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私はこう考える【教育問題について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1974年8月号 正論
教育における真の革新
石原慎太郎
 
 その理由がいずれにあるかは別にしても、現代の日本の社会で、現行の教育に不満や不信をもたぬ人聞は少なかろう。ということは、現行の教育が何らかの変革を必要としていることの証しである。
 ならば、日本の教育における変革革新とはいかなる形をとるべきであるのだろうか。
 日本の教育にとって不幸なことは、現行の教育に対する批判が、政治における、すでにその歴史的意義を失ったいたずらなイデオロギー的対立を、そのまま反映して行われているところにある。
 階級史観にのっとった日教組の文部省教育に対する批判は、その階級史観的根拠をはずせば、例えば、教員の待遇や、他の職業と比べての不備等、幾許(いくばく)の部分が当っていないこともない。と同時に政府与党側からの日教組に対する批判の大方もまた、教育を固定した一つの歴史観と、それに基くイデオロギーの視点だけで捉えようとする偏狭さへの非難として妥当なものといえる。
 しかし今日の日本の教育の悲劇は、そうした対立する両者の観点のいずれに立っても、決して教育が現代文明の態様に合致した正当な形に改革され得ることがないというところにある。
 両者の言い分を均等に眺めても尚、そこに共通して欠けているものがあり、その欠落がある限り、教育に限らず社会を動かす他の工学的な要因の是正改革は正当な形で行われることはあり得ない。
 
 今日の教育に対する二様の批判の根底にそれぞれ欠けているものは、現代という時代の、変貌変質中の新しい文明に対する正確な歴史意識に他ならない。現代の社会が、歴史的に何であるかを正確に捉えずして、その社会の付帯要件に対する正確な分析も、ましてや、その正当な変革もあり得るはずがあるまい。
 教育の真の革新のために必要なことは、まず、教育の目的と理念が、今の時代には果して何であるべきかという反省に他なるまい。日教組に代表される勢力は、現行の教育の目的と理想を批判し、それに替るものとして階級史観にのっとった理念、目的を設定しようとするが、今日文明の歴史的な発展段階からして、そうした理念や目的が、実は革新という呼称とは全く反して、保守よりも更に退嬰的なものでしかないことは文明史的にも顕かである。
 とはいえ、日教組を批判する側がかざす教育の目的と理念もまた、実はなく、現在の社会や文明の歴史的現実に大きなラグを構えるものでしかない。教育の目的と理想とは、具体的にいい直せば、世の役に立つ人間の育成に他なるまいが、ならば現代の日本の社会において社会の発展の役に立つ人間とはいかなるものであるのかを、われわれはここらでもう一度考え直す必要がある。
 そして、現代の日本の社会にとって好ましい、社会の欲する人間像の新たな設定は、正確な文明批判と歴史意識によらなければ、その肖像は現実にそぐわぬ甚だ滑稽なものにしかなるまい。
 現行の教育が、歴史的に眺めて、現代社会の文明の態様に合致しないものであるということの証しは、戦後教育制度にいささかの変貌を強いられはしても、実は今日尚、百年前の明治の文明開化以来日本人が行なってきた教育が、未だにつづいているということである。それは、僅か百年間における急速度の画期的な社会の近代化、産業化を具体的な目的とし、かつまた理念として捉えたところに成立した、極めて限られた目的のための教育に他ならない。
 明治における近代教育の創設と、その際の基本的・具体的な目的の一つは、基礎教育の徹底、いい換れば、文盲の排除であったが、しかし、その目的が短期間で達成された後、その他の主たる目的は、そうした教育的地均(なら)しの上に、一刻も早く西洋に追い着き追い越すため、つまり日本を一刻も早く近代産業国家に仕立てるための、必要要員の効果的な育成に他ならなかった。
 その目的のために国家社会が必要とした人材とは、具体的にいえば官僚と経済エリート、加えて一時期は軍人、そして産業を支える工業のために必要な技術者、そしてまた産業社会の秩序維持のために必要な幾つかの専門家、たとえば法律家、あるいはせいぜいが医師、といったところで、現在行われている日本の教育が最もその育成に効果のある人材とは、それらの職掌だけである。
 その範疇からはずれる人間たちは、日本の近代文明を彩りはしても、決して社会全体が念願した発展のための必要要員ではあり得なかった。そして、確かにその種の教育は他民族に例のない、僅か一世紀という短期間における社会の迅速な近代化、産業化に多くの優秀な人材を提供することで顕かな効果を示しはした。
 
 丁度、明治百年を機に、困難といわれた一九七〇年代に現われたさまざまな社会現象が明示し暗示するように、当初念願した近代化を一応達成し、かつて志向した通り西欧の先進国をある部分では凌駕し、アメリカやスウェーデン等の先進国と並んで、文明的に顕かに脱工業時代に突入し、それに付随したさまざまな社会的な変貌を余儀なくされている日本にとって、かつてのその種の教育が、今ある社会の態様に適したものであるといえるはずがない。
 現代になればなるほど日本の教育は、日教組と、それを批判する与党政府の両者がそれぞれいうとは違った意味で顕かに偏向した教育に他ならない。日本および日本人は、すでに工業時代を脱し、次の文明期に入った現在でも尚、われわれが次にいかなる社会を志向し、そのためにいかなる努力と配慮をしなくてはならぬかということに対して確かなアイディアを持つことができずにいるが、いずれにしても、次の時代のための最大の先行投資である教育において、他の問題よりも一層歴史的な予見性の獲得に志し、その視点からの教育の改革に努めなくてはなるまい。
 そのためにも、現在に到っても尚踏襲しているかつての教育が何でしかなかったかを反省する必要がある。その反省のための端的なよすがとして、ここに、象徴的ともいえるある挿話がある。
 
 自決した三島由紀夫氏が自ら述懐していたことだが、氏は大学に在学中からすでに小説を執筆し、その才能はあくまで狭く限られた社会ではあったが文壇においても認められかけ、氏の才能に期待する人も多かった。しかし氏の父君は、自らが官僚としてはいわば二流の農林官僚でしかあり得なかったことへの抑圧から、息子の三島氏に、自分がなすことのできなかった一流の官僚たる大蔵官僚になることを強く要求し、小説家になりたいという三島氏に、小説など役所に通いながら、仕事の後なり休日にものせばよいといって氏を強制し、三島氏も親孝行のためにその言に従って高文を受け、大蔵省に合格した。
 しかし氏の文学に対する情熱は大蔵省に入って止むことなく、一層旺(さか)んなものとなり、仕事の合間、仕事の後、そして休日のすべてをさいて執筆するうち、その過労が崇り、ある日出勤のため電車を待つ間、立ったまま居眠りしホームかち転落し、脆うく一命を落しそうになった。それを聞いた父君は、流石(さすが)に息子を殺しては元も子もないと自覚し、形として一応当初の目的を達成したという自己満足で自らを説得し、氏に大蔵省の退官を許したそうである。
 三島由紀夫氏に関わるこの何とも滑稽でかつ痛ましい挿話は、実は大なり小なり形を変えて、今日の日本の社会に尚存在する事柄に違いない。三島氏の父君の発想は決して奇矯ではなく、実は今日でも尚、子弟を教育する世の親たちの平均的発想に違いない。つまり、日本の産業化の明治百年のためには、いかなる優れた芸術家も、社会的にみれば、必要な人材ではあり得なかったのだ。かつてとは違って、今では親たちはようやくそうした発想の持つラグに気がつきはしても、しかし尚、それにかわる、親としての、教育を通じての子供への期待の新しいパターンを持ち得ぬままに、かつての親たちよりも不安に、だからこそ一層遮二無二子供たちに向って、実は時代がすでに要求してもいないエリートへの道を望みつづけている。子供たちがいかなる人物に育つべきか、もっと端的にいえばいかなる職業に就くことが子供の才能を充分に発揮させ、当人も幸せにし、かつ世に迎えられるかという新たなパターンの発見のないままに、かつてよりも熾烈な教育における生存競争で、すでに幼稚園の入園から親子ぐるみの虚しい努力を強いられる日本の教育の混乱の深さは、正しく非歴史的、非文明的、非人間的としかいうよりない。
 
 最近首相は日教組への反撥の故に、教育における徳育の強調を口にしだしたが、冷静に眺めればそれは、日教組の口にする退嬰的な教育論への正確な批判にはなり得ていない。首相のいう五つの大切なり、十の反省なる徳育論は、もしそれを政治に関わらぬ誰かが口にした時、いかなる形の政治社会、いかなる態様の文明にあっても、当然容認されるごく基本的な人間の連帯のための要件にすぎず、そうしたものが教育の批判の中に持ち込まれること自体、そしてまたそれへのいたずらな反撥は、教育に名を借りた低次元な、いたずらな政治論でしかない。
 大切なことは、それらの徳育がいかなる社会的な目的、いかなる人間的な理念のために生かされるかということなのだ。
 つまり現行の教育では、そうした徳育の必要不必要は論外のことにしても、教育自体の技術的な目的なり理念がずれてしまっているために、教育を通じて子弟を世の役に立つ人間に育てるという抜本的な目的の意味がぼけてしまい、それに付帯されるべき徳育までもがなおざりにされている。つまり教育が教育としてあり得ていないというところに問題がある。
 いずれの時代においても欠くことのできぬ徳育を、教育の要件として生き生きと蘇生させるためにも、実はわれわれは教育が歴史的にどのような変革を強いられなくてはならぬかという、正当な歴史認識を持たなくてはなるまい。
 産業時代を脱した新しい文明社会にあっては、当然その社会のヒエラルキーの態様も変ってくる。教育は基礎教育から高度の専門教育までを行うが、進んだ社会になればなるほど教育はより多様で多数のエリートの育成を要求される。
 ある意味で発展し切った社会においては、その社会に棲息する人間のすべてがその個性を十全に生かし切った、他人の真似することの出来ぬエリートになり得るはずである。いい換えれば、制度としての最高学府を出る出ぬにかかわらず、一つの職業における極めて専門的な技術者への高い社会的評価のたとえば成熟した社会ではハンドクラフトへ高い評価と認識が持たれているが、今日の日本の社会では未だに「職人」の身分が正当に認められていない。成熟した西欧の社会では、銀行の重役よりも、独特のドレッシングをつくり出した有名なレストランのシェフのほうが社会における評価がはるかに高い、という現象が当然のこととして見られる。
 いずれにしても、産業時代を脱した日本のような社会では、もっと多様なエリートが必要とされるし、また存在すべきであって、教育にもまた、そうした線に沿っての改革があるべきである。
 かつて、産業時代に入る前の中世では、中世社会のエリート、ヒエラルキーは、農村の貴族であった。歴史の推移とともにそれが都市金権エリートとなったが、産業社会の変貌推移とともにさらに進展した社会におけるヒエラルキー、それを構成するエリートたちの質にも当然変化が見られる筈である。たとえば政治一つに限って見ても、新しい文明社会における政治の指導者は、かつてのような官界、財界出身に限られることなく、もっと専門的に分化した高度な技術の所有者になり得る可能性が強く、そうした点からも、政治の指導者の育成一つに限っても尚、従来の教育はすでに教育としての効果を果し得ない。
 
 工業時代を脱した新しい文明社会では、物質が賄う条件の完備によって、物質の充足追求が目的となっていた時代とは違った新しい人間主義が希求されよう。そしてまた、国家が要求する新しいエリートも、そうした目的理念の実現のために有益な人間たちとなる筈である。今までの時代のように物理的な条件の充足のために有益であった官僚や経済界のエリートは、その職業としての使命を歴史的に半ば失い、他のものにそれを譲らざるを得ない。それにかわるものが芸術家か宗教家か、あるいは哲学者、心理学者であるかの論は別にして、いずれにしても新しい文明社会の希求する新しい人間主義の造形者や担い手の育成に、果して今日の教育が力があるかということを、われわれは考え直してみる必要がある。
 
 教育はその時代、その社会、その文明が核心に持った全社会的、全文明的な理念と目的を子弟の人格を通じて発揚させる、最も人間的な社会的方法である。つまりその社会なり時代なり文明の個性が、最も端的に発揮される方法に他ならない。
 その時代、あるいはその社会が非人間的ならば、そこで行われる教育も、他の効果は挙げても人間性に乏しいものとなる。早い話が、今日の共産主義国家において行われている教育と、自由主義社会の先進国におけるそれとの較差を見れば明らかな公理だろう。しかし翻って、わが国に過去百年間つづき、かつまた現在も進行中の教育を眺めれば、果してその教育が依っているところの日本の社会、文明、それらをくるめて日本の近代史の内に埋蔵された目的意識と理念が、果して真にすぐれたものであったかどうかということは疑わしい。
 首相がとってつけたように、しきりに徳育を口にしだしても、実はその首相が主宰する政治そのものに正当な歴史意識が欠けてい、現今の日本の社会なり文明に対する合致がなく、政治が真の政治たり得ないならば、その政治家の口から説かれる徳育も、一体何のために使われる教育の挺子なのであろうか。
 以前、季刊芸術に発表した論文「飢餓感の転換」や、最近ニューヨーク・タイムズヘの小論にも記したことだが、最近日本に起るさまざまな事件を通してことごとに感じられる、果して日本の社会に先進国としての真の道徳律があったのかどうかという不安とそれに基づいた反省が今こそ必要ではないか。
 たしかに日本人は世界史に例のない、僅か百年間における瞠目すべき近代化に成功はしたが、しかしそれが余りの短期間に行われただけに、その実現のために、実は社会の真の成熟に必要な要件、真の道徳律の確定が削除された嫌いがないではない。いい換えれば明治百年の実績の上に、今日の日本人は依然として、その明治百年の成就のための目的意識を、実は獲得されなくてはならぬ真の理念の代りに依然として持ちつづけ、それが持たれるべき真の道徳律にすり替えられたままに依然として当てがわれているのではないか。
 それは、西欧に一刻も早く追い着き追い越すために必要で有効な手段をすべて善とする、いわば経済的な合理性に他ならない。経済的な合理性は、単に一つの合理であって、決してそれがすなわち徳とも善ともなり得ない。しかし、それを強引に徳とし善としたことで、日本の近代化は急速度に成就され、その近代化を悲願としたことでの日本人の連帯感もあり得た訳である。
 そして、民族のそうした内面的な虚構をそのまま教育の理念なり目的にすり換えて、日本の教育は行われてきた。民族の悲願が達成され、社会自体、文明自体に大きな変質が見られる今でも尚、その種の教育がその種の目的を依然として目的として据えながら行われているところに、日本の教育の悲劇的な現状がある。
 われわれは、明治百年の後の明治二百年のために、産業時代を脱したこの社会を、いかなる社会に変貌させ、完成させていくかを考えずして、教育の変革のアウトラインを考えることも出来ぬし、またその教育に盛り込まれるべき徳育について論じることもできはしない。
 
 さて、そうした抜本的な反省に立っての、日本の現行の教育の具体的な改革だが、基礎的な義務教育に関しても幾多の修正の必要はあるにしても、今日の日本の基礎教育、義務教育の充実は、その絶対値としては、世界的にも比類のないものに違いない。その完備した容器の中で、社会が必要とする新しい多様な人材をいかに育てるかの反省は充分に必要だが、しかし日本の教育を概観して見て、義務教育を含めてすべての教育に悪しき規制を与えているものは、何よりも今日の日本の大学の態様と思われる。
 幼稚園に発する日本の教育制度の終点である大学を思い切って変革することで、われわれは、その事前のステップである高・中・小学校、幼稚園における教育も無駄を少なく、本質的に改革することができるのではあるまいか。社会学者たちが指摘しているように、産業時代の次にやってくる文明社会では、専門的な技術は、現在よりも更に分化し高度化し、その種の教育を受けた大学卒業者でも尚、諸技術の発展によって社会に出た後も何度も再教育の必要があるようになるに違いない。
 そしてまた、現行の日本の大学が他国の大学に比べて、そうした文明的、時代的、歴史的な需要に最も応じ切れぬものであることは否めない。現に、他国に例のないことだが、日本の一流の企業は、その業種が専門的になればなるほど一層、大学卒をそのままその企業の中で雇用することが出来ず、企業の責任で大学卒に半年なり一年の徹底した再教育を施している。
 文明が進み、その変質の度が進めば進むほど、現行の日本の大学の教育が、今以上にその需要に応じ切れず、ギャップを増すことは自明である。そのためにも一刻も早く日本の大学を解体に近い改革に晒す必要がある。最高学府とされている大学が正当な歴史意識に基づいて改革される時、それへの過程である事前の教育の内容も、新入生を迎える大学の在り方によって、本質的な変革に迫られるに違いない。
 大学は、新しい文明社会がそれぞれの人間にそれぞれの分野における、今まで以上に専門家としての高度な学問技術を要求するという新しい特質に沿って改革されるべきである。すなわち大学の卒業者が、社会が期待する、そしてまた自らもその修得を志向したように、一人前とはいかずとも、一人前に近い専門家としての高度な技術学問を修得し、また修得せしめるような制度に改められるべきである。そしてまた新しい文明社会が、今日までとは違って、多岐多様な人材を要求することにのっとって、大学のカリキュラムや学部ももっと幅広く多様なものに改められるべきで、そうした新しいジャンルの専門家たちに大学卒としての権威を持たしめるために、そうした新しい学問技術の修得者に対して既成の学門技術の修得者と同等の、あるいはそれ以上の社会的評価と権威が与えられるべきである。
 大学は、在学者が当初に目的とした高度な学問技術の修得の意欲を欠いてしまうようなものではなく、真に開かれて誰にも入り易く、しかし卒業するためには人以上の努力と情熱がなければそれが不可能な、進級も卒業もはなはだ困難な大学に改めるべきである。
 そのためにいわゆる前期から後期への進級のための国家試験と、卒業に際し、それぞれの学部に共通な国家試験を行ない、各大学のそれぞれの学部の卒業試験に合格しようと尚、加えて国家の定めた一級、二級から更に数級の幅をもつ国家試験を受け、それに合格して初めて、私学、官学を問わず国家の認定する大学卒業の学士としての資格を与えられるという制度にすべきではなかろうか。今日の大学の中にあるいたずらな一流校、二流校の識別は、たとえ既存の有名校であろうと、その卒業試験に合格しようと尚、国家の定めた一級学士の卒業試験に合格しなければ、一級の大学卒として認定され得ぬという制度を設けることで、自然に淘汰されていくに違いない。
 そして今日の大学の、意欲を欠いた大学教授たちの与える形骸化した学問と教養が学生の需要に応じ切れず、また国家の定めた試験に不向きになれば、そうした無能な教授陣もまた、学生たちの選択によって自然に淘汰されていくに違いない。たとえば今日の日本の経済学部のみに見られる滑稽な錯誤、マルクス主義経済学が日本においてのみ経済学として通り得るような奇体な現象は、社会の現実が経済学に要求する需要に大学卒が応じ切れぬならば、自然に学問として淘汰されていくに違いない。
 そしてまた大学の学部が今ある以上に多様なものとなり、それぞれの学部の特性に応じた入試のカリキュラムが、小・中・高等学校における事前の教育を、今日見られる悪しき公平を脱して、今以上に子弟のそれぞれの個性を伸ばし、多様な人材の輩出に備える基礎教育に変るに違いない。
 依然として国家社会の産業化のためだけに必要な人材の養成の手段でしかない現今の教育では、小・中・高等学校での子供たちの極めて限られた種類の才能だけが教育の成果として評価され、それに該当しない子供たちへの配慮で、民主主義における公平の美名のもとに、はなはだ非能率な公平化の教育が行われている。原則としては六三三制を絶対的なものにせず、才能のある子供は小学校五年、中学校二年、高等学校二年でさえも上級校に進学し得、そうした事前の教育課程の省略の負担を、結局大学に進んだ当人自身が負うというシステムに改良すべきである。と同時に大学の教育の部門が多様化されることで、それに見合って小・中・高等学校の課程における子供たちの成績の評価も、今よりも多様で立体的なものになり得、今日の基礎教育課程で成績の振わぬとされている子供が、実は絶対値として従来の優等生よりも将来の社会のために優秀な素材であることが立証されるはずである。
 
 いずれにしても、日本の教育の改革は今日われわれのある社会文明がいかなる態様であるかという、歴史意識に基づいた本質的な把握と認識がなくてはあり得ない。そしてまた、そうした歴史意識に基づいて、われわれが四半世紀、あるいは半世紀先に日本の社会をいかなる形に新しく形造っていくかという明確な目的意識がなくして、教育の改革はただいたずらな改革にしか終らぬだろう。
 子弟に、それぞれの個性能力に応じて、それぞれの高度な情操、精神、そして教養を与えるはずの手段である教育が、それを管理している人間たちの正当な歴史意識の欠如のために、実は最も時代の本質にずれて、大きなカルチュラル・ラグを構えたものでしかないところに今日の教育の悲劇があり、社会の混乱があるのである。
◇石原慎太郎(いしはら しんたろう)
1932年生まれ。
一橋大学法学部卒業。作家、東京都知事。


 
 
 
 
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