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1995/09/18 読売新聞朝刊
[社説]戦後50年を超えて 学校を「生きる力」培う場に
 
 「これまで私たちがしてきた教育は、一体何だったのだろう」
 オウム真理教事件に関連して、何人もの教師から、こんな述懐を耳にした。
 大勢の若者がオウムに走った。しかもその中に、いわゆる「受験エリート」が少なからずいた。そのことに衝撃を受け、教育者としての自らを問う姿である。
 今、「哲学書ブーム」だという。難解な用語の多いニーチェやヘーゲルの全集などが、予想を超えて売れている。事件のもたらしたもう一つの余波ではないか。
 冷戦構造の崩壊で、イデオロギーによりどころがなくなったことも無関係ではないだろう。景気を含めた先行きの不透明さや漠然とした不安感が、哲学に目を向けたとも言い得る。それに、オウム真理教事件が拍車をかけたことは疑いない。
 
◆なぜ売れる「ソフィーの世界」
 とりわけ、「ソフィーの世界―哲学者からの不思議な手紙」が、発売わずか三か月で七十万部に迫る勢いで売れている事実に驚かされる。その読者層は、若者を中心に小学生から高齢者まで幅広い。
 十四歳の少女に届いたなぞの人物からの手紙には、「あなたはだれ?」「世界はどこからきた?」とある。ここから、少女の「哲学の旅」が始まる。
 古代ギリシャの神話やソクラテスから、カント、サルトルに至るまでの哲学史が、ミステリー仕立ての物語と並行する形で展開される。生きていることの意味を問う、物事を批判的、総合的に見る、そうしたことの大切さを、改めて考えさせる本だ。
 ひるがえって見れば、戦後五十年の教育は、哲学や倫理を、無用の長物扱いして、わきに追いやってきた歴史だったのではないか。人間形成や市民としての教養、あるいは、深く考えることや批判力を培う教育を怠ってきた五十年ではなかったか。
 一八七二年の「学制」公布に始まる近代学校制度は、一貫して「効率」を物差しに拡充されてきた。単純化すれば、お仕着せの知識を伝達する教育である。
 そして、戦前は「富国強兵と殖産興業」を、戦後は「経済成長と科学技術」を追い求めるための国民教育の色彩が濃かったと言っていい。
 それは、国の統制の下、画一的で個性のない学校で、ひたすら子供を競わせて学力を高めようとするものでもあった。
 その結果、私たちは、協調的で平均的に質の高い労働力を作り上げ、経済的に豊かな生活を手にすることができた。
 他方、この五十年、進学競争への参加者が増え続ける。高学歴化と大衆化をもたらした反面、過度の競争と、そこからくる子供のストレスなど「負」の部分に直面させられることになる。
 五五年に五〇%だった高校進学率は、今年九七%にまで上がり、高校に行くことが社会的に当然視される時代になった。大学・短大への進学者も、六〇年の一〇%が四五%と増え、大学に行かない者の方が少数派に転じかねない勢いを見せている。
 戦後の「教育の機会均等」、教育熱心な国民性、親の横並び意識、それに、経済的なゆとりなどが重なった結果だ。
 この間、教育行政は、ひたすら「器」を作って「収容」する量的な対応に追われ、質の面になかなか目が届かなかった。しかも、本来はともに教育を担うはずの文部省と日教組は、不毛の対決を続けてきた。
 ようやく今年、日教組が協調路線に転換したものの、長い間の対立の構図は、七〇年代から始まった子供たちの変化に気づくのを遅らせた感がある。
 かつて学校は、無条件に価値あるものとされていた。長くいればいるほどいいところだと、信じて疑わなかった。
 その学校に行くことへの疑問は、子供の側から投げかけられた。七〇年代から八〇年代にかけて顕在化した登校拒否といじめの多発にそれが見て取れる。
 それは、ある意味で、必然の流れと言えなくもない。
 子供たちは、早く答えを出す競争を強いられる。なぜ、と考える前にまず覚える。偏差値は、他人を蹴落(けお)とさなければ上がらない仕掛けだ。「多様な個性を認めよう」と言葉では言われても、現実には、学校への順応の方が優先される。
 そうした学校のありように疑いを抱き、競争と効率に背を向ける子供が出てきたのも不思議ではない。
 この状況とタイミングで登場したのが、十一年前の臨時教育審議会である。
 臨教審は、社会の要請に重きを置いたそれ以前の教育改革論と違って、「教育を受ける側の視点」を前面に出し、自由化・個性化・多様化の方向性を示した。
 「自由化」を端的にくくれば、規制を緩和して、教委や学校、教師の裁量の幅を広げ、同時に、子供たちの学ぶ自由や個性を認めようとすることにある。
 
◆後戻りできない「自由化」
 それは、さまざまな形で実施に移されつつある。大学政策は、「行政指導型」から「自由競争型」に転換された。学習指導要領も一段と柔軟になった。登校拒否についても、学校外での「回り道」を認めることで、義務教育に風穴を開けている。
 とは言え、一連の改革はまだ始まったばかりだ。教委や学校現場にはまだ、自由化に対して根強い抵抗がある。自己責任を取ることの不安感があるからだろう。
 「自由と個性の教育」は、道筋としては正しいし、もはや後戻りできない。そして今、五日制の完全実施を前提に、学校のスリム化への模索が始まっている。
 そこでは、「生きる力を培う」ことが基本に据えられなければならない。「ソフィーの世界」がベストセラーになっている事実には、ある種の救いを感じさせる。これをテコに、教師も親も世間一般も、学校再生に向けて努力を傾けたい。

 
 
 
 
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