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1988年2月号 正論
マスコミが歪めた「地歴独立」の真相
反対する論拠を示せ
明星大学助教授 高橋史朗
 
社会科解体は亡霊復活?
 
 文部省の教育課程審議会は昭和62年11月27日、「審議のまとめ」を公表し、高校の「社会科」を「地歴科」と「公民科」とに分け、世界史を必修にすることを明らかにした。
 この問題を新聞各紙は大々的に報道したが批判のワンパターンぶりにうんざりさせられたのは筆者だけではあるまい。「教育の場に“戦前”の響き」(11月28日付毎日新開見出し)「“解体”が戦前の亡霊復活につながる」(12月3日付朝日新聞)「歴史独立は憲法への挑戦」(11月14日付同紙―上田薫都留文科大学長の意見)「社会科を解体することは、民主主義教育の危機」(11月14日付読売新聞―本多公栄宮城教育大教授の意見)「“民主主義の理念”右旋回」(11月14日付東京タイムズ)などというおどろおどろしい批判に、一体どれ程の内実があるのであろうか(因みに、Japan Timesの見出しはmoral education over social studiesであった)。
 戦後教育の見直し=戦前回帰、地歴科の独立=皇国史観の復活、憲法への挑戦=民主主義教育の危機という単純な二分法論理(地歴科の独立がなぜ憲法への挑戦になるのか、についての説明はない)の“パターン思考”から私たちはもうそろそろ卒業してもよいのではないか。戦後教育にも社会科にも功罪両面があり、その“功”の側面を正当に評価しつつ“罪”の側面を見直し、改めていくのは当然のことであり、戦後教育や社会科を全面肯定し、これを見直したり改革すること自体を危険視する一部マスコミの硬直化した超保守的体質(日頃は“革新”を唱えておられるようであるが)こそ、子どもたちの多様なものの見方を阻害し、「民主主義教育の危機」をもたらすものではないのか。
 そのような硬直化した批判(パターン思考)は極めて空疎なものであるにもかかわらず、それが大新聞の見出しや活字になると一般国民に与える影響は甚大であることは、昨夏の『新編日本史』の登場を「復古調の教科書」「皇国史観の亡霊」などと報じたことで証明済みであり、それ故に、これを黙って見過ごすことはできないのである。
 今回の新聞報道で最も目立ったのは、教育担当記者と論説委員の記事、主張のギャップである。この地歴独立問題について五大紙で最も早く報じたのは11月13日付の朝日新聞で、これは教育担当記者が書いたものであるが、見出しは「“社会科”の名消滅へ―世界史は必修に」というもので、事実を客観的に報じた記事で、批判めいた解説はまったくなかった。
 ところが、翌日の朝日新聞は厳しい批判的論調に一変し、8段に及ぶ解説記事「消える社会科」(時時刻刻)で、「あっという間の“歴史独立”」劇における“政治的圧力”を強調し、「なぜ“歴史科”独立」と題する林・上田両氏へのインタビューでは、林健太郎参院議員に対しては意地悪く、「天皇中心の記述で話題を呼んだ『新編日本史』の教科書を支持する学者の中には『社会科の枠に制約され、教科書を思うように書けない』という意見もある」として、強引に今回の地歴科独立と『新編日本史』を結びつけようとしている(上田氏の談話は肯定的に紹介し、対照的な扱い方をしている)。
 このたった一日の劇的な変化の裏には一体何があったのか。実は、11月13日付の記事を書いた教育担当記者は「上司に呼ばれ『社会科擁護が朝日新聞社の方針だ』といって叱られた」とある関係者に漏らしたという。「社の方針」という強制的宣告が一夜にして新聞の論調を変化させたのである。
 この「社の方針」は11月15日付同紙の「解体は憲法への挑戦?」と題した漫画(「社会戯評」)や、「国際化といえば泣く子も黙る昨今の風潮。国粋化にならねば幸い、昔懐かし地歴科の復活」と皮肉った11月14日付夕刊の「素粒子」欄にも受け継がれ、徹底された。さらに、教育課程審議会高校部会が開催された11月20日(この時点では新聞記者に「審議のまとめ」関連資料が既に配布されていたため、記者自身は批判記事を書けない事情があった)付同紙の「論壇」欄に、「歴史分離論は時代錯誤のナンセンス」「日本大国論や日本ナルシシスム化に拍車をかけるもの」と批判した「高校社会科の解体は疑問」と題する論文を掲載し、“社会科擁護”の「社の方針」を代弁させた(12月9日付朝日新聞「論壇」にも、「疑問感じる社会科解体―強調されすぎる歴史学者の主張」を掲載)。これら一連の朝日新聞報道を「報道の名を借りた意図的な世論操作」と感じるのは筆者の偏見なのであろうか。
 教育担当記者と論説委員の解説がとりわけ対照的で興味深かったのは、サンケイ新聞と日本経済新聞である。11月14日付のサンケイ新聞はこの問題を一面トップ記事で報じ、教育担当記者が「拙速にすぎた再編成」と題して解説記事を書き、「率直にいって事態が急展開し、拙速にすぎたのではないかという印象を免れない」と批判した。その3日後、同紙の「主張」は、「分科会の審議が性急に過ぎたという批判の声も聞かれる。しかし、大筋としてこの改革案は時代の要請だと思う。賛成である」と述べた。さらに、11月29日付同紙の「主張」は、「バランス感覚ある教育を」と題し、次のように指摘した。
 入学式や卒業式での日の丸掲揚、君が代斉唱を明確に位置づけたことには、反発の声も聞かれる。だが、これは戦後の日本が敗戦のショックで国家観念を喪失し、国家意識を不当に軽視してきたことへの反省から出たものと受け止めたい。これが戦前のような偏狭なナショナリズムを意味するものでないことは、審議のまとめの中の「日本人としての自覚を養い国を愛する心を育てるとともにすべての国の国旗及び国歌に対し等しく敬意を表する態度を育てる」というバランス感覚のある表現にもあらわれている。・・・
 高校「社会」の解体にも不満の声がある。しかし、民主主義や自由の価値をよく認識し、「民主的、平和的な国家 社会の有為な形成者」となるための教育は「公民」の各科でしっかり教えればよい。・・・
 一方、日本経済新聞は11月30日付の同紙(「なるか教育再生・下」)で、「国民のコンセンサスと十分な論議を必要とする教育の問題をこんな形で決めざるを得なかったのでは、教育課程審とは何なのか、疑問は消えない」という批判記事を掲載する一方、28日付の同紙(「教育」欄)に、昨年まで同社元論説委員で筑波大学教授の黒羽亮一氏の「大筋で妥当教育課程改革」と題する次のような論文を載せている。
 高校社会科を地歴科と公民科に分解することは、当初の文部省の気持ちにはなかった、土壇場の決定だったと伝えられている。しかし「歴史は社会科学の面ばかりではない」「世界史選択は愚行でもとに戻すべきである」という意見は、教科教育専門家の集団の中では少数意見でも、社会全般には常識であった。・・・今回の改正要求も「それでも仕方がないから、せめて高校ではきちんとしてほしい」というささやかなもので、早くから行われていた。文部省がそれへの対応にもたついていたから、最後にクーデターで決まったような印象を一時世間に与えているというところか。
 この両紙が朝日新聞と異なっているのは、「社の方針」で第一線の教育担当記者が書く記事内容を規制せず(違った視点で異なった見解が表明されているからおもしろい)、(元)論説委員が若い教育担当記者の一面的な視野の狭い見方を、深い見識と説得力ある論説で修正しバランスをとっている点である。長々と引用したのは、今回の地歴独立をめぐる新聞報道に最も欠けている視点、「バランス感覚」がこの二つの論説には含まれていると思ったからである。
 確かに、今回の地歴独立、世界史必修化に至る過程をここ数ケ月の尺度で見ると、「拙速にすぎた」感は否めないが、この問題は占領下の社会科導入から今日に至るまでのプロセスを正確に把握した上で総括されなければならない。
 
占領文書にみる社会科成立事情
 
 在米占領文書の研究によって既に明らかにされているように、社会科のわが国への導入はGHQの民間情報教育局教育課の独自の判断によるものであり、当時、文部省の日高第四郎学校教育局長は社会科の導入に強く反対し、「統合された社会科教育課程の討議は価値あるものであるかもしれないが、日本にそれを適用する問題は、別の間題であり、実際上多くの困難な問題に遭遇することになろう」と述べ、歴史は独立させて、年代順に教えなければならないと力説した。
 また、「教科課程改正委員会」の野村武衛委員長もこの点を強く主張し、小学校、中学校段階において日本史は分離すべきことを力説し、歴史編修者もこの意見を支持した。これに対して、教育課はどの学年も歴史と地理を社会科に組み入れるべきであり、小学校一年生から社会科を教えるべきであるという信念を抱いていた。
 そこで教育課のオズボーンは二度にわたって日本側の主張を論破しようとした。一回目は昭和21年8月23日(二回目は9月23日)の会議であった。彼は教育課程改正の決定を下す前に、次の実験を試みるよう提案した。
 まず10個の箱に『公民教師用書』に出ている主要領域つまり興味の中心を書き込むよう述べ、次いで歴史・地理の教科書や『公民教師用書』に見られる知識や教育経験に関するすべての項目を書きだしてカードを作ることを求めた。続いて彼は言った。「すべてのカードを詳しく検討しなさい。そして家庭生活に関連したのが見つかれば『家庭生活』と書いてある箱の中に投げ入れなさい。学校の生活に関連したものがあったら、それを『学校生活』の箱に入れなさい。実験の終わった時には、残っているカードは一枚もなく、どれもがそれぞれ適切な箱の中に入れられたということを見出すでしょう。それによって、重要な教材が何一つ失われていないことが証明されることになるでしょう」
 このようにして、オズボーンは日本側に対し、社会科の総合的性格と地歴等の独立性の否定を説得しようとしたが、9月20日の会議で、小学校五・六年生に日本史を教え、社会科は小学校一年生から四年生までにだけ教えることが仮決定された。
 中等学校の社会科については、9月23日の会議で討議決定された。野村委員長は、公民科、地理及び歴史の独立科目が中等学校では教えられるべきだと主張したが、オズボーンはアメリカの高校三十校で実施された八年間の実験結果を提示してこれに反論した。この研究は、歴史や地理やその他の社会科学を別々に教える伝統的方法よりも社会科として教えるという統合的方法の方が優れていることを証明していた。
 そこで、「教科課程改正委員会」は最終的な“妥協”として、日本史は小学校五・六年の統合的社会科に含めるが、中学校二・三年においては独立教科目として、年代順に教えること、高校の社会科は、一科目を選択させることを決めた。その後、オズボーンは、高校の社会科は15単位の開講を義務づけ、選択教科はいずれも5単位として、10単位必修とすることを提案して承認された。
 以上の経緯を踏まえて、アメリカの日本占領教育史研究の第一人者である筑波大学のハリー・レイ教授は、社会科導入のプラス面とマイナス面を次のように総括している。
 
 社会科は学生を真理と民主主義に導き、彼等が批判的探究心と、自分自身の社会や世界を改良しようとする意欲を持つよう導くことを期待されていた。社会科のビジョンと目的は明瞭で理想主義的であった。
 しかしながら、新しい社会科は、戦後の日本にとっては、あまりにも理想主義的でアメリカ的であった。
 アメリカ側に行き過ぎがあり、事を急ぎ過ぎた。すでに昭和24年CIE局長のニュージェントは進歩的教育にはかなり批判的で、社会科及び他の教科の教授内容に再考の余地を認めていた。
 9月19日彼は次の如く記す。
 実際に日本人にあてがわれた教育課程は日本の状況に全く関係のない教材や研究課題を包含している。――研究課題で児童は北米土人の小屋を作ることになっていたり、アメリカインディアンの生涯を研究することになっているという具合である。それはカリフォルニアの学習指導要領をそのまま翻訳したものだ。
 ニュージェント氏の発言によって明らかなことは、CIEは、占領が終わった後に廃棄されるであろう改革を推し進めるべきではないという当然の原則を破ったことである。
 占領期間に、日本にはアメリカ型の社会科を受け入れる素地はなかったということが明らかになった。しかし、今後、戦後の社会改革や現在の日本の教育に対する不満の故に、日本の政治家や教育界の指導者は、それらの問題への対応策の一つとして、社会科を再検討せざるを得なくなるであろう。
 
 レイ教授はさらに、「占領時代の社会科が今でも日本の社会に提供し得るものがある」こと、「それらを外から押しつけられたからというより、むしろそれは日本人が必要とする資質であるという風に日本人が考えるようになれば、それは実を結ぶことになろう」と述べている。
 
40年前からあった地歴独立論
 
 私たちはこのような社会科の成立事情を正確に認識した上で、社会科のプラス面についてはこれを正当に評価継承しつつ、マイナス面についてはこれを改めることを躊躇すべきではない。今回、高校の社会科を「地歴科」と「公民科」とに分離独立させたことは、「公民科」において従来の社会科のプラス面を継承しつつ、「地歴科」によってマイナス面を補う趣旨によるものといえる。
 単に「占領軍の押しつけ」という理由で社会科を全面否定したり、逆に、これを改革すること自体を「社会科つぶし」としてタブー視する(“社会科信仰”)ことは愚かなことである。
 今日では、社会科は「戦後教育のチャンピオン」として花形教科扱いされているが、社会科が導入された当時は、決してそのようには受けとめられていなかったのである。今日の社会科論議の根底には、占領当時以来の“地歴独立論”が潜在していることを見落としてはならない。
 昭和27年の岡野文相時代に「社会科の改善」等が教育課程審議会に諮問されたが、その理由説明の中に「地理や歴史を社会科から外して、独立した教科にした方がよいとの主張すらもある」とあり、地歴独立論が表面化していた事実を物語っている。
 また、歴史学者の間でも“地歴独立”が早くから主張され、坂本太郎博士(元東大教授)は「歴史の変遷と歴史教育」と題する論文(昭和41年)の中で、次のように指摘している。
 
 制度的な面で、第一に改めたいことは、社会科から歴史を分離独立させることである。戦後の歴史教育の欠陥の最も大きな原因がここにあるからである。
 社会科は現在の社会を理解し、どうすれば社会をよくするか、自ら考える力を養わせることを目標とするという。そこで教えられる歴史は自然に社会が中心となり、変革の意欲にばかり重点がおかれる。社会経済の大きな流れに比べれば、個人の力は微々たるものであり、精神よりも物質であり、順応よりも反抗であるという観点から、史実がとりあげられる。戦時中の皇国史観が唯心的な偏向をおかしたとすれば、社会科歴史は唯物的な偏向をおかしたものである。広大無辺な歴史を単に社会という一面からのみ理解しようとすることは、宝の山に入ってことさらに多くの宝を見ないのと同じではないか。・・・
 頭に冠する社会科の名はまだとり払われない。これがある間は、歴史は社会科学でなければならぬというような議論の根拠にもなりかねない。すべからく、社会科は解体し、歴史・地理などそれぞれ名実ともに独立させるべきであろうと思う。
 
 このように地歴独立をめぐる論争は40年前から続いているのであり、その延長線上に今回の教育課程審議会論議を明確に位置づけた上で、論議の中身を冷静に検討する必要があるのである。戦後40年というパースペクティブの中で今回の論議を見ないと、「文部省がもたついていたから、最後にクーデターで決まったような印象を一時世間に与えている」という黒羽教授の指摘は理解できないだろう。「『歴史は社会科学の面ばかりではない』『世界史選択は愚行でもとに戻すべきである』という意見は、教科教育専門家の集団の中では少数意見でも、社会全般には常識であった」という黒羽教授の指摘もその通りである。筆者自身は教育専門家の端くれであるが、3年間の臨教審の体験を通じて、いかに教育専門家(教育関係者を含む)が今日の抜本的な教育改革の実現を阻む守旧的体質をもった度し難い存在であるか、「素人」の見識がいかに鋭く、本質を衝いたものであるか、に目を開かれる思いがした。
 
専門家の辞任劇に思う
 
 文部省の委嘱で新学習指導要領づくりの社会科協力者会議の座長格の委員をしていた上越教育大学の朝倉隆太郎教授(元日本社会科教育学会会長)は、「皇国史観のような歴史観が入り込むのを社会科の枠で押さえて来たのに、こんなやり方で強引に多数意見だった社会科をつぶすやり方はクーデターだ」といって辞任したという。また、同じく協力者会議に加わっていた広島大学の平田嘉三教授(全国社会教育学会会長)も、「代表としてけじめをつけ、学者の良識を示したかった」として文部省に辞表を提出したという。
 この二教授のように自らの人生を社会科教育に賭けてきた方が辞任される気持ちはよくわかるが、しかし「学者の良識」を示すために辞任した、というのはいかがなものであろうか。「歴史は社会科学の面ばかりではない」「世界史選択は愚行でもとに戻すべきである」という社会全般の“素人”の「常識」よりも社会科の改革に反対する「学者の良識」の方が正しいと一体誰が断言できるであろうか。辞任された気持ちに対しては十分同情の余地があるが、学者は自らの独善性を排して、もっと“素人”の「常識」に謙虚に耳を傾けるべきであり、今回の辞任劇も“悲劇の英雄”として感傷的に扱われることなく、教育課程審議会においてこの二教授らがいかなる“質”の論戦を展開したのかを冷静に吟味することが大切である。
 新聞報道では社会科「解体」が強調されているが、今回の改革は社会科の“解体”にねらいがあるのではなく、従来の「公民的資質の育成の目標に加えて、国際社会に生きる日本人として必要な自覚と資質を養うことをねらいとする」ものであることを見落としてはならない。それ故に、サンケイ新聞の「主張」が指摘するように、「『民主的、平和的な国家・社会の有為な形成者』となるための教育は『公民』の各科でしっかり教えればよい」のである。
 そこで次に、専門家と素人の双方を含む教育課程審議会高校分科会(62・10・27)でいかなる議論が行われたのか、内部資料で見てみよう。
 
 ○歴史教育には、系統性・専門性が特に望まれると同時に、公民的資質を超えて諸外国のものの考え方を見る目を養う必要がある。そうなると、社会科の枠組みの中では教育目標を達成することができないのではないか。世界史の履修率は68%位に下がっている。諸外国の歴史性を理解しなければならない今日の状況にあってこれは憂慮すべき問題だ。世界史は小学校で学習しないし、中学校でも近世以降日本史と関わりのある部分しか教えられていないので、歴史を独立させると同時に世界史を必修としてほしい。
 ○現在の日本は国際化を真剣に考えるべき時であり、教育課程の中にも国際化の視点を入れるべきである。履修率が三割を下回る県もあると聞いているが、世界史を何とか必修にできないかと思う。社会委員会では、世界史を社会科の枠の中に入れたまま必修にすると、「現代社会」を必修から外した経緯もあるので問題が生じるという指摘があったが、その問題は歴史または地理も社会科から独立させることで解決される。また、現場には社会科イコール社会科学といった誤った考え方があり、支配層が被支配層を搾取するという視点から生徒に歴史を教える傾向もあるが、高校生くらいの年代では、人間の良い面と悪い面を素直に教えるべきだ。そのような人文科学的な歴史の教え方や国際化という点からも地歴を社会科の枠から独立させてほしい。
 ○人文科学として地理と歴史はつながりが深い。歴史と地理を一つの教科として独立させた方がよい。
 ○地理の立場から歴史と一緒にという要望があるのか。地理を歴史と結びつけるということは更に検討することが必要ではないのか。「倫理」も歴史の人文科学的考え方と共通するものがあり、納得させることは難しい。社会科の中で世界史を選択必修として指定する方がよい。
 ○現場サイドからの意見として、歴史は社会科から独立させた方が教育しやすい。
 ○社会科の枠をそのままにしておけば、「現代社会」と世界史のどちらが重要なのかという議論にすりかわってしまい、結論がまとまらなくなる。
 ○教委の指導主事や現場の校長に聴いてみたが、やはり40年間社会科の枠組みの中で教えてきて、それなりの理論を構築してきたこともあってか、歴史あるいは地歴を社会科から独立させるべきであると積極的に主張する人は少数。多くは現行のままがよいという意見だ。世界史の履修が減っているのは、大学入試の影響が大きい。世界史は特に共通一次試験で点数がとりにくく、専門性が強くて生徒には難しい。必修になれば勉強するからそれでいいというのではなく、内容についても検討が必要だろう。
 ○今日の意見を聞いた限りでは現状維持よりも世界史必修とか社会科の枠を外すという意見が強い。
 ○教科等別委員会(社会委員会)では現状維持の意見の方が数は多く、課題別委員会(第三委員会)では両論同じ程度であったようである。
 ○日本の企業の人間は他の国々のことを知らない。外国の宗教や文化、経済、あるいは歴史上の人物がどういう展開でできてきたのかを知らないとなかなか相手の心を理解できない。世界史をすべての生徒が履修するようにしてもらいたい。
 ○この問題については社会科教育懇談会の意見を踏まえて案をまとめたい。社会科を分けることについての理由は、歴史の学問の性質として専門性・系統性が高いということと、人間の学として未来をみつめ、過去を振り返るという性質から公民的資質の育成という社会科の目標を超えることになるためと私は理解した。
 以上が主なやりとりであるが、地歴独立、世界史必修化に反対する明確な論拠を示す意見はまったくなかったことは注目に値する。
 
社会科維持、改革の論拠は何か
 
 その後、11月4日に諸澤分科会長の私的な懇談会として、社会科の枠、履修のさせ方、必修単位数について専門的立場からの検討を行うために「高等学校社会科教育懇談会」が開催された。出席者は諸澤分科会長、木村尚三郎、田村哲夫分科委員、学習指導要領作成協力者(主査)ら計十名。この懇談会ではまず約五分間全員が所見を述べた後、諸澤分科会長が「なぜ社会科を地歴科と公民科に分離してはいけないのか。また、その根拠を示す文献があれば教えてほしい」と質問したが、明確な答えは誰からも返ってこなかった(この場面が、地歴独立を決定づけた最大のクライマックスであったといえる)。辞任した朝倉教授も社会科を日本史、世界史、地理のグループと現代社会、倫理、政治経済のグループに分けることを前提として、各群から一科目ずつ合わせて6単位以上履修させることを提案したにとどまっている。
 11月28日付毎日新聞(「授業は変わるか上」)は、懇談会は「相当の低抗が予想されたため、当初は日程を二日間とった」が一日で決着した。「この背景に十月はじめ、中曽根首相(当時)が文部省幹部に『歴史教育をしっかりやってくれ』と念を押したことと、自民党文教族の歴史重視の圧力があるといわれている」と指摘しているが、そのために朝倉教授をはじめとする協力者会議の専門家たちが自らの説を曲げたとは到底考えられない。
 筆者は同懇談会の詳細な審議メモを入手し、出席者全員の発言内容を調べた結果、二日間の予定が一日で決着した最大の理由は“政治的圧力”ではなく、社会科を分離してはならないという明確な論拠を協力者会議の専門家たちが示すことができず、議論の“質”において予想された「相当の抵抗」がなかった事実が判明した。この事実を直視しないでいたずらに“政治的圧力”を喧伝するのは不当である。
 では、地歴独立、世界史必修化論の根拠は何か。それは11月27日に教育課程審議会委員に配布された“統一見解”(「審議の経緯から」と題するメモ)によれば、第一に、「歴史・地理の学習は、それ自体人間としての在り方生き方を考える上で欠かせない重要な位置を占めるものであると同時に、国際化の進展の著しい今日において、歴史・地理教育の重要性の高まりという時代的要請」があること、第二に、「高等学校教育における歴史・地理学習は、公民的資質の育成に加えて、21世紀国際社会に主体的に生きる日本人を育成するという見地からの目標」が必要であること、第三に、「小・中・高等学校を通じたバランスのとれた日本史、世界史、地理学習を行う必要」があり、「小・中学校で必修として行われていない世界史を必修に位置付ける必要がある」こと、の三点に要約される。
 地歴独立論の最大の根拠は、地理や歴史は社会科学ではなく、人文科学である点にあるといえる。林健太郎氏は「歴史を社会科学の中に分類するのはマルクス主義者以外にはあまり見当たらない。社会現象はその条件や状況を形成する重要な要素ではあるが、それは人間の個性的行動を呑み尽くしてしまうものではない。歴史はあくまでも具体的な人間の営為を中心に叙述されるべきものである。歴史が社会科の中に入っていることがこのような歴史の特性を薄める働きをしていることは争われない」と指摘しているが、その通りであろう。
 現在、中等学校の教育で総合的な社会科の形を残しているのはアメリカと西ドイツの一部だけであり、歴史、地理を独立教科として位置づけるのが、ソ連を含めヨーロッパの常識となっている。
 11月29日付の朝日新聞の社説は「世界史必修の前に、なぜ(社会科―筆者注)解体か、批判者を説得しうる説明がなければならない」と指摘するが、逆に社会科の枠を維持しなければならない根拠は示されていない。今回の地歴独立を決定づけたのは、これを熱心に主張する教課審委員に対して、これに明確に反論する論拠を提示しえなかったことにある。
 「なぜ解体か」とただ疑問を投げかけるだけで「なぜ社会科の枠が必要か」について十分に「批判者を説得しうる説明」ができない限り、前述の坂本太郎氏や林健太郎氏の歴史教育や歴史学の本質論に立った地歴独立論の方に分があるのは当然であろう。不十分とはいえ、教育課程審議会は「審議のまとめ」や“統一見解”で「地歴科」「公民科」の分離独立の必要性の根拠を提示しているのであるから、これに反対するのなら、明確な論拠を示す必要がある。
 今後必要なのは社会科の枠をどうするかよりも、世界史、日本史などの新教科独自の役割を明確に位置づけた上で、教科書の中身をどう変えるかについての論議である。暗記物に成り下がっている現状からの脱皮を、大学入試問題のあり方も含めて根本的に再検討しない限り、「仏つくって魂入れず」になることは明白である。
◇高橋 史朗(たかはし しろう)
1950年生まれ。
早稲田大学大学院修了。
スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員、明星大学助教授を経て現在、明星大学教授。


 
 
 
 
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