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2000/05/31 産経新聞朝刊
【自分の顔相手の顔】曽野綾子(324)十七歳 与える喜びのない少年たち
 
 十七歳の犯罪が立て続けに起きたのをきっかけに、学校にもカウンセラーを置くような制度の見直しが進められているが、カウンセラーのところに相談に行くような少年は、たぶん既に救われているのである。
 昔はカウンセラーなどというものもなかったが、私たちは、友達や、近所で話を聞いてくれる小父さん小母さんをその代わりにしていた。或る年になると、親には話したくない、話してもむだだと感じる領域ができるのもほんとうなのである。だからカウンセラーが必要なのだろうか。
 犯罪に直行するような性格の少年は、人との関わりを信じていないのだから、たぶんカウンセラーのところになど寄りつかない。
 親のやったことに深く恨みを持っている子供を私もよく知っているし、その親にも当然欠点がある。しかしたいていの子供はたくましく親など乗り越えて行き、最後には結果的にそういう力を与えてくれた親に、私のように感謝するようになるのが普通だと思う。
 親に恨みを持ち続けていられるのも、まず生活に苦労せず、他人とも深く関わりなしにやってこられたからである。多くの場合、それは親がその子を庇護した結果である。乞食をしなければ一家が食って行けないという家庭だったら、物乞いという辛い仕事の中で、時には屈辱的に他人に出会わざるを得ない。そういう少年たちを、私は世界のあちこちの国でたくさん見た。
 だから人間は、どんな境遇になっても不幸なのだ、とも言える。食べていけなければ、人間の基本的な安心は失われるが、生活が豊かでも、ほかの不満が必ず起きる。
 しかし同時に、どんな生活でも受け取り方次第では幸福なのだ。今晩食べるものが見つかったというだけで、貧しい家族は笑顔になれる。パン一個を買うお金を手にした日の幸せは、豪華な食卓につけるお金持ちなど、全く味わえないほどのものになる。明日のパンはなくても、とにかく今晩の食卓に食べるものがあるのは、偉大なことなのだ。
 あって当たり前だから感謝する気にもならず、自分が与える側に廻れば満たされるという実感も体験したことがないままに大人になりかけている十七歳は、ほんとうにかわいそうなのだ。教育がその機会を与えなかったのだから、彼らの罪だけでもない。
 日教組の先生方は、「要求することが市民の権利である」と教育した。その結果、受けるのが当然で、与えることなど全く意識にない精神構造の少年たちが生まれた。ようやく最近、ボランティア活動などが盛んになって、ごく普通の若者、中年、老年も、与えることの中にきわめて素朴な人間的喜びがあることを実感するようになった。
 学校の先生方は、教育の荒廃はもう自分たちの手には負えない、と言っている。カウンセラーでことが解決するなどと思っていると、またもや「与える路線」のレールが敷かれるだけで、根本の解決にはならない。
◇曽野綾子(その あやこ)
1931年生まれ。
聖心女子大学卒業。
作家。日本財団会長。


 
 
 
 
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