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私はこう考える【憲法改正について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


2004/01/01-15 ジュリスト
特集 憲法9条を考える 護憲的改憲論
大沼保昭 東京大学教授
 
はじめに
 
 ちょうど10年前、私は「『平和憲法』と集団安全保障――国際公共価値志向の憲法を目指して(1)(2・完)」という論文を公にした1)。日本国憲法は、日本国民にとって、また日本の侵略の犠牲となったアジアの諸民族を含む世界の人々にとって、20世紀後半の半世紀間どのような意味をもっていたのか。21世紀にはいかなる憲法であるべきなのか。こうした問題を、国際法と憲法9条の関係を中心に論じたものである。
 そこでは、憲法9条の意義と問題性を理解するには、日本の戦争責任と戦後責任の問題、戦争違法化の世界史的意義と同条との関係、日本が国際社会でどのような国家として生きていくべきか、国際社会の平和と安全にいかにかかわるべきかという問題も含め、総合的に9条を考察しなければならないという考えを筆者なりに提示したつもりである。
 同論文は、結論的には「護憲的改憲論」とも言うべき論攷となり2)、一部の学者からは「改憲論」の部分に対する批判も加えられた。しかし、日本国民の間ではこの10年間、国際社会の平和と安全に対する日本の責任を自覚する意識が広まり、護憲的改憲という意識は、必ずしもそうした言葉では示されないとしても、憲法に対する国民的コンセンサスを導く鍵として一定の広がりをもちつつあるように思われる3)
 政治的には、護憲的改憲論には3つの積極的意義があると考えられる。第1に、護憲的改憲論は、時代錯誤的な復古的改憲論やもっぱら「日米同盟」を強調する対米追随的な改憲論に対して、現憲法の意義を強調し、現憲法の理念を継承する、リベラルで未来志向的な改憲案となりうる。こうした改憲案は21世紀の広範な国民の期待に応えるものでありうる。第2に、9条の改正に対して生ずるだろう中国、韓国などのアジア諸国の反発を和らげ、国際的文脈で改憲がもたらす摩擦を最小限に抑えることができる。第3に、何よりも、護憲的改憲論を基礎に国民的論議を尽くすことにより、憲法改正をめぐる国論の深刻な亀裂を和らげ、9条の文言と自衛隊、日米安保体制の乖離が国民の間に生じさせている憲法へのシニシズムを克服し、多くの国民に祝福された形で21世紀の新たな憲法を生み出すことができる。
 紙数の限られた本稿では、詳細な分析と解釈は同論文に譲り4)、もっぱら同論文の概要と21世紀における護憲的改憲論の意義を示して読者の批判を仰ぎたい。
 
現憲法の意義と問題性
 
 半世紀以上に及ぶ憲法論争を概観して、筆者を含む多くの国民が抱くだろう違和感がある。それは、「護憲派」「改憲派」共、憲法、特に9条への評価があまりに一面的・一方的ではないかというものである5)
 まず改憲派は、憲法9条は「一国平和主義」で「平和ボケ」の「非現実的な」法であると批判する。筆者は必ずしもそうは考えない。
 現憲法、特に9条は、制定以来約半世紀にわたって十分その歴史的役割を果たした大変優れた憲法だった。憲法9条は、アジア諸民族に1000万以上の犠牲を強いた侵略戦争を行った日本が、未だ日本への強い憎しみを抱く国が多い国際社会に受け入れられる現実的条件であった。9条は、また、軍事力の増強、軍事予算の増額を求める米国の圧力に抗して戦後歴代政権が軍事費の負担を抑え、軽軍備経済成長中心の政策を採り続けることを可能にした現実的な柱だった。さらに、9条は、もっぱら経済的利益追求で生きてきた戦後日本が、国家利益追求のため武力の行使も武力による威嚇も行わず、「死の商人」として儲けないという形で自らの道義性を示す根拠であり、戦争責任を認めようとしなかった戦後日本が、2度と違法な武力行使はしないと諸国にメッセージを発信する平和主義の根拠であった。そうした平和主義のメッセージがアジア諸国の日本への反発を和らげ、戦後繰り返し説かれた「軍国主義の復活」という主張の誤りを実証し、日本の経済的繁栄を支えた現実的役割は巨大なものであった6)
 しかし筆者は、護憲派が現憲法、特に9条の積極的意義をひたすら強調して一切の改憲論を非としてきたこと、特に1980年代以降の日本と日本を取り巻く現実の変化に国民を説得できる形で対応して来なかったことに対しても、違和感をおぼえる。9条、特にその(憲法学界の)通説的解釈は、厳しい国際社会を生きていかなければならない主権国家の法として「立派すぎる」ものであった。政府の内閣法制局による解釈も、一見学界の通説とは対立しつつ、後述するさまざまな問題点を通説と共有しており、国際社会で日本がおかれてきた現実を軽視し、国際法上の多様な武力行使の性質の違いに基づく差異を無視した説得力に乏しい解釈であった。9条(の内閣法制局による不自然な解釈)を維持してきたことにより、日本は国際社会で平和と経済的繁栄を享受する国家として生きていく上で、巨大な自己欺瞞と現実逃避を体質化させてしまった。そうした自己欺瞞と現実逃避の害悪は1990年代以来増大する一方であり、日本社会全体にとって放置できない段階に達している、というのが筆者の考えである7)
 「立派すぎる」憲法9条が戦後創られ維持されてきたことの背後には、「平和憲法」を生んだ特有の事情があった。現憲法は、300万の犠牲者を出し、忌戦・嫌戦感と戦争の被害者意識が最も強かった第2次大戦直後の時期に創られた。憲法9条は、国連憲章2条4項と共に1928年の不戦条約を受け継ぎ、それを徹底化させたものだったが、そうした戦争への嫌悪感、被害者意識は、9条を絶対平和主義的な解釈へ押しやり、9条を神格化することにつながった。9条は自衛の名目でも武力行使を認めないという絶対平和主義的解釈は、当初吉田首相の解釈でさえあったが、確かに、当時の絶対的貧困で非武装の日本には、守るべきものもなく手段もないという状況にあったと言っても過言でなかった。
 しかし、制定の直後から9条と国際社会の現実との乖離は明らかになり始め、それは日本の大国化と共にますます増大した。そうした現実から懸け離れた9条の解釈を維持する上で、日本国民は巨大な自己欺瞞と現実逃避という代価を支払わなければならなかった。絶望的貧困からの脱出、経済的な豊かさの実現という日本国民が切望した目的のためには米国と結び付かざるを得ず、米国がその代償として対ソ軍事同盟の一員たることを要求する以上、日米安保条約による米国との軍事的結合は不可避だった。少なくとも多数の日本国民はそう判断した。
 だが、9条と日米安保条約との間には、さまざまな齟齬、矛盾があった。砂川事件をめぐる東京地裁判決(伊達判決)は、そうした矛盾を率直な形で提示したものだったが、日米安保体制という現実を尊重せざるを得ない(と自己の役割を理解していたであろう)最高裁は、そうした正直な法解釈をすることを避けて、法理論の操作によって現実から逃避した。そうした最高裁の現実逃避と自己欺備は、日本国民自身の現実逃避と自己欺瞞を法的に洗練された形で表現したものにほかならなかった。
 9条解釈で、学界の多数派の解釈にせよ政府(内閣法制局)の解釈にせよ、国際法学者として違和感を抱いてきたことがひとつある。それは、9条の「武力による威嚇又は武力の行使」を、日本自身の個別国家としての利益追求のための武力行使と、国連の決定、要請、授権の下に行われる国際公共価値実現のための武力行使とに区別することなく、一律に解釈してきたことである8)
 たしかに、国連にしても厳しい国際政治の現実の中で大国や多数派の利益追求の道具として使われることはある。国連の決定、要請、授権があったからといって、それだけで国連による武力の行使に日本が参加すべきだということにはならない。国連による、あるいは国連の要請、授権を得た武力行使に日本が参加すべきか否かは、日本として独自の立場から慎重に判断しなければならない。また、武力を行使すれば、侵略のためであれ、自衛のためであれ、国連の集団措置としてであれ、犠牲者が出るのは避けがたい。それをできるだけ避けるべきだということに対して、なんら異論はない。
 しかし、日本が憲法9条を維持し、9条の厳格解釈にしたがった政策をとり、9条の精神を諸国に説き続けるだけでは、国際社会で頻繁に行われる各国の武力行使をやめさせることはできない。9条の精神を説き続け、9条が目指す世界の実現のために努力を払い続けることは尊いが、諸国が行う現実の武力行使に対しては、日本も他の諸国と共にさまざまな方法で対処しなければならない。その中で、国連憲章を中心とする国際法によって武力の行使を国連による集団的措置、自衛、それ以外の違法・不当な武力行使という範疇に分け、最後のカテゴリーに属すると国連が判断したものには国際社会の全構成員が武力行使を含む集団的措置で対処し、さらに軍縮の努力を積み上げることにより、徐々に武力行使を国際社会から減少させて行くという方向こそ、2次の大戦を経た国際社会が営々と取り組んできた道である9)。日本国憲法はそうした戦争違法化の全人類的努力の重要な一環であり、そのことは、不戦条約の語法を引き継いだ9条の文言、憲法前文に示された国際協調主義、憲法制定の過程などから明らかなはずである10)。それはまた、憲法が「平和教」という宗教の経典でなく、「より小さな悪lesser evilの選択」で満足せざるを得ない国際社会で生きていかなければならない主権国家の根本的な行為規範であるという、ごくあたりまえの事実からも導きうることではなかろうか。
 そうした観点からすれば、侵略や人道法の大規模な侵害を阻止・鎮圧する国連の(決定、要請、授権のある)軍事行動には、それが武力行使を伴うものであってもできるだけ参加して悲惨な事態を終わらせることに他国と共に力を尽くし、ましてや武力行使を原則として伴わない平和維持活動には積極的に参加して国際社会の平和と安全の一翼を担うことこそ、現憲法の拠って立つ国際協調主義の積極的実現であるという解釈も、決して不可能ではないはずである11)。両者とも、価値観と利益の対立が激しい国際社会で例外的に諸国が一致して認める国際公共的な行動だからである12)。不幸なことに、こうした論議がまともに取り上げられ、論じられることはなかった13)
 
9条と自衛権の問題
 
 もっとも、9条について上の問題よりはるかに重要な問題として長年論じられ、政治的な争点となってきたのは、自衛権の問題である。1990年代以降は、特に集団的自衛権を認めるべきか否かが最も重要な論点となっている。本稿で詳論する余裕はないが、これについて私は概略以下のように考えている。
(1)
自衛権は、国際法上主権国家である以上当然に認められる正統な権利である14)。一国の憲法がそれを「否定する」あるいは「認めない」ことは、法的には国際法上認められている権利を実際には絶対に行使しないことを、憲法という国内法上自らに義務付けることを意味する。
(2)
集団的自衛権について、「本来有する権利を行使しないというのはおかしい」という見解があるが、法的には本来自ら有する権利の不行使を自らに義務付けることは十分あり得る。それが政治的に賢明か否かは別問題である。集団的自衛権の行使を認めることが米国と同盟体制にある日本の安全保障を高める上で重要であるという議論は、確かに国際政治の現状を前提とする限り一定の説得力をもつかもしれない。しかし、集団的自衛権の問題はそれに尽くされない広がりをもっており15)、特に「北朝鮮の脅威」を言い立てて集団的自衛権を認めるべきだという議論は、短絡に過ぎる。集団的自衛権を認めるにせよ否定するにせよ、慎重で広範な国民的論議を重ねる必要がある。
(3)
憲法制定時には、政府も含めて日本国民の多くが、集団的自衛権はもとより、個別的自衛権も認めないと考えていた。しかし、政府と国民の多数はやがて見解を変え、個別的自衛権は憲法上認められており、行使できると考えるようになった。集団的自衛権に関しては、政府は依然として9条はこれを認めないとしている16)
(4)
個別的自衛権の行使については、主に自衛隊法がその行使につき、その技術的要件や制約を定めているが、それが実体的制約要件として十分なものかどうかについては、疑問が多い。個別的自衛権を広義に解釈して、本来集団的自衛権に含まれると解される行為を個別的自衛権の行使として正当化することは、現行法上は一定程度可能であり、現に米海軍との共同演習や一定の協力活動はそうした色彩をもっている17。ただ、こうした解釈による操作・正当化は、国民の憲法へのシニシズムを育み、強める大きな要因となっている。
(5)
集団的自衛権については、政府が憲法9条の下で認められると解釈変更し、そうした解釈の下に集団的自衛権の行使に厳格な制約を付す新立法ないし自衛隊法の改正を行うことは、不可能ではない。それが望ましいか否かは、9条を含む憲法改正の積極的意義と改正がもたらす大きな損失との比較検討の上答えるべき重大な問題であり、最後に検討する。
(6)
一般にはそれほど論議されていないが、21世紀の日本(国民)の生存と安全の確保という点から考慮すべきもうひとつの重要な点は、海外在住の日本国民を保議する武力行使を(自衛権の行使として)認めるべきか、認めるとすればその限界はどこにおくべきかという問題である。近代国家は領域国家であると同時に、その国民が活発な国際経済活動に従事する国民国家であり、国家=国民総体の生存と安全は、国家領域内の国民だけでなく、領域外の国民の生存と安全をも意味する。特に日本のように国内資源に乏しく、国際貿易・金融・情報活動に従事することにより経済的繁栄を確保する国家の場合、海外に居住する多数の国民の安全の確保は、国家の重大な任務である。
 他方、大国はしばしば自国民保護を口実に他国に介入し、そのことが緊張と被介入国の反発を招き、本格的な武力行使を伴う戦争に発展することも少なくない。日本が第2次大戦にのめり込んでいったのは、まさにこうした過程を経てのことだった。それだけに、この問題は、国際社会、歴史、国家のあり方、国家の国民への責務と国民の国家への期待といった諸点を十分考慮に入れ、慎重な国民的討議の上で態度決定をはからなければならない18)
 
護憲的改憲論再論
 
 護憲的改憲論に対しては、まず「改憲論」の部分が議論の対象となるだろう。なぜ改憲なのか、その点を明らかにしなければならない。
 まず、憲法とは何よりも国家の基本理念の表明である。むろん、近代に生まれた憲法は、憲法という「法」によって国家権力を縛り、個人の自由を守る道具である。現憲法も、21世紀の憲法も、そこに第1次的な意味があることは確かである。しかし、憲法はそうした近代主義的理解に尽くされるものではない。何よりも、憲法を創り、運用する私たち自身、近代主義的理解に終始する人間ではなく、私たちの社会も近代主義が貫徹する社会ではない。私たちは、長年にわたって私たちの思考、感情、行動に影響を与えてきたさまざまな文化、文明に規定された重層的存在であり、私たちの社会もそうである。むろん、そうした社会にできるだけ近代主義の理念を貫徹させるべきだという立場はありうるが、私は必ずしもそうは考えない19)
 歴史的にみれば、各世代は各々自分たちの考える基本理念を表明し、それにしたがって国家を運営する権利を有し、義務を負っている。各世代は、そうした国家運営の結果をできるだけ前世代から引き継いだものより良い形で次の世代に手渡すべきである。ここで世代とは、人間が次の世代、具体的には自らの子をもつ期間という意味で、概ね25年と考えることがでぎる。社会の観点から見た場合、25年経てば社会を運営する中核部分が変わる。子は親に従うが、親は「老いては子に従え」なのである。
 21世紀の今日では、平均的には40代から60代の世代が最も判断力が充実し、社会の背骨となって国家を運営する世代と言えるだろう。ところが、国家を運営する基本枠組みである憲法は、この世代にとっては、多くは自分が生まれる前、せいぜい未成年の時代に創られたものである。自分たちがその制定に関与できなかった憲法で国家を運営することには、どうしても無理がある20)。原則的には各世代がその世代の理念と感性に基づいた日本を運営していく権利と義務を認めることが、世代間公平の理念にも適合する望ましいあり方と言えるのではなかろうか21)
 日本国憲法は、1946年の制定以来半世紀以上1度も改正されていない。これを説明する要因には多様なものがあるが、基本的には現憲法が経済繁栄、対ソ安全保障、平和主義という「贅沢」を日本国民に許してくれた優れた憲法だったためである22)。しかし、20世紀という変化の激しい時代には、日本にも日本を取り巻く国際社会にも巨大な変化が生じ、さまざまな点で憲法規範と現実との不適合が明らかになってきた。
 むろん、法には現実との乖離があって当然であり、そもそも現実との乖離がなければ規範としての意味がない。現実と不適合があるから法をかえるべきというのは、単純すぎる議論である。特に国家の基本法たる憲法は、抽象度の高い規定をおくことにより、かなり長期間の社会の変化にも対応できるようにつくられている。
 しかし、そうした一切の点を考慮に入れたとしても、現憲法は改正の時期に来ているというのが、私の判断である。上述した国家を運営する主要世代という観点からみれば、現憲法は現世代の二世代前に作られた憲法である。現憲法が作られた時の日本は第2次大戦に敗れ、焼け野原の国だった。当時の日本は1人あたりGDP100米ドル前後の極貧国だったが、今日の日本は米国に次ぐ世界第2の経済大国である。地球的規模の環境保護。南北格差是正の必要性。宗教をはじめさまざまな文化、伝統を含む文明の対立の危険性。税金や年金の問題をはじめとする世代間公平の問題。今日誰もがその重要性を認めるこれらの問題は、現憲法制定時には問題として意識されることさえなかったものである。
 9条は、日本と国際社会の双方の現実が憲法制定時と半世紀後の今日との間であまりに大きく変化しているため、法が予定し、また実際に果たしてきた諸々の役割を十分果たすことが困難となっている一例である。巨大化した自衛隊。日米の緊密な経済関係と同盟関係。国際社会の平和と安全の確保のため日本に求められる安全保障上の役割。こうした現実――それは日本国民が総体として選び取り、9条の憲法学界通説的解釈に適合させるため放棄することを肯んじない現実である23)――は、これまでの憲法学界の通説とも内閣法制局による解釈とも、あまりに懸け離れた現実である。それはすでに、憲法という国家の最も重要な基本法への疑念とシニシズムをかなりの程度国民の間に生じさせている。
 前述したように、国連の平和維持活動はもちろんのこと、武力行使権限を有する国連の部隊として自衛隊を派遣することは、現憲法上合憲的になし得るはずである24)。また、9条の解釈を、集団的自衛権の行使も個別的自衛権と共に認められていると変更することも、不可能ではないだろう。9条の世界史的な意義と9条がこれまで国際的に有してきた高い評価、特に9条改正により不可避的に生ずるだろう近隣諸国の強い反発を考えるなら、9条は改正せずに解釈の変更により新たな国際社会の現実への対応をはかる方が望ましい、政治的に賢明であるという主張も、十分理解しうるものである25)。私自身、1980年代までは憲法改正には反対であったし、現在でも積極的に改憲を主張することに対しては、「本当にそれでよいのか」という内心のささやきがある。
 しかし、9条に関して政府は日本の軍事力、安全保障政策という実態からあまりに乖離した憲法の理念を「解釈」で取り繕う手法を重ねてきており、それはすでに憲法という国家の基本法の軽視とシニシズムを生み出す危険水域に入っている、というのが私の考えである。海外における武力行使という、9条にとって最も論議が対立し注目を集めている問題についてこの上「解釈」という手法で国家の根本方針を変えることは、国民の憲法への信頼と尊敬を回復できないまでに傷付け、21世紀の日本を法一般、規範一般へのシニシズムやニヒリズムがはびこる社会へと決定的に押しやってしまうのではないか。筆者は何よりもそれを恐れる。
 護憲的改憲論が具体的にどのような9条改正を目指すべきかという具体的問題は、本稿が論ずべき問題ではない26)。筆者が理解する「護憲的改憲」は、上述したとおり、現憲法が有する積極的意義を十分に評価し、現憲法の前文と9条その他に示された理念を尊重し、継承しつつ、憲法を改正するという点に尽きる。そうした共通の基盤に立って、専門家としての憲法学者も、国際法学者も、国際政治学者、軍事専門家、歴史家、哲学者、自然科学者、宗教家、ジャーナリスト、外国の識者、企業人、農民、NGO、その他あらゆる種類の人々が知恵を出し合い、国民的論議の材料を提供し、十二分に論議を尽くした上で、国民の代表が改正を発議し、国民投票において改正を実現する。冒頭に述べたように、それこそが、21世紀の世代が、第2次大戦の敗戦という痛苦の体験を経た20世紀中葉の世代から、20世紀後半実によく働いた現憲法を敬意をもって受け止め、国内的にも国際的にも祝福された形で新たな憲法を生み出す鍵であると考える27)
(おおぬま・やすあき)
 

1)国際法外交雑誌92巻1号(1993年)1-26頁、同2号(1993年)44-89頁。
 
2)「護憲的改憲論」という言葉は、注1)論文執筆当時(1992-93年頃)、日本新党の憲法論などの形である程度市民権を得ていたが、その内容については論者により多少の差があったし、今日でもそれは変わらない。ただ、「押しつけ憲法」論や天皇制の強化、戦前の道徳観の複活を唱える復古的・戦前回帰型の改憲論とは一線を画し、現憲法の理念を最大限活かしつつ、時代の変化に合わせて憲法を改正するという点では、広範な一致があると思われる。
 
3)筆者は、2001年10月25日に衆院憲法調査会に参考人として出席して、そこでも護憲的改憲論を主張した。それに対する国会議員、ジャーナリスト、学者、一般市民、学生などの反応から判断する限り、護憲的改憲論が広範な国民的コンセンサスの基礎となりうるという評価は、注1)論文発表時(1993年)に比べてはるかに強くなっているように思われる。2003年11月の衆院総選挙で「護憲」を正面に掲げて戦った社民党の惨敗も――個人的には、護憲勢力が一定の力を持ち続けることは重要であると信じているだけに、残念ではあるが――、この印象を裏書きするものであった。
 
4)注1)論文は、米国の一極覇権、北朝鮮のミサイル・核開発、中国の本格的な大国化など、1990年代中葉以降顕著となる事態の展開前の研究であり、そうした事実を前提として書かれたものではない。ただ、同論文は、もともとそうした短期的な視野でなく、現憲法制定時から21世紀前半の1世紀を見据えた長期的視野に立って書かれたものであり、そこで明らかにした見解は現在も基本的に変わっていない。
 
5)「護憲派」は一般に現在の自衛隊や日米安保条約を憲法違反と解し、「改憲派」は――その主張内容は多様だが――現状をひとまず合憲的とする傾向が強い。しかし、現状は憲法違反であり、なればこそ憲法の精神を守るためにも憲法改正が必要だ、という主張は十分可能であり、規範論理的にはむしろその方が素直な憲法9条の解釈であり、対応と思われる。現状を違憲とする説が「護憲派」と重なり合っており、「改憲派」が現状を合憲とするというのは、規範論理的にはむしろ不自然な事態であり、その問題も自覚的に論議されなければならないと考える。
 
6)前掲注1)(1号)12―15頁。このうち、戦後日本が正面から認めるべき戦争責任を日本の政府も国民も正面から認めようとせず、9条の厳格解釈を維持することによって、本来国家の安全保障にかかわる条項である9条に、「日本は第2次大戦で間違いを犯しました。2度とあのような政策はとりません」というメッセージを発信させ、戦争責任を認めることの代替的役割を演じさせてきた、という点は、私が最も強調したかった点である(同14-15頁)。日本の戦争責任と戦後責任の問題については、大沼保昭『束京裁判から戦後責任の思想へ〔第4版〕』(東信堂、1997年)参照。
 
7)政府の憲法解釈は、日本に米国と結び付くことによる経済的繋栄と対ソ安全保障、国際の安全と平和維持のための軍事的貢献の拒否、アジア諸国に対して戦争責任を正面から認める代わりに9条を維持するという事実による平和国家日本というメッセージの発信機能など、戦後日本の「成功物語」を支えた優れた憲法解択であった、という評価も可能だろう。筆者も、そうした政治的賢明さ、特に日本が小国だった時代にそれが果たしてきた機能を一定程度認めるのにやぶさかでない。ただ、特に日本の経済大国化に伴い、自衛隊の強大化と日米安保の緊密化が進み、国際の平和と安全への積極的貢献を避ける口実として9条が使われ、戦争責任・戦後責任の意識が一般化すると共に、本文に述べた9条とその解釈の否定的側面が次第に明らかになってきたのである。
 
8)法概念はあらゆる分野で同一の内容をもつわけでなく、国際法と憲法の「武力行使」概念が異なることそれ自体は、十分ありうる。ただ、「武力行使」のように本来国際法上の概念として用いられてきた概念を憲法上異なる意味に解釈する場合には、国際法上確立した概念を異なる意味に解釈することの必要性・必然性を論証しなければならない。このことは9条のように、1928年の不戦条約とその後の戦争の違法化の用語法から明らかに影響を受けている憲法条文の場合、特に強く妥当する。ところが、9条の解釈諭を展開する多くの憲法学者はこの作業を怠るか、あるいは戦争違法化の一面的解釈(戦争違法化の一要素であった「戦争違法化運動」(レーピンソンやボラーなどの米国の民間運動団体による「戦争違法化outlawry of war」の主張と解釈の一面的強調)に陥り、そうした論証を欠いたまま「武力行使」概念を解釈してきた(国際法における戦争の違法化の歴史については、大沼保昭、『戦争責任論序説』〔東京大学出版会、1975年〕70-97頁参照)。一見憲法学界の通説と対立する内閣法制局の解釈も、この点では共通の欠陥を含んでいた。
 
9)こうした集団安全保障体制が十分機能せず、国連憲章の要である2条4項が憲法9条と類似の運命をたどってきたことは、注1)論文で詳述したとおりである。米国一極覇権体制の今日、事態はさらに悪化しているように見える。ただ、国連の権威と多国間協調を無視した米国のブッシュ政権は、多くの人が警告したように、国際法上違法な武力の行使に伴う巨大な政治的コストを支払うことになり(大沼保昭「米国の覇権 力の支配は長続させず」『朝日新聞』2003年7月11日参照)、徐々に教訓を学びつつある。重要なのは、個々の政権の短期的政策に一喜一憂することなく、国際的正統性の源泉としての国連を、過度に悲観的にでも過度に理想主義的にでもなく、醒めた目で見つめ、「よリ小さな悪の選択」で満足せざるを得ない国際社会での武力規制を徐々に強化していくことである。9条の絶対平和主義的解釈が21世紀中に国際社会で実現することはないだろうが、逆に国際社会が完全な弱肉強食の世界になることもないと思われるのである。
 
10)武力行使という目に見える行為が同じであってもその法的意味が異なるというのは、法解釈上当然ありうることである。違法な武力行使、自衛、集団的措置という国際法上確立したカテゴリーが9条解釈上無視され、すべて「武力行使」と一括りにされてきたことは、9条にとって、否、日本国民すべてにとって不幸なことだった。この点につき詳しくは、大沼・前掲注1)論文(2号)62-68頁参照。
 
11)1992年、日本は平和協力法を制定し、ようやく国連の平和維持活勧に自衛隊が参加することになった。しかし、同法は、平和維持活動の本来の任務である敵対兵力の分離、停戦監視といった業務への自衛隊の参加を禁止し(2001年にようやく禁止が解かれた)、自衛隊に各国の参加部隊並みの武器使用を認めていない。これが自衛隊の海外活動という事態に慣れていない国民(さらに自衛隊自身)を徐々に「教育」する準備期間という意味をもつことは理解できるが、基本的には、国際公共的意味をもつ武力行使と自国の利益追求のみを目的とする武力行使を区別しないことに起因する誤った政策と評されなくてはならない。国連の平和維持活動の一環として自衛隊を派遣する以上、他国と同じ業務に同じ条件で参加することを認めるべきである。
 
12)逆に、国連の明確な要請も授権もないのに、「対米協力」というだけの理由で、国際法上の合法性を欠き、国際政治の観点からもこれまで以上にテロを世界にはびこらせるだけと批判の強かった米国のイラク戦争を全面的に支持し、ほとんど戦争状態が続いているイラクに自衛隊を派遺しようとすること(イラク特措法の制定とその実施)も、国際社会における国家行動の正統性がもつ意義を軽視した愚策と評されなくてはならない。
 
13)筆者の注1)論文に対しても、故芦部信喜教授など何人かの方からは、重大な問題提起であり、真剣に受け止めて論議しなければならない、との私信をいただいたが、公にされたのは主に伝統的通説の立場からのわずかな反論にとどまり、本格的に論議されることはなかった。
 
14)常岡せつ子「武装力の行使を伴う国際活動への参加と憲法第9条」ジュリ1149号(1999年)84頁は拙稿(前掲注1))を含む関連文献を丁寧に検討した労作だが、そこでは筆者が一方で国際公共価値実現のための実力保持は許されるが個別国家の利益追求のための戦力保持は許されないと言いながら、他方で防衛組織としての自衛隊を認めるのは背理ではないか、との疑問が提起されている(同論文92頁注21))。しかし、常岡教授自身、「自衛のための戦力を個別国家の利益追求のための戦力でないとみなさない限り」と留保しているように、自衛権の行使は、むろん自己の利益を守る行為ではあるが、純粋に個別利益追求の行為でなく、違法な武力行使と戦い、国際法秩序を守るという公共的意味をも副次的に有している。戦間期の戦争違法化以来、国際法は自衛と自衛以外の武力行使をこのような形で分けてきたのであり、そうした国際法上の観念は「国際紛争を解決する手段としては」という不戦条約以来の国際法の用語法を踏襲することによって、憲法9条も引き継がれているのである。むろん、国家が「自衛」の名の下に国際公共的意味を欠く、純粋に自己の利益追求のための武力行使に走ることはありうるが、それは個別的に判断さるべき問題であって、以上の議論を否定するものではない。
 
15)1986年のニカラグア事件判決で、国際司法裁判所は集団的自衛権の行使に厳格な要件を課した(ICL Reports, 1986, pp.118-123)。しかし、米国は同判決を公然と無視し、また同判決には学説上の批判も強い。何よりも、諸国は第2次大戦後「集団的自衛権」の名の下にその国際法的合法性・正統性が疑わしい種々の行為に従事してきており、そうした国家慣行は、日本が集団的自衛権を認めるという決断をした場合、その発動の際に参照され、正当化根拠として使われる可能性がある。集団的自衛権を論議する際には、こうした多面的な問題を十分考慮に入れておかなければならない。
 
16)大沼・前掲注1)(1号)9-12頁・17-18頁。
 
17)大沼・前掲注1)(1号)18頁。
 
18)自衛隊法3条は「わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、・・・わが国を防衛すること」を自衛隊の主たる任務として、国民の生命、安全、財産の保護を任務とする明文の規定を欠いている。9条の改正は当然自衛隊法の改正を伴うが、その際「国民の生命、安全、(財産)」保護を任務として規定するか否かは重要な論点である。
 
19)本稿はこの問題を論議すべき場ではないが、一言だけ述べるなら、(1)そもそも日本の近代主義者がモデルとする西欧や米国の社会自体、近代主義者が強調するほど理念的な「近代」が貫徹している社会とは思えない(「近代ヨーロッパ」や「アメリカ」が、近代をもっぱら理念的・観念的・理想主義的に捉えてきた近伐主義者が描き出すよりはるかに「前近代的」要素を含む社会であったし、現在もそうであることは、特に1980年代以降社会史その他の研究の蓄積により十分明らかにされている)、(2)米国と西欧諸国では日本に比べて相対的に近代理念が社会に浸透しているとしても、それに由来すると考えられる社会的害悪も日本以上に蔓延しているとも考えられ、日本の欧米中心主義的近代主義者が強調するほど近代主義の貫徹が良いことだけとも思われない(共同体や家族の崩壊を目撃した米国における共同体主義や共和主義の主張、権利万能主義への疑問の提起などを想起せよ)というのが、私の見解である。
 
20)法理論的には、改正しないことは国家を運営している主要世代を含む現在の国民が現憲法を黙示的に承認していることを意味する、と説明することは可能である。しかし、日本国憲法のように改正困難な硬性憲法の場合、そうした法理論に訴えることはフィクションとしての色彩が強くなり、現実の国民の感党、価値観、国家観との差が放置されるという意味で、決して好ましいことではない。
 
21)憲法で「国民」が問題とされるときは、文脈により国民概念は多義的に用いられるが、本文で述べた意味での国民は、一般に(あるいは無意識のうらに)超世代的存在としての抽象的国民が想定されている。それは近代憲法の理論的基礎付けとしての社会契約説の想定を引き継いだものだが、注20)でも述べたように、そうした国民概念はフィクションであり、そのフィクションとしての意義と問題性は自覚的に検討しなければならない。
 
22)大沼保昭「『昭和憲法』考(下)」『毎日新聞』1993年4月28日。
 
23)護憲派は、こうした現実の意義を拒否し、9条に現実を合わせるべきだと主張してきた。国際社会において9条を挺子として平和を実現して行くという理想がいかに崇高なものであれ、憲法という国民を主体とする法の問題において、護憲派のそうした主張は大多数の国民を納得させることができなかったのである。その事実を謙虚に認め、そうした国民の「意識の低さ」を嘆くのでなく、自らの何が国民を納得させることができなかったのか、その痛苦に満ちた自己批判から歩みを始めることにしか、護憲派の未来はないのではなかろうか。
 
24)筆者は、1990年代初頭の「湾岸戦争」の際に、「多国籍軍」への参加には反対しつつ、戦争終結後必要とされる国連平和維持活動に参加するため、自衛隊とは別組織の部隊をつくるよう提唱した(「平和憲法は『制約』か」(上)(下)『毎日新聞』1990年9月18・19日ほか)。しかし、それは主に「自衛隊の海外派遣・派兵」をめぐる1950年代以来の進学論争を避けるべきであるとの実践的・政策的な判断に基づくものであって、基本的には本稿と注1)論文で述べたことが妥当すると考えていたし、現在もそれは変わらない。湾岸戦争当時は、筆者が危惧したように、自民党政権は「この機会に自衛隊の海外派遣を」という気持らが強く、「国際連合平和協力法案」を国会に提出したが、野党や世論の強い反発を受けて同案は廃案となった。大沼保昭「欲しかった骨太の国際主義」『朝日新聞』1995年5月5日参照。
 
25)大沼・前掲注1)(2号)80-82頁。
 
26)私個人としては、国連安保理の決定、要請、授権のある国際公共的な安全保障行動には積極的に参加することができること、またそうした積極的国際協調主義を明文で示す改憲が望ましいという点については、10年前から意見は変わっていない。これに対して、集団的自衛権の行使と在外国民保護のための限定的な実力行使に関しては、現時点では未だ確信をもって公にできる見解をもつに至っていない。法律のきわめて厳格な制約の下に、かつ国会の実質的な関与の下に、両者の合憲性が明らかな条文を工夫する、という案が比較的国民的コンセンサスが得られやすい改正案かと考えているが、果たしてそれで良いのかという根本の問題に関しては、考えはまだ十分固まっていない。21世紀の日本にとってきわめて重要な意味をもつ、この両者の問題に関しては、さらに研究を深めて自らの見解を明らかにできるよう努めるほかない。
 
27)山元一教授は、現代日本憲法学と「国際法学者・大沼保昭」や「国際政治学者・坂本義和」の見地は今後も決して交わることのない言説の2つの軌跡を描いていくことになるだろうと主張する(「憲法9条と国際協力」法教277号(2003年)25-26頁・30-31頁)。筆者の考えはやや異なる。筆者が10年前注1)論文を執筆した際、筆者は憲法学の精緻な解釈論に学ぶところ大であったし、それは国際法学一般が憲法学に対して敬意をもって抱いている評価でもある。筆者の先輩の世代の故田畑茂二郎、高野雄一という代表的国際法学者は、憲法9条について憲法学者とも学問的交流を重ね、主張としてはむしろ憲法学界の通説に近い立場にあった。憲法学にあっても、たとえば筆者の外国人の権利類型論が故芦部教授による評価を経て憲法学界に取り入れられたように、国際法学の研究を一定程度取り入れてきたのである。ただ、9条の問題について10年前に公にした注1)論文への憲法学界からの反応に関しては、筆者としても国際法学・国際政治学と憲法学の視点の違いを痛感せざるをえない反応が強かったことは、山元教授の指摘するとおりである(筆者の9条論が日本の国際法学界で多数説かどうかはともかく、基本的視点が国際法学界でごく一般的なものであることは、おそらく認められるだろう)。しかし、『ジュリスト』の本特集が、座談会を憲法学者、国際法学者、国際政治学者という顔ぶれで組み、論攷の執筆陣もそうした顔ぶれをそろえていることからも明らかなように、時代は確実に動いており、相互に批判しあい、学び合う過程は今後いっそう深まるものと信じる。そうした相互の学び合いと自己の相対化の過程こそが、少しでも多くの日本国民が納得し、過去の評価・反省と将来への醒めた認識と大いなる希望をもって憲法という国家の根本法を日々活かしていく基盤を削り出すのではなかろうか。憲法であれ国際法であれ、国際政治であれ、専門家は、現在と将来の世代に対して、そうした専門家としての共通の責任を負っているはずである。それはまた、「平和憲法」を生むきっかけとなった第二次大戦で莫大な数の犠牲者を出した過去の世代への責任でもあるだろう。
 
◇大沼 保昭(おおぬま やすあき)
1946年生まれ。
東京大学法学部卒業。法学博士。
東京大学法学部助教授、ハーバード大学ロースクール客員研究員を経て、東京大学教授。


 
 
 
 
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