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2000/08/24 産経新聞朝刊
【正論】作家 曽野綾子 上坂氏の奉仕活動批判に反論する
 
◆奉仕とボランティア混同
 八月五日付の産経新聞「正論」欄に上坂冬子氏が教育改革国民会議の第一分科会が出した答申に怒りの反論を出された。
 「高校を卒業したすべての国民に一年間ボランティア作業を義務づける」ことに対して「冗談じゃない」「現状からみて他人への思いやりが自己を取り戻すきっかけになるというのは幻想というべきだ」「いま、条件として“個”を掘り下げる好機にさしかかりながら、論点をぼかし関心を分散させるような思いつきの教育改革案には、はっきりノーの意思表示をしておきたい」
 こういう文章に対して、「正論」欄が「この内容は曽野さんが作文をしたという教育改革国民会議の第一分科会の答申にあることだから、反論を書いては」と、日本の新聞の読めない土地にいた私に電話をしてくれたのである。
 まず基本的な第一点。私は答申の文章の中で、一度も「ボランティア」という言葉を使っていない。ボランティアと奉仕とは深く意味するところが違うからだ。ボランティアとは自分の意志で何かをすることであり、それは全人間性を賭けた深い選択の結果である。
 私にはイタリアの或るNGO(非政府組織)のボランティアのことがいつも胸の中にある。東欧の動乱の中で孤立した町が食料や医薬品の不足に陥った時、彼らは小さな自家用機で物資の投下を続けた。その最中に飛行機は地上から撃墜された。
 「危険があってもまだやりますか」という新聞記者の質問に、生き残った仲間の一人は答えた。
 「当然でしょう。そこに必要がある限り続けます」
 それが究極のボランティアの姿である。もちろん私たちのほとんどがその境地にまではとうてい至らないのだが−。
 八月二日付で毎日新聞に「『奉仕』強制に違和感」という「記者の目」を書いた高安厚至氏は、上坂氏と違って、ボランティアと奉仕を混同してはいない。しかし「奉仕」は「本来、自発的でなければ、意味がなく、国家が強制すれば、それは『労役』でしかない」と言う論理は、何でも戦争中の滅私奉公のパターンに押しつける硬直した思考体系である。
 
◆教育は強制から始まる
 高安氏も私も、国家からさまざまな利益を受けている。教育、医療、健康保険、電力や水道の供給、警察や消防による安全への体制などである。与えられたなら、国家にその見返りとして多少の奉仕をすることのどこが悪いのだろう。もらいっぱなし、というのは乞食の思想だ。しかも受け取る国家という相手はつまり同胞なのだ。
 高安氏は、「子供自身が納得してモチベーションを持てない限り、どんな行動を取らせても成長の糧(かて)とはならないだろう」という。
 これは明らかな間違いである。教育は程度の差こそあれ、強制から始まって自発性を目覚めさせる。個の発見は必ず他者の中で行われる。他者と共生することで、人間は共通性と個性の双方を発見する。他者のない個はなく、強制のない自発性も厳密には存在しない。
 
◆何年待つのか個の確立
 私は家庭内暴力を受けて育った。子供の私はそのような暴力を肯定するいかなるモチベーションもなかった。しかし私はその火宅のような家庭のおかげで、子供の時から人生を深く見るようになった。教育は氏が言うほど、単純な結果にはならない。しかしもちろん平和な家庭が一般的に言っていいのは間違いない。
 上坂氏に対しては、私はまず賛成を表明しなければならない。善意ばかりの未熟練のボランティア活動が邪魔であることは、私も二十八年間の体験の中で知っている。ボランティア活動は「それが楽しくてたまらない間はほんものではない。純粋に楽しくなったら止めた方がいい」と言われているくらいなのだ。
 上坂氏がまず個の確立を、と言うのは当然だ。私はそれを戦後五十年以上も待った。しかしそんな日はついにやって来なかった。
 昔一人の善意に溢れる進歩的教師に会った時、彼はこう言った。
 「ある日生徒が来て言うんだよ。『先生、ドアからだけ出入りできるもんじゃねぇな。窓からも外へ出られるんだな』って。ほんとに子供っつうものは、おもしろいことを発見するもんだ」
 これが自由な教育を考える一つの姿勢だったのだ。物事には、簡単な約束、つまり強制される認識の部分が必ずある。ドアはその外側に歩いても安全な平面があることを約束している。しかし窓はそうではない。そこから脚を踏み出せば、数十階下に転落するかもしれない。運動場は歓声を上げて走ってもいいところだ。しかし教室は静かに座って教師の言うところを聞く場所だ。これらも強制的に場の意義を納得した上で、自発的に受け入れる認識である。それだけの約束ごとさえも、五十五年間、教師たちも親たちもしつけられなかった。個の確立は何年待てばいいのだ。
 既にあちこちの教育の場で「やや強制的な奉仕活動」は行われている。奉仕活動というものはやっていない人ほど反対する。経験すれば多数の人がそれなりの楽しさを発見する。「他人への思いやりが自己を取り戻すきっかけになるというのは幻想というべきだ」と上坂氏は言うが、私は全く反対の体験者を実に数多く見て来たのである。(その あやこ)
◇曽野綾子(その あやこ)
1931年生まれ。
聖心女子大学卒業。
作家。日本財団会長。


 
 
 
 
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