日本財団 図書館


2000年7月号 中央公論
「中流崩壊」に手を貸す教育改革
個性教育が広げる 「機会の不平等」
苅谷剛彦(かりやたけひこ)
 
はじめに
 二十一世紀を間近に控え、日本社会のいやます閉塞感は、さまざまな制度の改革を迫っている。昨年二月に提出された経済戦略会議の答申「日本経済再生への戦略」(議長・樋口廣太郎アサヒビール名誉会長)や、あとで詳しく見る「二十一世紀日本の構想」懇談会(座長・河合隼雄国際日本文化研究センター所長)の報告書(本年一月提出)に顕著に見られるように、めざすべきは、集団主義や護送船団方式からの訣別であり、ヨコ並びの「結果の平等」から「機会の平等」への転換である。そして、「個」の自立と新たな公共性の創出が求められている。
「日本的システム」からの脱却をめざすこうした社会改造論の中で、キーワードとなっているのが、「自己責任」である。組織の安定や生き残りよりも個人の活力と創造性に価値を置くために――「個人」を中心に社会の再編成を進めるためには、自己に責任を帰する原則が何よりも確立されなければならない。そして、自己責任を改革の基本原則と見なす議論は、後に詳しく見るように、教育の世界でも根強い。
 ところが、このような主張に対し、自己責任を負うべき個人が、どのような状況に置かれているか、さらには、個人を取り巻く環境がどのような変化の兆しを見せているのか、といった問題は十分に検討されているとは言いがたい。「あるべき個人」の理想から出発した議論は、実態の変化に足下をすくわれかねないのではないか。「自己責任社会」の建設には、どのような死角があるのか。この論文では、「結果の平等」の日本的な理解のしかたがはらむゆがみと限界を手がかりに、自己責任社会の担い手の形成にまつわる問題、すなわち、自己責任を負うべき個人の形成にかかわりをもつ教育の問題に焦点をあて、自己責任社会の建設に潜む問題点を明らかにする。
 
「二十一世紀小渕懇」と「経済戦略会議」の陥穽
 
 議論の手がかりとして、小渕恵三前首相の委嘱による「二十一世紀日本の構想」懇談会の報告書を材料にしよう。この構想の中では、「個」の自立が日本社会を再生する切り札と見なされている。そこでは、「たくましく、しなやかな個」という理想が語られる。
 これまでの日本社会は、個の自立を阻んできた。だから、日本を変えるためには、「たくましく、しなやかな個」が求められる。だが、個の自立を阻む主な原因は、「場の和を第一に考える日本人の傾向」である。その結果が「先進国のなかでは貧富の差が少な」い社会を生み出す一方で、「個人の能力や創造力を存分に発揮させる場としてはむしろ足かせとなってきた」というのである。このような議論には、「和」を重視する日本人→「結果の平等」の強調→個の自立への足かせ、といった論理の展開が見てとれる。「『結果の平等』ばかりを問」うことで、「出る杭≠ヘ打たれ続けてきた」。だから、結果の平等から機会の平等へと転換しなければならないというのである。
 同様の認識は、「日本経済再生への戦略」の中でも、「21世紀の日本経済が活力を取り戻すためには、過度に結果の平等を重視する日本型の社会システムを変革し、個々人が創意工夫やチャレンジ精神を最大限に発揮できるような『健全で創造的な競争社会』に再構築する必要がある」といったように表現されている。
 だが、このように指摘されている「結果の平等」とは、一体何を意味するのだろうか。「日本人のもつ絶対的とも言える平等感」とは何を指しているのか。
 あとの議論を先取りすれば、「結果の平等」が足かせとなっているという見方を支えているのは、実はそれ自体が日本的な平等主義の考え方である。そして、この日本的な平等主義のとらえ方が一因となって、現在根深いところで生じている日本社会の変化から目がそれている。
 この問題に答えるために、まずは、そもそも「結果の平等」という考え方が、どのような意味で、また、どのような歴史的文脈において登場したのかを探ってみよう。
 
「結果の平等」のルーツ
 
 一九六五年六月四日、前年に黒人差別の撤廃をめざした公民権法が成立したことを受け、アメリカの黒人の名門ハワード大学で、ときの大統領ジョンソンが「諸権利の達成のために」と題した演説を行った。「貧困との闘い」のいっそうの強化を提唱したのである。そして、この中で、「結果の平等」というまったく新しい平等の考え方が示されたのである。
 
 長年にわたり、鎖につながれてきた人を解放し、競争のスタートラインに立たせ、「さあ、あなたは自由に他の人たちと競争ができる」と言い、それだけで自分は完全にフェアであると正しく信じようなどとすることはできない。機会の門戸を開くだけでは不十分である。われわれすべての市民は、この門戸を通り抜けるにたる能力を持たなければならない。これこそが、公民権のための闘いの、次なる、そしてより深遠な段階である。われわれは自由だけではなく機会を求める――たんなる法的な公正ではなく、人間的な能力を――、たんなる権利としての、理論としての平等ではなく、事実としての、結果としての平等を求めるのである。
 
「競争のスタートラインに」立たせるだけでは、過去から蓄積された負の遺産(=差別や貧困)のハンディを取り除くことにはならない。だから、機会の平等だけでは不十分だというのである。これにつづく部分では、フェアな競争を可能にする条件の整備として、能力の発達の機会を保証しようという考え方が、「結果の平等」には含まれていたことが、さらに明確に示される。
 
 二〇〇〇万もの黒人たちに、多くのアメリカ人と同じように、学び、成長し、働き、社会の一員となり、個人の幸福を追求することのできる能力を――肉体的にも精神的にも――伸ばすチャンスを与えることが課題である。
 この目標のために、機会の均等は必要不可欠ではあるが、それだけでは十分ではない。どのような人種の男女も、さまざまな能力分布の幅(レンジ)は同じである。しかし、能力は生得的に決まるものではない。能力はどのような家族と生活をともにするか、どのような近隣に住んでいるか、どのような学校に行っているか、といった環境の豊かさや貧しさによって、能力が伸長されたり発達を阻まれたりするものである。
 
 結果の平等とは、機会の平等の一層の徹底と、にもかかわらず、それでも公平な競争を阻む、歴史的に累積された負の遺産に目を向けて考え出された平等主義の考え方だったのである。だからこそ、この演説を受け、ヘッドスタートと呼ばれる補償教育(学校入学以前に教育上の文化的なハンディを克服しようとした)や、アファーマティブ・アクションと呼ばれる「結果の平等」政策(マイノリティに一定数の仕事や大学入学の枠をもうけた)が具体化していったのである。
 この演説で表明された「結果の平等」という新たな平等の考え方に基礎を与えたのは、当時の労働次官補モイニハンが執筆した「モイニハン・レポート」であった。この内容を詳細に検討した黒崎勲によれば、「『結果の平等』の概念は(機会の)利用能力の平等とグループ間の平等という二つの要因から構成されるものであり、もとより、形式的な平等に対する実質的な平等として一般化されるべきものではない」(『教育と不平等』新曜社、括弧内は引用者による)。ここでいう、「(機会の)利用能力の平等」とは、同じスタートラインに立つために、それまでの負の遺産をできるだけ除去しようとする「人間的能力」の発達の保証=補償を指すことは明らかである。他方、「グループ間の平等」とは、一人ひとりの個人の違いを打ち消そうというのではなく、あくまでも、黒人など他の人種の人びとがグループとして、白人並みに機会の平等の恩恵に浴する条件の整備を求める考え方である。
 
日本的「平等感」の危うさ
 
 日本版の「結果の平等」と、アメリカのオリジナルは二つの点で大きく異なっている。ひとつには、後者の場合、機会の平等だけでは不十分であるといった認識から、結果の平等(=事実としての平等)を求めるといった方向で平等観の革新が起きた。ところが今日本では、結果の平等を脱却し、機会の平等へ向かうべきだという方向で平等観の変更が行われようとしている。図式的にいえば、〈アメリカ=機会の平等→結果の平等〉に対し、〈日本=結果の平等→機会の平等〉という、まさに逆立ちした構図である。
 二つ目の違いは、「グループ間の平等」という視点の有無である。アメリカの場合には、社会の成員全員を等しく扱おうという平等がめざされたわけではなかった。マジョリティ・グループと同じ程度に機会の平等の恩恵にあずかることを求めた(だからこそ、不十分であったという批判が後に出てくる)。それに対し、グループ間の比較という理解ではなく、すべての個人を同じように処遇することに目を向けるのが、日本版「結果の平等」である。
 このような違いに着目すると、日本における結果の平等という状況認識の特徴・問題点を、二つ指摘することができる。
 第一に、日本版の結果の平等を下敷きにすれば、「事実としての(不)平等」には目が向きにくい。しかも、事実の検証抜きに、「横並び」といった日本文化論的な平等の理解をさしはさむことで、事実としての「結果の平等」が過度に実現しているといった誤解を与えてしまう。じっさい「二十一世紀日本の構想」の「日本人のもつ絶対的とも言える平等感」と深く関わるが、「『結果の平等』ばかりを問い、縦割り組織、横並び意識の中で、出る杭≠ヘ打たれ続けてきた」という一文を正確に読めばわかるように、そこでは、事実としての「結果の平等」状態を問題にしているのではない。「『結果の平等』ばかりを問」う、そうした気分としての日本的な「平等感」が、「横並び意識」を生み、出る杭≠ェ打たれ続ける状況を作りだしてきた、と見ているのである。
 ここでは、横並び意識といった心情をもとに、形式的な処遇の画一性を指して結果の平等状態とみなされている。それゆえ、結果の平等から機会の平等への転換が主張される中で、そもそも機会の平等がこれまでどれだけ実現してきたのかという事実に照らした検証も行われない。そこでの平等状態とは、アメリカ的な意味の平等からはほど遠いのである。
 第二に、「グループ間の差異」という視点が欠けているために、すべての個人が能力や実績にかかわりなく同じ処遇を受けることを「結果の平等」として理解してしまう。それゆえ、結果の平等は機会の平等の不十分さを補うものであるという位置づけより、結果の平等が機会の平等を阻害していると見てしまう。これらの結果、日本版「結果の平等」は、事実としての不平等に目を向けることもなく、形式的な処遇の画一性を気にかけることに横滑りしている。
 結果にいたるプロセスの形式的な画一性に目を向ける「横並び意識」とは、まさに、このような「平等感」にほかならない。しかし、どんなに横並び意識が強くても、そのことが自動的に事実としての結果の平等に結びつくわけではない。一例をあげれば、画一的な教育が、「結果の平等」のよく知られる事例として非難される一方で、そうした教育がもたらす事実としての結果の不平等(だれがどれだけの教育を受け、どのような教育を受けた人びとがどのような社会的な地位に就いているか)にまで目を向けて議論が起こらない。形式的に処遇が同じであることを確認すれば、横並びに安心してしまって、事実としての平等の検証に向かうことなく平等を問う意識は満たされてしまうのである。
 しかしながら、教育の世界に限らず、「結果の平等」が実現していないことは、すでに数々の研究が実証的に明らかにするところである。所得格差が拡大していることを示す橘木俊詔の研究(『日本の経済格差』岩波新書)や、職業的地位の再生産が生じていることを示した佐藤俊樹の論考(本誌五月号「『新中間大衆』誕生から二〇年」、『不平等社会日本』中公新書・近刊)などである。さらにいえば、公務員や教員などの一部を除き、すでに日本の企業社会では横並びの集団主義や日本版「結果の平等」の理解とはほど遠い、厳しい能力主義的な競争が繰り広げられているという見方もある(熊沢誠『能力主義と企業社会』岩波新書)。
 ところが、私たちの「平等感」は、こうした不平等の実態(事実)に根差すよりも、処遇の画一性に目を向ける日本版「結果の平等」に横滑りしてしまう。というのも、すでに拙著『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)で明らかにしたように、戦後の私たちは、平等・不平等を問題にするとき、実態よりも、感覚としての「平等感・不平等感」にしたがうことに慣れ親しんできたからである。
 その原因の一端は、同じ会社や学校、同じ業界内といった閉じた空間の中で主たる競争が行われてきたために、人々はその集団内部における処遇の差異に関心を向けてきたことにある。例えば、自分とかけ離れた人びととの違いではなく、同じ集団に属する身近な人との微妙な差異が気になるのは、社会全体の不平等の実態よりも、「不平等感」がベースにあったからである。同じ会社内、同じ学校内、同じ業界内といった、閉じた空間の中で競争が繰り広げられたことにより、処遇の形式に目が向けられるようになった。その結果、個々の会社や学校や業界を越えたところにある、不平等の実態を問題にするのではなく、閉ざされた競争空間の中での処遇の微小な差異が問題にされてきたのである。こうして、横滑りした「結果の平等を問う」意識は、社会大の事実としての不平等を不問にしたまま、閉じた共同体的競争空間の中では「個人の先駆性」を抑圧するものとして作用しつづけた。
 この閉じた共同体的空間における横並び意識を解体することが、結果の平等から機会の平等へという提言である。ところが、日本版・結果の平等の見方では、解体の過程で事実としての結果の不平等がどれだけ拡大しているか、それがどのような問題をはらんでいるのかということには目が届かない。一九六〇年代のアメリカほどではないにしても、現在の日本においても、特定の階層の人びとの不利な状況が再生産される「負の遺産」の蓄積が始まっているのかもしれない。そうだとしたら(その兆候をこの論文の後半で示すが)、結果の平等から機会の平等へという「発想の転換」は、思わぬところで足下をすくわれてしまう。そろそろ私たちは、これまでの状態を過度な「結果の平等」と見なしてしまう日本的「平等感」の危うさに気づくべきである。
 
教育改革における疑わしき個人モデル
 
 ところで、「自己責任社会」の担い手は、金子勝の表現を借りれば、「強い個人の仮定」に基づく個人といえる。経済における「強い個人」とは、利益を合理的に見通すことのできる経済学の教科書に登場するような「合理的経済人」であり、政治の領域では市民社会の担い手になれるような、これまた政治学の教科書に出てくるような公民的モラルを身につけた「市民」である(『反グローバリズム』岩波書店)。
「強い個人の仮定」は、だれもが強い個人になれることを前提としている。そして、強い個人であればこそ、「自己責任」を担いうると想定される。こうして、循環論法的に、次のような結論が導かれる。すなわち、「強い個人の仮定」を基盤に構想される自己責任社会では、強くなれないのは、個人の責任である、と。つまり、「強い個人の仮定」は、個人の行為の結果を自己責任に帰することをあらかじめ前提として織り込み済みなのである。
 しかしながら、どのようにすれば、「強い個人」は誕生するのか。自己責任社会の担い手たる「強い個人」の形成の問題に、ひとつの政策的な解答を与えているのが、教育改革の議論に示される「生きる力」と個性尊重の教育である。
 中央教育審議会答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」には、「[生きる力]は、自ら学び、自ら考える力など、個人が主体的・自律的に行動するための基本となる資質や能力をその大切な柱とするもの」であるとの基本認識が示されている。この認識に明瞭に示されているように、「自ら学び、自ら考える」個人こそが、「主体的・自律的」に行動できる「強い個人」である。
 さらに個性尊重と「生きる力」の育成をめざす教育改革プランでは、この「強い個人」をつくり出す手だてとして、学ぶ意欲や興味・関心を育てることが重視されている(「教育課程審議会答申」)。そしてその具体的な方法として、生徒の「意欲・関心・態度」を評価する「新しい学力観」に基づく評価法がすでに導入され、二〇〇二年からは生徒の体験的な学習・問題解決的な学習を図る「総合的学習の時間」がさらに取り入れられることになった。
 このような関連を図式的に示せば、次のようになる。子どもに意味もわからないまま無理やり知識を詰め込むのではなく、子どもの意欲や興味・関心を高めるように教育を変えていくことで、「自ら学び、自ら考える」個人、「主体的・自律的」に行動できる個人を育てることができるという理解である。だからこそ、子どもにとって学ぶ意味のわからない知識を押し付けるより、子どもの生活との関連を重視した、体験的学習のような方法がよしとされるのである。
 私の見るところ、この人間モデルの基盤を提供しているのは、心理学、より正確にいえば教育心理学である(なお、心理学と教育心理学との違いは、後者の場合には、心理的なメカニズムの解明にとどまらず、発達論的な観点からの望ましさについての仮定が忍び込みやすいことにあると考える)。自らの興味・関心に従い、自己実現をめざす、意欲あふれる個人、「自ら学び、自ら考える」個人――「内発的な動機づけ」にしたがった、自己啓発的な人間のモデルが、理想の教育がつくり出す「強い個人」である。
 私たちがこのような個人の形成モデルを広く受け入れるようになった背景には、世俗に流通し単純化して理解された、教育心理学の学習モデルが提供する望ましい個人についての了解がある。
 人びとが何かを行おうとするとき、その動機がどれだけ心の内側から発するものか。教育心理学の用語を使えば、「内発的に動機づけられているか」どうかによって、私たちの社会はその行為を価値づけることに慣れ親しんできた。強制や慣習に従うよりも、自発性が尊ばれる。金儲けや権力・名声の獲得といった、自分の外側にある目標をめざして行動するよりも、自分自身の興味・関心に従った行動のほうを望ましいと見る。個性を尊重する社会では、自分の内側の奥底にある「何か」のほうが、外側にある基準よりも、行動の指針として尊ばれるのである。個性尊重とセットになって語られることの多い自己実現も、自分の内側の「何か」が満たされた(to fulfill)状態である。個性の尊重とは、このような自己の内側にある「何か」を大切にする考え方にほかならない。個性の尊重と個人の自立を求める私たちの社会は、ますます個人の心の内なる声に価値を置こうとしている。
 このように、私たちの社会を突き動かすルールの源泉に、教育心理学の提供する人間の行動モデルや学習モデルがある。その影響の一端は、子どもたちにとって意味のある学習を求める昨今の教育界に深く広く浸透している。
「何のために勉強するのか」「この知識は何の役に立つのか」。教育改革や子どもたちの学習離れをめぐって、子どもの年齢を問わず、このような問いが頻繁に登場するのも、裏返せば、学習の意味が問われているからであり、意味ある学習が求められているからである。しかし、実のところ、そもそもこうした問いにだれもが納得のいく解答などあるはずがない。突き詰めれば、それほど「哲学的な」問いだともいえるのである。にもかかわらず、意味への性急な問い掛けは跡を絶たない。学習の意味や教育の意味を求める問いの広がりは、興味・関心にしたがった、「自ら学ぶ」学習を望ましいとする学習観が、社会の隅々にまで広がったことを示している。
 世俗に流通した俗流・教育心理学の学習モデルは、ひとまずこうした意味への問いかけを、各人の興味や関心に投げかけることで解消しようとする。面白いと感じるかどうか。楽しいかどうか。各人の興味や関心に「意味の問い」を振り向けることで、感性のレべルで(裏を返せば、理性的な納得に基づくのではなく)、とりあえず解答したことにするのである。面白い/つまらない、楽しい/苦痛、すぐ役に立つ/役に立ちそうもない――「面白くて楽しくて役に立つ」授業が求められるのは、性急に意味を求める問いが社会に充満していることの裏返しである。
 しかし、俗流・教育心理学の学習モデルは、あくまでも個人のモデルであり、せいぜいが教師―生徒関係といったミクロな社会関係までにしか目を向けない。個人をとりまくより大きな社会構造の変化や社会関係によって、人々がいかなる制約を受けているかといった側面への関心は希薄とならざるを得ない。優れた教師なら、どの生徒の意欲や関心も高められるはずだ、といった教育学的理想主義も手伝って、人びとをとりまく環境の制約や社会の変化には目が向かなくなるのである。
 だが、だれもが興味・関心・意欲を持てるのか。それらをもとにつくられる「強い個人」になるために、だれにでも「機会の平等」が保証されているのか。どの子どもの興味・関心を高められる優れた教師はどれだけいるのか。優れた教師のもとでも、興味・関心・意欲を感じられないのは、自分が悪いせいなのか。これらの問いに、俗流・教育心理学のモデルは答えない。
 
数字が示す、子どもたちの意欲と興味・関心
 
 これまで見たように、自己の責任を担える「強い個人」は、意欲や興味・関心といった自己の内なる声を聞き、「自ら学び、自ら考える」ことのできる人間である。教育改革がその目標を達成し、「自ら学ぶ意欲や思考力・判断力・表現力」(「教育課程審議会答申」)をもった人間が育成されたときに、「強い個人の仮定」に基づく自己責任社会の担い手が誕生すると考えられているのである。
 だが、意欲や、意欲の源泉ともいえる興味・関心は、各人の心の中にだけ存在するのではない。各人をとりまく成育環境やその変化によって影響を受けるものである。まったく個人の自由意志や心理学の領域の問題にもみえる、意欲や興味・関心といったことがらは、社会からどのような影響を受けているのか。本論文の中心課題であるこれらの問題に対し、つぎに、その変化にまで着目した検討を行おう。
 ここで分析に用いるのは、一九七九年と一九九七年に行った高校生を対象とする調査の結果である。この調査では、二つの県の一一の高校を選び、一八年の間をおいて、同じ高校を対象に、同じ調査項目を用いた質問紙調査を実施した。対象は、各年度一三七五人の高校二年生である(調査の詳細については、樋田大二郎他編『高校生文化と進路形成の変容』学事出版、を参照)。
 この調査から、生徒たちの勉学に対する意欲と、興味・関心の変化を母親の学歴別に見たのが、次の図1〜3である。
 まず、図1によって、「落第しない程度の成績をとっていればいいと思う」生徒の割合を見ると、母親のどの学歴層で見ても、そう思うという回答が七九年よりも九七年のほうが多い。つまり、学習意欲は全般的に低下しているということである。しかし、母親の学歴別に見ると、この一八年間に大きな変化が生じている。七九年の時点では母親の学歴による差は小さかったのが、九七年になると母親の学歴が低い生徒ほど、学習意欲の低いものが増えているのである。言い換えれば、学習意欲の階層格差が拡大したということである。
 同じような結果は、図2の「先生や親の期待にこたえるために、勉強しなければと思う」にも見られる。ここでも、全体的に学習意欲の低下が見られる中で、母親の学歴による差が拡大している。
 つぎに、図3で、「授業がきっかけとなって、さらに詳しいことを知りたくなることがある」かどうかをたずねた結果を見よう。これは、授業をきっかけに「自ら学ぶ」意欲の強さを問う質問といえる。しかし、ここでも、全般的に九七年のほうが少なく、しかも、母親の学歴による格差が拡大している。また、グラフは表示しないが、「授業でわからないことはそのままにしない」という項目についても、母親の学歴が高いほどそう思う生徒が多くなるといった傾向が九七年になると表れている。ここからも、個人の自主性にゆだねられた学習態度が、階層との結びつきを強めていることがわかるのである。
「豊かな社会」の出現によって、子どもたちの学習意欲や興味・関心が低下しているとたびたび指摘される。しかし、その実態は、全般的な低下と同時に、社会階層による差の拡大が生じている。だれもが同じように意欲や興味・関心を失っているわけではない。社会階層によって意欲や興味・関心の維持のしかたが異なることが、これらのデータから明らかとなったのである。一九九二年の学習指導要領の改訂以後、「自ら学ぶ」意欲や興味・関心の育成をめざしてきた教育改革の成果は、この調査結果を見るかぎり、惨憺たるものである。いや、個性の尊重が叫ばれる影で進行していたのは、全体の意欲の低下と階層間格差の拡大だったのである。
 こうした意欲や興味・関心の階層差の拡大は、教育改革の失敗を示すに留まらない。日本的な「結果の平等」が求められてきた中で、「機会の平等」の条件ともいえる「同じスタートライン」にだれもが立っているかという問題に対しても疑問を呈するものである。個々人の問題としてではなく、階層間の差異という「グループ間」で比較すれば、意欲や興味・関心という、機会の平等の大前提となる意識や態度において、出自による格差の拡大が生じているからである。
 図4は、同じデータから中学時代の成績(九段階の自己評価の平均)を、七九年と九七年について示したものである。この図から明らかなように、いずれの年度でも母親の学歴によって学業成績の差が見られるのだが、その差は九七年のほうが拡大している。意欲や興味・関心にしたがった学習の成果ともいえる学業成績においても、社会階層による格差拡大の傾向が確認できたのである。昨年の本誌八月号の拙稿(『学力の危機と教育改革)で示した、家での勉強時間の階層間格差拡大の傾向と合わせれば、意欲も興味・関心も、学業成績も、勉強時間に示される努力も、全体の水準が低下しつつ、階層間の格差が拡大しているのである。
 
結託する経済学と、俗流・教育心理学
 
 ここで取り上げたデータは、高校生の勉強についての意識とその変化にすぎない。これだけの結果から、日本の社会全般の変化について語ることは、過度な一般化といえよう。にもかかわらず、このような現象自体が、視野に入ってこない日本的な平等のとらえ方に疑問をつきつけるためには、こうしたデータの提示にも一定の意義がある。
 とりわけ、全体の水準が低下する中で、階層差が拡大している傾向に目を向けるべきである。このような傾向は、所得格差の拡大など、事実レベルで「結果の不平等」が拡大している現状を念頭に置くとき、より一層重要な意味を帯びてくるからである。
 所得格差の拡大であれ(橘木俊詔)、職業的地位の再生産であれ(佐藤俊樹)、これまでの議論は、いわば「結果としての不平等」を明らかにしてきた。それに対し、この論文が明らかにしたのは、「強い個人の仮定」の根底にある、「強い個人」の形成においても、すでに社会階層による差異が拡大しつつある傾向である。個人の意欲や興味・関心、さらにはそこから導かれる「努力」といった面でも、階層間の不平等が拡大している。個人の自立と自己責任が求められる中で、現実に進行しているのは、結果の不平等と、機会の平等の大前提となる意欲や努力の不平等なのである。
 しかも、意欲や興味・関心の階層差の拡大は、教育の世界で個性尊重がより強調される中で生じている。心理学的に現実を理解しようとする傾向が社会に広まる中で、私たちの多くは、社会による強制を抑圧と見なし、個人の選択や自由の拡大を尊重してきた。このように「個人」が尊重される中で、個人の形成にかかわる社会的・文化的環境の階層差が拡大しているのである。
 俗流・教育心理学の枠組みから意欲や興味・関心を理解するかぎり、そこに階層差があることや、その格差が拡大する傾向に目が向くことはない。興味・関心に根差した、高い意欲や、自己実現を求める欲求は、一見すると、だれにとっても望ましい、普遍的な目標のように見える。こうした普遍的な価値をまとう形で、教育心理学的に装飾された個人の学習と発達のモデルが社会に普及した。「自ら学び、自ら考える」個人を育成する、自己責任社会の担い手の形成をめざす教育改革がさしたる反論を招かないのも、そのべースに普遍的な個人の発達モデルが想定されているからだろう。
 しかも、そこで前提とされる個人の発達モデルの普遍性は、市場原理の徹底によって自己責任社会を作りだそうとする、経済主義的な「強い個人」の形成に、心理学的・教育学的な根拠を与えている。俗流・教育心理学が提供する「強い個人」の発達モデルが、市場主義の「強い個人」を補完する関係が生じているのである。
 森真一が、『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)の中で的確に指摘しているように、過去の自分を簡単に「リセット」できる、自己コントロールや感情コントロールに秀でた「心理主義化社会」の個人は、能力主義管理と雇用の流動化に見事に適応できる労働者である。さらにいえば、「本当に自分のしたいこと」「自分さがしの旅」の果てに、フリーターという名の、安価なパートタイム労働力の予備軍となる若者たちの多くは、比較的恵まれない階層の出身者である。にもかかわらず、「自分さがし」をよきものと見る視線からは、階層差の問題は見えない。自分の興味・関心や、個性を追い求める「個人の問題」が前面に押し出されるばかりである。
 このように、発達モデルが前提とする、〈主体〉的な個人の発達を許す自由な教育空間と、市場主義の経済モデルが前提とする、〈主体〉的な個人の自由な経済活動を許す経済空間との間には、矛盾や齟齬は見られない。さらにいえば、市民社会派の政治モデルが前提とする、〈主体〉的な個人の自由な政治参加を許す政治空間も、これらと同じ「強い個人の仮定」の上で、矛盾なく整合する。ところが、肝心かなめの「強い個人」の形成の基盤が揺らいでいる。本稿が示した、「強い個人の仮定」を根本から否定しかねない教育空間の変化は、普遍的発達モデルがとらえるイメージからは見えてこない。
 
階層分化の予兆
 
 意欲を生みだす「自己」、実現される「自己」は、個人をとりまく社会的・文化的環境によって刻印されている。この事実を忘れると、意欲の低下した人びと、自分さがしがうまくできない人びと、自己実現に失敗した人びとは、その結果を自己の責任として引き受けなければならなくなる。個性尊重の名のもとで、個人の意欲・興味・関心を中心に「生きる力」を育てようとする教育改革は、自己責任・自己選択の原理を教育の世界にも持ち込む。だが、教師がきっちりと教えることより、教師は支援者であり子どもが自ら学ぶことを重視してきた教育改革の進行と同時に、意欲や興味・関心における階層差の拡大が生じているのである。
 自己責任社会においては、生涯学習の機会を通じて、職業的な再訓練の点でも「やりなおし」がきく社会にしようという提案が盛り込まれている。雇用流動化を前提とした「セーフティネット」として再訓練の機会の提供を位置づけようというのである。ところが、学習意欲の階層差がかなり早い時期から広がってしまえば、再教育の機会は一部の人びとのものに留まってしまう。生涯学習論の研究で、再教育の機会はそもそも学歴の高い人びとに再配分される傾向が強いと指摘されるが、学習意欲の階層差が広がった社会になれば、再訓練の機会はセーフティネットとして作用しづらくなる。その網の目からもこぼれ落ちる個人が増えるからである。
 しかも、すでにアメリカで起きているように、IT(情報技術)革命の進行する「知識を基盤とした経済(knowledge based economy)」のもとでは、教育の格差がそのまま所得の格差に結びつく度合いが強まる。だからこそアメリカでは、学力の全般的な底上げと大学進学機会の平等化とが同時にめざされているのだが、それとは反対に短絡的に知育偏重からの脱却をめざした日本の教育改革は、知識を基盤にできない人びとを増やし、不平等の拡大に寄与しているのである。
 にもかかわらず、こうした問題は、日本流に横滑りした「平等感」からは見えてこない。社会に広まった俗流・教育心理学の発達モデルは、個人の発達の普遍性を印象づける。それに輪をかけて、「生きる力」といった望ましい教育の理想が、だれもが「強い個人」に育つかのような幻想を振りまく。ここでもどのようなグループの人びとに不利益の蓄積が起こっているのかを見ようとする視点が欠けている。個性の尊重といいながら、グループ間で異なる初期条件の差異をも個性のひとつと見なしてしまえば、このような問題は教育改革の議論の俎上にさえ上らない。
 事実としての機会と結果の不平等の拡大に目を向けないまま、横並び意識を解除するために「強い個人」間の競争を強化すれば、一部の「勝ち組」の意欲は高められても、不利益の累積とその顕在化から諦めの気分が広がり、全体としての意欲の低下と、社会の階層化が進む可能性がある。意欲や努力における階層差の拡大が、階層文化の差異として定着し、再生産されれば、「おれたちとやつら」といった階級社会の文化的二重構造が日本でも顕在化してくる可能性がある。個人の自立を図ろうとすることで、横並びの集団主義的制約は解体できたとしても、それに代わって、今度は個人をとりまく階層文化的な制約が強まることになるのだ。
 教育の議論に戻っていえば、おそらく現状における「ゆとり」と個性尊重の教育改革は、「強い個人」の形成にはつながらないだろう。実際には、教育の多様化がますます進み、若者の意欲と努力と学力の全般的な低下と格差の拡大とが生じるばかりである。その結果、「強い個人の仮定」による自己責任社会の基盤は、足下から崩されていく。
 個人を中心におく心理学的な現実理解の広がりは、個人の問題を家族や教師・生徒、友人関係といったミクロな社会関係から見ることはあっても、人びとを包み込むより大きな「社会」から切り離す素地となっている。「心の問題」がクローズアップされる所以である。ところが、「社会」と切り離されたこうした現状理解は、教育や福祉を含め社会の問題を市場の問題と見なそうとする市場主義と容易に結びつく。その暴走を制御するはずの市民社会派の主張する市民の自立も、「強い個人」の形成が階層的な偏りをもってしまえば理想通りには進まないだろう。
 このような中で、結果の平等から機会の平等への転換がめざされている。機会の平等を可能にする初期条件がどれだけ整っているのか。その検証抜きには、セーフティネットの構築という、今ではだれもが口にするようになった決まり文句も、空虚な響きを残すだけだ。「強い個人」の誕生が、すでにその出発点において問題を抱えている現実の変化に目を向けない限り、二十一世紀を展望する日本社会の改造計画は、絵に描いた餅に終わるどころか、その絵に描かれていない思わぬ問題を抱えることになる。日本的平等感にとらわれすぎて、次の世代の階層間格差の拡大が気づかぬ間に進行することを見逃すならば、自己責任社会を選び取った大人世代は、将来きっとその社会的責任を問われる時を迎えるだろう。
◇苅谷 剛彦(かりや たけひこ)
1955年生まれ。
東京大学教育学部卒業。米ノースウェスタン大学大学院修了。
東京大学教育学部助教授を経て現在、東京大学大学院教育学研究科教授。


 
 
 
 
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