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2001/01/09 産経新聞朝刊
【自分の顔相手の顔】曽野綾子(402)21世紀の人間教育
 
 一九三一年に生まれた私は、二十一世紀のことまで考えたことがなかった。私が三十七歳だった時、女性の平均寿命は七十四歳だったことをよく記憶しているから、私は二十一世紀まできりきり生きていられるかどうか、というところだったのである。だから確率の少ないことは、あまり考えない、ことにしたのだろう。
 しかし私は元気で二十一世紀を迎えた。いつまでも生きていられるものではないが、運命から「生きていていいよ」と言われている間は「ああ、そうですか」と素直に従っておく方がめんどうでないと思っている。
 私は教育改革国民会議の第一回目の会議の席で「すべての失敗は人生でやり直しが効くが、殺人と自殺だけは、後で補うということができない」と言った。だから、子供たちに、人間の命は特別な原初的な重い意味を持っているということを、現実の生活の中できっぱりと教えなければいけない、と言いたかったのである。
 しかし核家族では、祖父や祖母が老いて死んで行く姿をみることもない。父や母が最期を迎えるのは病院である。死ぬことや殺すことは、テレビの画面の中で見て理解したつもりになっているが、つまりそれはヴァーチャル・リアリティー(虚像の現実)で、電源を切れば全く心の中に定着しない、従って人生観に何の影響も残さないものなのである。
 自殺などというものは、昔から哲学青年か、高名な文学者か、美人の女優が実行すれば軽薄な世間はそれを何か致し方がないもののように承認し、時にはその人に関する神話をさらに華美なものに仕立てあげたものであった。
 しかし自殺した人の家族は決してそんな思いにはならないだろう。私は自殺は「芝居がかっている」からいやだった。私は昔、母が自殺する時の道連れになりかけたからよくわかっているのである。
 戦争の時も、私は自分が死にたいのでもないのに、明日まで生きていられない運命に直面させられた。私は生きていたい、とそれだけを思った。私自身の努力で爆弾の直撃を避ける方法など全くなかった。それ以来、私はこの世に「安心して暮らせる」状態などないこと、生きることは運と努力の相乗作用の結果であること、従って人生に予測などということは全く不可能であること、しかしそれ故に人生は驚きに満ち、生き続けていれば、びっくりすることおもしろいことだらけだと、謙虚に容認できるようになった。「ワンダフル」という英語は通常「すばらしい」と訳するが、それは「フル・オブ・ワンダー」=驚きに満ちている、という意味で、つまり「びっくりした」ということだ。生きていれば必ず、その人の予測もしなかったことが起きる。英語を話す人たちは、予定通りになることをすばらしい、と感じずに、予想外だったことをすばらしい、と感じたのだ。
 そのためにも、人は、他人を殺してはならない。自殺もいけない。二十一世紀の人間教育の基本はそこから出発する。
◇曽野綾子(その あやこ)
1931年生まれ。
聖心女子大学卒業。
作家。日本財団会長。


 
 
 
 
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