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2003/07/28 産経新聞朝刊
【一筆多論】論説委員・石川水穂 挨拶の大切さを伝える
 
 「日本は戦後、物質的には豊かになったが、それに反比例するかのように、心はどんどん貧しくなっている。生き方の基本となる躾(しつけ)や社会常識の欠如が、様々な問題を惹起(じやつき)しているのではないかと思われる。家庭生活で、『おはよう』『おやすみ』『いってきます』『ただいま』『いただきます』『ごちそうさま』『ありがとう』といった言葉が、ごく自然な日常会話として出てくることは、最低限の躾であろう」
 今年三月九日に自殺した広島県尾道市立高須小学校の慶徳和宏校長=当時(五六)=が昨春、民間人校長に応募したさい、県教委に提出したリポートの一節である。
 民間人校長は、校長の権限が職員会議の決定にしばられるなど、硬直化した学校運営に民間活力を導入するため、旧文部省が平成十二年からスタートさせた制度だ。慶徳氏は銀行マンとしての豊富な経験を買われ、採用された。「児童の笑顔が輝く学校」づくりを目指し、明確な目標設定と成果に対する厳正な評価、スピード感とチャレンジ精神をもった学校運営などを行おうとした。
 だが、高須小は、こんな慶徳校長の教育理念が容易に理解を得られるような職場ではなかった。広島県は日教組傘下の教職員組合の勢力が強く、とりわけ、尾道、三原市などの尾三地区は東隣の福山市と並び、組合の組織率が高い地域である。四年前の二月末、校長が卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱に反対する組合の執拗(しつよう)な抵抗に悩んで自殺した県立世羅高校も、この地域にある。高須小でも、大部分の教職員が組合に加入していた。
 慶徳校長は着任早々、五月の運動会の運営をめぐり、教職員から強い抵抗を受けた。同月十三日の職員会議で、校長が「今年度から、国歌演奏の下、国旗掲揚を行い、児童と先生方はそれに注目することとなります」と説明すると、「なぜ、日の丸を揚げないといけないのか」「注目したくない子もいる」「国歌演奏のカセットのボタンを押さない」「校長、教頭で揚げてください」といった質問や反対意見が相次いだ。校長はほとんど何も言えず、最後に「みなさん、よろしくお願いします」と涙ながらに頼んだという。
 まるで、他校から転校してきた子供に対する集団的ないじめのようなやり方である。学校改革どころか、それ以前の全く次元の違う問題で質問攻めにあい、困り果てている新任民間人校長の姿がうかがえる。
 しかし、慶徳校長はそんな中でも、高須小の子供たちに貴重な足跡を残した。朝のあいさつ運動である。校長は毎朝、一人で校門に立ち、登校する児童に「おはよう」とあいさつし続けた。
 慶徳校長が自殺した後の葬儀で、児童は次のような弔辞を述べている。「今でも、声が聞こえてくるような気がします。(今年)三月五日の朝の集いのときも、『みんながあいさつのできる明るい高須小学校になろうね』とお話ししてくださいましたね。高須小学校は、校長先生のおかげで今までより明るくなったと思います」
 それから四カ月後、今度は、校長自殺の調査にあたっていた尾道市教委の山岡將吉・教育次長(五五)が自殺した。山岡次長は、市内の小中学校に研究課題を設定させる「一校一研究」など昨年からスタートした「尾道教育プラン21」を実務面で支え、慶徳校長の相談相手にもなっていた。尾道市の教育界は貴重な人材を立て続けに失った。
 しかし、歴史は二人の教育改革にかけた志を決して忘れないだろう、と思う。


 
 
 
 
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