称する)と、社会党の今年度運動方針並びに日教組の今年度運動方針を分析し、社会党の教育政策の問題点を浮き彫りにしていきたい。
 
時代遅れの悪平等主義
 
 まず、Aにおいて社会党は、自らの立脚する教育理念は「平等主義」と「平和主義」であり、「社会主義実現の重要な内容として提起」されたこの二大教育理念を「労働者階級の組織的改革運動」によって推し進め、「国民総がかりの教育改革実践運動」によって、「能力主義と国家主義の教育政策を、国民のための教育要求を国民の手によって転換させること」を訴えている。
 また、「われわれの教育改革は社会主義への展望の中で教育の平等を実現すること」であり、「平等主義こそ、社会主義への道」と捉え、その意味で教育基本法前文は「社会主義への教育の道を示している」と明言している。
 では、社会党が掲げる「平等主義」の教育理念とは何か。それは「資本主義の教育理念である能力主義の原理を排し、権利としての教育権をすべての人に徹底的に保障することをめざす」教育理念である。そして、それは「いつでも、どこでも、だれでも、そしてただで」の制度的保障を通して実現されるという。
 それが、憲法第二六条に規定する「すべての国民はその能力(の必要に――を入れて読む)に応じて、ひとしく教育する」という「真の機会均等の実現」への道であるというが、果たしてこの主張は正しいといえるであろうか。
 この場合の「だれでも」「ただで」の制度的保障には、高校の義務制が含まれている。ちなみに、Cにおいても、入試制度を改革し、学歴主義を是正するための「高校の希望者無試験全員入学」が提言されている。
 社会党によれば、資本主義の教育理念である「能力主義」こそが「教育荒廃の根源」であるという。しかし、これは極めて表面的な分析であって、教育荒廃の病根はもっと根が深いことに社会党は気が付いていない。それ故に、社会党の教育政策には、教育荒廃(子どもの心の荒廃)に対する本質的な克服策という最も重大な問題が完全に欠落してしまっているのである(この点については後述する)。
 もともと「能力主義」とは、学歴主義や年功序列主義に対して使われた対抗概念である。選別を前提とする人的能力政策(経済政策の一環としての)の必然的帰結として、学校が能力を尺度として生徒を選り分ける機関になり、受験競争激化の風潮をもたらした、というわけである。
 もちろん、この考え方にも一理はある。しかし、今日の受験競争の激化をもたらした最大の原因は、社会党の“高校全入”政策に代表されるような「教育における機会の絶対的な平等化」を徹底して求めようとする、誤った「悪平等主義」にあるのである。この点についての認識が、社会党には全く欠落している。
 昭和二十五年には四三%にすぎなかった高校進学率は、三十年後には九四%と激増しているが、戦前においては部分的であった競争がこのように全体に広がったのは、教育機会の絶対的な平等化を要求する戦後の革新勢力の「悪平等主義」によるのである。
 今日の教育の質の画一化、授業の質の画一化、毎年十万人をこえる高校中退者を生んでいる元凶は、まさに、社会党が第一の教育改革理念として打ち出しているこの「(悪)平等主義」にあるのである。
 そこで臨教審第二次答申は、「能力に応ずる機会均等は悪平等主義の弊害に陥らずに、個性の尊重、個人の尊厳という原則を貫きつつ、自由と平等の均衡を保つための中庸の道であることを再確認する必要があろう」と指摘したのである。
 ちなみに、欧米では、能力に応じた適切な教育(appropriate education)と平等な教育(equal education)は、教育の機会均等の理念を構成する表と裏、即ち対の関係として一体的に捉えられている。ところが、社会党などの「悪平等主義」によれば、能力や適性に応じて教育すること自体が選別、差別、「能力主義」ということになってしまうのである。
 これからの教育においては、極端な平等原理と競争原理のいずれにも偏しない両者の新たな調和こそが求められているのであり、社会党の時代遅れの「平等主義」は二十一世紀をリードする教育理念とはいえない。
 また、社会党が第二の教育理念として提示している「平和主義」は、国家主義に抗し、「国民の教育権に立つ国民総がかりの教育改革運動」の展開を期待するものであるという。
 ここにもすでに陳腐化した旧パラダイムの残滓が見られる。「国民の教育権」か「国家の教育権」かという単純な二分法論理に立脚して両者を対立図式で捉えるイデオロギーはもはや時代遅れである。
 「国民の教育権」か「国家の教育権」かという二律背反的または二者択一的な概念定立は、憲法論からみても明らかに不当である。日本国憲法によれば、国民の主権は、その代表者によって行使されるとある。即ち、国民の主権の一部たる「教育権」は、実際には国会、内閣、司法その他の国家機関に分担される故に、「国民」に「教育権」があることは、常に必ずしも「国家」の「教育権」の否定を意味しないからである。
 このような時代遅れの「階級史観」に立脚した社会党の「平等主義」と「平和主義」の教育理念は、今日の教育荒廃を克服し、二十一世紀を切り拓く教育理念たりえないことは明白である。
 今日の子どもの心の荒廃は、目に見えない質的なもの(個性、情緒、感性、伝統、創造性等)を捨象し、精神的、心的なものを排除して、実証や数量化可能な「目に見えるもの」のみを偏重してきた物質中心主義の近代科学技術文明の必然的帰結といえる。
 「物の科学」として確立した近代科学の根底には、物を心から独立させたデカルトの二元論がある。「世界を認識可能な要素について量的法則に還元する」という近代科学技術文明の原理がやがて「文明病」をもたらし、合理的なものと非合理的なもの、目に見えるものと目に見えないものとのバランスの崩壊をもたらしたのである。
 それ故に、これからの教育に求められるのは、目に見えない非合理な教育の「質」をいかに回復し深めていくかということである。「真の機会均等」の実現をめざす社会党の「平等主義」は「教育の量的拡大」を目指してきた明治以降の日本の教育の延長線上にあり、今日の教育荒廃を克服するのに必要不可欠な教育の「質」についての問題意識が欠落している。高校教育の中身の「質」を変革することなしに、ただ「全入」にするという「量」の議論だけが先行するのは危険であり、本末転倒もはなはだしい。
 
「平和教育」の危険性
 
 この致命的欠陥が最も顕著に反映しているのが、社会党が提唱する「平和教育」と「文化、伝統」に対する認識である。すなわち、Bにおいて社会党は、「教育課程の中に平和教育をしっかりと位置づけ」、「わが国の過去における戦争責任を問う教育」を推進し、十二月八日、八月十五日などを「平和の日」として、反戦平和人権教育を徹底するよう提案している。
 世界的な霊長類学者で京大名誉教授の河合雅雄氏は、「戦後教育の最も大きな誤りの一つは人間の攻撃性は悪であり、“平和教育”でこれをなくすことができるという錯覚をもったことではないか」と指摘しておられるが、真の「平和教育」は、善良な「平和愛好国」である連合国が野蛮な「好戦国」日本の「戦争責任」を懲罰思想に立脚して裁いた東京裁判の政治的イデオロギーを子どもに押しつけることによって実現されるものではない。
 日教組の機関誌『教育評論』六月号の社会党・土井たか子委員長と日教組・福田忠義委員長との対談において、土井委員長は「私が大学の研究室にいたころ(一九五一年)、鈴木茂三郎社会党委員長が、『青年よ再び銃をとるな』と呼びかけ、日教組が『教え子を再び戦場に送るな』というスローガンをかかげた。あれは大変新鮮にひびきました。そして感銘を受け、感激をして、本当にそうだという思いが切実でした」と述べている。
 「教え子を再び戦場に送るな!」というスローガンは一貫して日教組大会のメインスローガンとして掲げられ、社会党は「平和教育」という美名の下で特定の政治的イデオロギーを押しつけてきた日教組の「偏向教育」を全面的に支持してきた。
 真の「平和教育」は何よりも平和を支える「心」の育成に力を注ぐべきであるにもかかわらず、この「平和な心」の育成を素通りして、戦前の日本イコール軍国主義・超国家主義であり、大東亜戦争は一方的な侵略戦争であったなどの特定のイデオロギーや政治的ドグマを日教組は子どもたちに押しつけてきた。
 過去の多くの戦争は自国の偏狭な価値観に固執し、傲慢になり独善的になった国々によってもたらされた。社会党が第二の教育理念として掲げた「平和主義」は、「国民の教育権」論や階級史観に立脚した特定の政治的イデオロギーを子どもに押しつける日教組の「平和教育」を全面的に支持するものであり、その意味で、かつての軍国主義教育の単なる裏返しにすぎず、共通の危険性を有しているといわざるを得ない。
 社会党のこのような偏見はわが国の文化伝統や郷土愛、愛国心に対する認識においても顕著にあらわれている。すなわち、Cにおいて社会党は、「臨教審は『国際化』を言いながら、『日本人としての自覚』『日本文化の特性』を強調していることは、本末転倒の国家主義の主張にほかなりません」と述べている。
 また、Dにおいても次のように主張している。「文部省が本気で『文化と伝統』を主張するなら、それにふさわしい環境を整備し、児童・生徒を受験地獄から解放することが肝要であろう。・・・学習指導要領は精神訓話的に郷土愛や祖国愛を教えようとしている。・・・中曽根元首相は国会における証人喚問の際『国家のために誠心誠意尽くそうとした』と繰り返した。しかし私たちは、そこで語られる『国家』に自分も含まれるとは考えられないのである。学習指導要領の言う『郷土』や『祖国』も同様と言わねばならない」
 しかし、「本末転倒」しているのは、社会党のほうである。「国際化」とは、決して「日本人としての自覚」や「日本文化の特性」を捨てることではない。両者を対立的、二者択一的に捉えているところに社会党の根本的な誤りがある。国家や郷土と「自分」(個人)を対立的に捉えるのも同じ誤りを犯している。
 臨教審答申は二十一世紀の教育の目標の一つに「世界の中の日本人」を掲げたが、これは他国の文化伝統の良さを広く認識した上で、自国の文化伝統の良さを深く認識することの大切さを説いたものであり、社会党の「国家主義」という批判は全く当たらない。
 また、「日本古来の文化と伝統を尊重すること」は「教科書や授業でどうこうできるものではない」から、「環境を整備し、児童・生徒を受験地獄から解放することが肝要」という発想はいかにも浅薄で、文化伝統を継承し発展させることが教育の重要な任務の一つであることに対する自覚が社会党には根本的に欠落している。
 この論理はしばしば道徳教育に対しても使われる。「道徳は特設の道徳の授業などで教えられるものではない」というわけである。確かに「教科書や授業(だけ)でどうこうできるものではない」が、問題は文化伝統や道徳の価値の中身がどのように認識されているかである。
 このように主張する社会党や日教組の人々には、文化伝統や道徳の価値に対する認識が欠落しているか、希薄であることが多い。それ故に、自らが教える中身を持ち合わせていないために、「教科書や授業でどうこうできるものではない」などと逃げ口上的屁理屈をつけて、自己正当化を図ろうとするのである。
 ちなみに、前述した社会党の各種の教育政策文書では、道徳教育についてはほとんど触れておらず、「道徳教育の強化は、むしろ逆効果をもたらすものでとうてい認められません」「『徳育』の充実を強調していることは、本末転倒と言わなければならない」とたった一行の否定で片付けてしまっている。
 昭和六十二年の教育サミットでも「子どもの道徳心の低下」が世界の教育改革の大きなテーマになったが、今日の教育の最も本質的な課題である子どもの心の荒廃を克服するための道徳教育に、真正面から取り組む姿勢が全く見られないことは、社会党の教育政策の致命的欠陥といえる。
 
的外れの「軍国主義」批判
 
 社会党のこの歪んだ認識は、国旗・国歌に対しても共通している。臨教審が「国を愛する心」や「国旗・国歌の持つ意味を理解し尊重する心情と態度を養うことが重要」という記述を最終答申に盛り込んだことは、中曽根首相(当時)の「新国家主義」の意向に沿うものである、と社会党は批判する。
 また、Bの中で、学校に自由と自治を根付かせるための大きな課題の一つとして国旗・国歌問題を取り上げ、次のように述べている。
 
 「日の丸」を国旗として掲揚すること、「君が代」を国歌として斉唱することを強制することは絶対に認められません。強制的な愛国心教育は、国家中心の教育の推進につながり、子ども・青年の自由を制約し、人格の完成を目指す教育基本法に反するからです。
 
 しかし、果たして国旗を掲揚し国歌を斉唱させること自体が「強制的な愛国心教育」に該当し、「人格の完成を目指す教育基本法に反する」といえるであろうか。後者の問題から先に論じるならば、教育基本法第一条の「人格の完成」の意味について、当時の高橋誠一郎文相は昭和二十二年五月三日の「教育基本法制定の要旨」(文部省訓令第4号)において、次のように述べている。
 
 この法律においては、教育が、何よりもまず人格の完成をめざして行われるべきものであることを宣言した。人格の完成とは個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめることである。しかし、このことは、決して国家及び社会への義務と責任を軽視するものではない。
 
 「人格の完成」という表現にすべきことを強く主張した元文相、田中耕太郎も『教育基本法の理論』において、「人格の完成」の意味について次のように指摘している。
 
 完成された人格の内容の中には、当然国家や民族の意義と価値の認識、国家の権威と秩序の尊重、民族とその文化に対する理解と愛、国民としての義務と責任の自覚、公共心の涵養等が含まれているのである。わが国においてかつて愛国心が大いに鼓吹されたのにかかわらず、それが日常生活において実践されないで、公共道徳の水準において他の文明国にはるかに及ばなかったことは、従来の国家主義教育が人格の形成を等閑にし、如何に形骸にとどまっていたかの証拠である。今後はかような意味の国家公民教育に一層の努力を致さなければならない。そうしてその努力の向けどころは社会道徳の日常生活におけるその実践である。
 
 教育基本法第一条は「教育の目的」が「人格の完成」にあり、「平和的な国家及び社会の形成者」としての「心身ともに健康な国民」の育成にあることを明確に述べており、高橋、田中両文相の説明でも、愛国心教育そのものは否定されていないことは明らかである(臨教審の教育基本法認識も同様である)。
 「国旗・国歌の持つ意味を理解し尊重する心情と態度を養うことが重要」という臨教審最終答申の指摘は、「従来の国家主義教育が人格の形成を等閑にし、如何に形骸にとどまっていたか」という過去の教訓を生かしたものであり、このような愛国心教育自体を全面的に否定した社会党の教育政策は、到底国民大多数の支持を得られるものではない。
 社会党の今年度の運動方針には、「『日の丸』『君が代』の強制に反対し、国家主義、軍国主義の助長を厳しく批判する闘いを展開します」と述べられているが、国旗を掲揚し国歌を斉唱させること自体が「軍国主義の助長」につながるという批判は明らかに論理が飛躍した感情的批判というべきである。
 軍国主義とは「軍備の拡張・充実が国家の繁栄・社会の進展をもたらす第一条件である、とするものの考え方」(新潮国語辞典)であり、「一国の組織を全部戦争のために準備し、戦争をもって国家威力の発現と考える主義」(三省堂新明解国語辞典)である。
 社会党や日教組は日の丸や君が代自体を「軍国主義のシンボル」視しているために、国旗を掲揚し国歌を斉唱させることは「強制的な愛国心教育」であり「軍国主義」を助長すると非難するが、これは全く不当ないいがかりというべきである。
 Dにおいて社会党は、「戦争体験にもからんで深刻な対立のある『日の丸、君が代』を慣習法として国旗・国歌とするには無理」があると批判しているが、総理府の世論調査によれば、国民の約八割が「日の丸」を国旗、「君が代」を国歌としてふさわしいと答えており、最新の世論調査によっても国旗、国歌が国民の間に定着していると新聞各紙は報じている。
 文部省の今年度の調査(十一月二日発表)によれば、小・中・高の卒業式、入学式において国旗を掲揚した学校は九割近いのに対して、国歌を斉唱した学校は、六〜七割であったという。
 また、昨年秋の全国連合小学校長会の調査によれば、国旗の掲揚は入学式九四%、卒業式九七%とかなり高いが、国歌の斉唱は各々三六%、七九%になっており、両者の扱いに相当の差があることが明らかになっている。
 国旗の掲揚をしていない理由は、「校内職員が反対し、掲揚を強行すると後の学校運営に影響する恐れがある」が六八%と多く、「校内職員の反対が強く、式の混乱を招きたくない」が二〇%を占めている。同様に、国歌の斉唱についても、第一の理由が五四%、第二の理由が一二%、「国歌の指導や練習ができない」が二〇%となっており、社会党をバックにした日教組の反対運動がいかに大きな影響を与えているかがわかる。
 『こんなに損していた日本人―社会党がやると日本はこうなる』(青春出版社)の「それでも社会党を心配するあなたへ」という章では、「君が代はメロディも歌詞も古すぎてデモクラシーとビジョンのある日本には似合わないですから、できれば国民から募集していい歌をつくりたい」と明記している。
 戦後、新しい国民歌をつくる運動が日教組を中心に推し進められ、昭和二十七年には日教組が国民歌「緑の山河」を発表、昭和三十八年には「国民の歌作成委員会」が募集した二万三千二百篇の中から「若い日本」を当選作として発表したが、国民感情を全く捉えることができなかった。
 そこで、日教組は新たに「国歌を考える会」を創設し、「国民の手による国民の歌をつくる運動」を提唱し、昭和六十三年もコンサート活動を行っているが、社会党はこの運動を全面的に支持しているわけである。
 
目立つ教師への甘さ
 
 さらに、社会党の教育政策で問題なのは、日教組による専制的学校教育支配を強化しようとしている点である。すなわち、Aにおいて「学校運営の意思決定機関を教職員会議とし・・・教員の自主性のためには、学校内における上下関係的管理体制は改革されねばならない」と明記し、Cでも「職員会議をすべての教職員参加の民主的決議機関として活性化します」と述べている。これは、校長に代わって日教組が学校を管理するとの宣言にほかならない。そのことによる影響は計り知れないものがある。
 学校運営ばかりではない。Aによれば、社会党は教科書検定制度を廃止し、教師集団による教育課程の自主編成の権利を保障し、教科書の選択は学校に委ねる政策を打ち出している。検定を廃止する理由について、Dでは「教師や親の教科書に対する見方が厳しければ、教科書の編集者も良い教科書を作らざるを得ないのであり、教科書は順次淘汰される。従って、教科書検定などは全く必要ない」と述べているが、あまりにも甘い見方といわざるを得ない。
 社会党の教育政策にとりわけ甘さが目立つのは、教師に対する姿勢である。政府自民党や文部省に対する厳しさが学校の先生に対しては急にトーンダウンしてしまうのは大いに問題である。例えば、Bでは「教師に期待する」という甘いタイトルをつけて「無過失責任の学校災害保障制度」の確立など、教師の権利を保障する提案ばかりで、教師に対する厳しい要求が完全に欠落している点は、教員の資質が厳しく問われている現状を考えると、見過ごすわけにはいかない。
 最大の問題は、社会党がこれまでのイデオロギー政党から脱皮できるかどうかである。最近日本を訪れたソ連のサハロフ博士によれば、ソ連国民の口からはもはや「社会主義」という言葉すらほとんど聞かれないという。東欧諸国の動きとは裏腹に、未だに時代遅れの階級史観に立脚し、「団結こそ教師の最高の倫理」などと嘯(うそぶ)いて政治ストを続ける日教組に二十一世紀の教育を委ねるわけにはいかない。
 世界のシステムが大きく変わりつつある今日、教育政策に何よりも求められるのは、従来のイデオロギーを越えた、「精神的豊かさ」を実現するための建設的なビジョンを明示することである。社会党の教育政策の最大の欠陥はかかるビジョンが全く欠落している点にある。
 日教組の分裂によって共産党系の非主流派を除名した主流派が真に生まれ変わることができるか否かは、社会党が左派の硬直したイデオロギーから脱却し、柔軟な教育政策に転換できるかどうかにかかっている。
◇高橋 史朗(たかはし しろう)
1950年生まれ。
早稲田大学大学院修了。
スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員、明星大学助教授を経て現在、明星大学教授。


 
 
 
 
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