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1993/02/02 読売新聞朝刊
[論点]偏差値信仰まで崩せるか 天野郁夫(寄稿)
 
 文部省の高校教育改革推進会議の報告と、それに対する関係者の反応を新聞などで追いながら、あらためて問題の「抜本的」解決のむずかしさを痛感させられた。
 高校入試をめぐる最大の問題はいうまでもなく、それを支配している「偏差値体制」にある。入試の世界に偏差値がはじめて登場したのは一九六三年。それから三十年の間に偏差値は、学校だけでなく教師や生徒、その親たちの心の中にまで支配的な力を及ぼす、ひとつの「体制」に発展をとげてしまった。それはなによりも、偏差値が客観公平性の衣をまとい、またその便利さによって人々の心をとらえることに成功してきたからである。
 どのような手続きをへて計算されるのか、はじき出される数値がどのような意味をもつのかにかかわりなく、偏差値は他のなによりも子どもの学力を客観的かつ公平にあらわすものと受けとられてきた。それを使えば、簡単に子どもと学校を序列づけることができる。学力評価の専門家であるはずの教師ですら、その魔力から逃れられないのだから、生徒や親になればなおさらだろう。この生徒が入学できそうなのはどの学校かと教師が考え、生徒や親がそんなものかと納得する(させられる)のに、これほど便利なよりどころはない。偏差値はそうしたものとして受け入れられ、確立された「体制」へと発展をとげてきたのである。
 その偏差値を利用し、進路指導や学校選択、さらには入学者選抜の手段として頼りにするのを全面的にやめさせることに、改革推進会議の改革構想の中心的なねらいがある。それがどれほど困難の予想される闘いであるかは、あらためていうまでもあるまい。
 問題の発端は、首都圏の私立高校の一部が推薦制による入学者の決定資料として中学側に業者テストの偏差値の提出を求め、利用している現実を、埼玉県教委が改めようとしたところにあった。そこから次々に明るみに出てきた一連のおぞましい、しかし関係者にとってはきわめて常識的な事実をあらためてくり返す必要はないだろう。問題はいわれてみれば確かにおぞましい行為がなぜ、当然のこととして行われてきたかにある。
 私学は独自の教育理念や校風を持ち、個性的であるからこそ私学である。その私学が、しかも推薦制による入学者の選抜に偏差値を使うというのは、自滅的な行為というほかはない。しかし、なおかつ偏差値を重視するのはその便利さに目を奪われてのことか、さもなければ偏差値が学校の社会的な評価の重要な尺度になっている現実のためであろう。便利さは捨てても、評価の尺度まで捨てられるのかどうか。同じことはもちろん、公立学校にもあてはまる。
 生徒の進路指導にあたる教師が偏差値に頼ってきたのは、できることなら生徒の希望する学校に、しかも浪人を出さずに進学させるには、それが生徒や親にとって、いや教師自身にとってすら、もっとも「説得的」で効率的な進路指導の手段だからである。
 進路指導のもっとも重要なよりどころである生徒の学力については、偏差値以外にもさまざまな評価の方法や指標がありうる。しかし、それは、どれも偏差値ほど「客観的」でもなければ便利でもない。しかも客観的で便利であろうとすればするほど、それらも偏差値まがいのものになっていく。偏差値追放による「空白」を何によって埋めうるのか。現場の教師たちの悩みの深さが想像される。
 生徒や親たちの悩みも深い。できるだけ希望の学校に入りたい。入れたい。浪人はしたくない、させたくない。一体自分の子どもの学力はどのくらいなのか。めざす学校に合格するのに十分なのか。そのはてしない不安にこたえてくれたのが偏差値である。この学校なら合格間違いなし、あの学校だと合格の可能性は六〇%、そうはっきりと教えてくれるのは、偏差値ならではである。中学が業者テストと偏差値をしめ出したら、どうしたらいいのか。だれが不安を聞き、とりのぞいてくれるのか。塾や予備校に頼る外はないのだろうか。改革の前途に待ちかまえているのは、そうしたはてしない不安である。
 コンピュータではじき出される偏差値は、まとっている客観合理性と効率性の衣において、まさに情報化社会の申し子であり、コンピュータという「神」のご託宣である。偏差値体制を突きくずそうというのなら、ただ学校という組織や制度のなかから偏差値をしめ出すだけでなく、人々の心のなかに巣くっているそうした「偏差値信仰」にも闘いを挑まなければならない。人々が偏差値という現代の神のご託宣を信じ、それにしたがって行動する限り、偏差値体制はくずれない。そしてその「人々」のなかには、直接の関係者である教師や生徒、親だけでなく、子どもや学校を偏差値の重さで評価しがちな私たち自身もふくまれている。
 三十年かかってつくりあげられた偏差値信仰であり、体制である。一片の通達や報告で、簡単にくずれさるはずがない。長く困難な、多面的な闘いが要求されることを覚悟しておかねばなるまい。(教育社会学)
◇天野郁夫(あまの いくお)
1936年生まれ。
一橋大学経済学部卒業。東京大学大学院終了。
東京大学助教授、教授、同教育学部長を経て、現在、国立大学財務・経営センター教授。

 
 
 
 
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