日本財団 図書館


1990年9月号 文藝春秋
戦後45年―日本も見直しの時期が来た!
日本国憲法・改正私案
 
曖昧なまま放置された現憲法の矛盾と問題点を、具体的・説得的に書き改めた思想の壮挙
 
西部 邁(にしべすすむ)(評論家)
 
 二十歳のころの私は、「六〇年安保闘争」といわれるものにおける、左翼過激派の指導者の端くれであった。だからいくぶんいいにくいことなのだが、その闘争は日本の保守思想および保守政治にたいして大変に悪い影響を与えたのではないだろうか。つまり、それまでの戦後十五年間にあっては、日本国家の骨格はいかにあるべきか、そこにおける日本人の姿勢はどうであるべきか、ということについて保守陣営のがわからの真摯な問いかけがあった。そしてその問いかけの代表が憲法改正論議なのであった。
 しかし安保闘争は、たとえ上辺のものであるとはいえ、左右のイデオロギー対立が日本社会をどれほど大きな混乱に落とし入れるかを人々に強く印象づけてしまった。それからというものは、たとえば池田内閣の「所得倍増計画」がまさにその典型であったように、自民党政府はできるだけイデオロギーから中立であるような政策課題を掲げつづけた。要するに貨幣や技術にかんする事柄が国を挙げての関心事になりおおせたということである。
 それにつれて、憲法改正論議も政治および世論の舞台から退いていった。憲法が時代にそぐわないものになったとしても、憲法にたいする解釈を便宜的に変更していくことによって、国家および人間の在り方にかんする深刻なイデオロギー抗争を惹き起こさずに、日本という船を操縦できると保守陣営はふんだわけだ。
 そうすることによって経済の繁栄と政治の安定がもたらされたことを思うと、この三十年間における思想上のオブスキャランティズムつまり曖昧主義の素晴らしさを誉め称えるべきなのかもしれない。だが、曖昧な思想はどうやら蒙昧な言葉を結果してしまったようである。蒙昧な言葉の上に愚昧な世論が組立てられ、かくして昭和の末年から平成の元年にかけての時代の転換期はかつてない衆愚政治状況によって彩られたのであった。
 九〇年代は好むと好まざるとにかかわらず国際化の時代となろう。国際化にあって貨幣や技術に劣らず重要なのは、言葉であり価値である。経済にかんするものを含めてあらゆる国際交渉の場で、互いに異邦人であるものたちのあいだで言葉と価値が激しくぶつかり合う。日本人の思想的曖昧さがすでに言語障害も同然の衰弱をもたらしているのだとしたら、いくら日本が経済大国になったのだとしても、その国際化の行手にはただならぬ気配が漂っているとみてよいであろう。
 そうとわかれば、私たちの思想をいくぶんかでも明晰にし私たちの言葉・価値を少しでも厳密にするための一助として、憲法改正論議を再開してもよいはずだ。そして私たちの言葉・価値の蘇生こそが問題なのであってみれば、その論議は私たち自身のあいだでなされるのでなければならない。つまり、左右の硬直したイデオローグの手に憲法論議を委ねるのではなく、私たち市民の繰り広げる自発的な世論のなかに憲法論議を取込まなければならない。
 
なぜ、いま「私案」を出すのか
 
 大事なのは憲法改正あるいは憲法護持そのものであるよりも、それらの是非についての議論が広げられ深められることである。またそうでなければ、憲法論議はせいぜいのところ党派抗争の具に供せられるだけである。実際、今までの憲法論議も、少くとも世論の水準にあっては、現憲法の意味を正確に見定めないままに、様々の党派の固定した標語としてその改正や護持が叫ばれていたのであった。そんな振舞が私たちの思想を明確にしてくれるわけはないのである。
 またその改正を政治の具体的課題として論じることはきわめて困難だという事情がある。現憲法を、故佐々木惣一氏のいったように明治憲法からの連続性を保証された欽定憲法と解釈するにせよ、または故宮沢俊義氏のいったようにいわゆる「八月革命説」にもとづく民定憲法と解釈するにせよ、その改正論議は現憲法の根幹の部分にかかわってくる。もし憲法の枝葉の部分だけを改正しようというのなら、それを具体的日程に上らせることも可能であろう。しかし現憲法はその中枢に欠陥および弱点をかかえもっている。それゆえに、そのことについての議論を回避してきたことがただちに私たちに思想的混迷をもたらす次第となったのだ。
 憲法の根幹を揺るがすような改正はやはり「革命」と形容されて当然である。しかも現憲法は私たち市民の生活の深部にまで影響を及ぼしてきたのであるから、その革命はたとえば法学者のあいだにおける「宮廷革命」のようなものではありえないし、また国会議員のあいだにおける「政治革命」のようなものでもありえない。その革命は、いわば「社会革命」のようにして、私たち市民のただなかにおいて遂行されるベきものである。つまり私たちのあいだに革命的情勢が醸成されなければ、ということは現憲法の根本にかかわる改正論議を私たちが展開するのでなければ、憲法をめぐる「革命」は成就されない。繰り返すと、革命の成就それ自体よりも、それを最初から断念することによってもたらされる私たちの思想の化石化が問題なのである。
 その化石化の帰結を私たちは今味わわされている。一言でいえば、現憲法を色濃く染め上げている俗流民主主義の思想のために日本は衆愚政治めいた状況に陥りつつある。久方ぶり憲法改正論議を俎上に上らせる必要があると思う所以である。
 以下に私流の改正案の一端を提示してみるのは次の三つの理由による。
 第一に、市民が各々「私の憲法論」を出してみることによって、市民のあいだにおける「革命的情勢」が高まるであろうという期待である。
 第二に、憲法にかんして一般的に論議するよりも、「私の改正案」を具体的に示してみた方が議論が煮詰まるであろうということである。
 第三に、今までの憲法改正論は主として現憲法第九条をめぐる国防論のあたりに集中しており、その総体としての改正を論じたものは少いということである。正確にいうと、いわゆる「広瀬(久忠)試案」は総体的改正案であるのだが、私はその根幹部分に同意できないところがあるので、私案を出してみたいのである。
 とはいえ、現憲法から遠く離れたところに私案を置くのでは現憲法にたいする批判的解釈に寄与するところは少くなる。いささか煩わしくはあるものの、あえて現憲法の近傍において私案を構想してみて、彼我の違いを浮彫にしてみよう。以下、現憲法の条項と対応するかたちで私案を示すことにする。
 
新日本国憲法私案
前文
 日本市民によって正当に選出された代表者からなるわが憲法制定議会は、真正民主主義思想に立脚しつつ、米軍占領下に米軍の指導によって制定された日本国憲法を根本的に改正し、日本国家および日本市民の活動にかんする新たな規範をここに決定する。
 真正民主主義思想は国民に主権が存することを高らかに宣言する。ただしその場合の日本国民とは、日本の伝統をつらぬいて存在している人間および社会にかんする根本規範を完全に具現していると想定される仮想の人々の集まりのことである。したがって実際に生存するものとしての市民は、自己の決定を下すに当って、この仮想の主権者の下に服さなければならない。
 それゆえわが国政は、その正統性の権威を日本の伝統を重んじるものとしての国民に発し、その有効性にかかわる権力を市民の信託にもとづいてその代表者が行使し、それによってもたらされる福祉を市民が享受する。これは真正民主主義政治の原理であって、この新憲法はその原理を確守するものである。したがってわが憲法制定議会は、市民各位に、自己の能力を最大限に発揮するよう促すとともに、その感情と理知の根底において国民の一員であることを自覚するよう要望するものである。
 わが憲法制定議会は国際社会に平和が到来するよう念願し、それゆえ、日本の対外的な権力は無制限なものではありえず、他国の権力との協調が必要であるとみなす。したがって市民各位は、自国の決定を下すに際して日本が優越せる権力を発動できるよう努めるだけでなく、他国もまたその国の決定において固有の優越せる権力を有していることを認めなければならない。これは国際社会の平和にとって重要であるばかりでなく、日本の持続的繁栄にとって不可欠でもある。
 わが憲法制定議会は、以上を日本国の内外にたいする政治の基本原理とし、以下、この原理を憲法条文のうちに敷延し、市民各位にその遵守を要求するものである。
 
 あえて説明過剰の文章で表現してみたが、この前文が狙いとしているのは、憲法制定にまつわる権力の問題を明らかにする点にある。ちなみに、現憲法のように心情吐露もしくは宣伝文句めいた長文の前文は社会主義諸国の憲法にみられる特徴であって、西欧諸国のは、イタリアのそれが典型であるように、「仮国家主席は・・・以下にかかげるイタリア共和国憲法を審署する」というようにたった八十七文字の前文となっている。ともかく憲法制定の主体が那辺にあるかを述べれば、それで前文の用は足りているのであって、自余のことは憲法本文に任せるべきだと思われる。
 私案では、第一に、「憲法制定議会」が憲法制定の具体的な主体であることをはっきりさせた。現憲法は「日本国民は・・・この憲法を確定する」(前文)と、「日本国民」が制憲権を有していたかのように装っているのであるが、国民(私の文脈では市民)はたかだか憲法制定議会に代表を送ることと、そこで作成された憲法にたいし国民投票によって賛否を表わすことしかできないのである。憲法の根本的改正はすでに述べたように一種の「革命」である。そうである以上、革命権力が制憲権を、少くともその中心を、掌握していることを明示した方がよい。逆にいえば、国民がみんなでこぞって憲法を制定したかのように表現してしまうと、憲法制定もまた権力発動の一形態であることが曖昧にされ、憲法をあたかも自然の摂理にも似た絶対の真実であるとみなすような誤解あるいは欺瞞が生じるのである。
 第二に、この前文では実在する人々を「市民」と称し、「国民」は理念的の存在にすぎぬものと位置づけている。国民とは国の伝統をその感性と理性の双面において継承する人々の仮想の集合体のことであり、この集合体のうちに蓄積されていると考えられる伝統の知恵がノモスつまり法の根本規範を与えるというわけである。したがって国民のうちには、わかりやすくいえば、過去の死者、現在の生者、そして未来の子孫のすべてを、その伝統精神の継承者としての次元においてではあるが、包含されることになる。これにたいし市民は伝統精神に同調することもあれば、それから逸脱することもあるような存在である。そのような市民は、民主主義にあっては「多数参加にもとづく多数決」というかたちで、かならずしも法の根本規範と十全に一致するとはいえないような決定に辿りつくにとどまる。いいかえると、国政を支える文化的権威は国民の連綿たる伝統のうちにあり、その政治的権力は現実的決定を下すものとしての市民の手に握られているのである。
 第三に、このことと関係し、主権論については私は故尾高朝雄氏のいった「ノモス主権論」に近い立場を採る。つまり「何ものによっても制限されることのない最高権力」としての「主権」は、歴史のうちに蓄積されていく法の根本規範そのものにあると考える。知性においても徳性においても不完全たるを免れ得ないこと必定の市民が主権をもつというのはすでにして衆愚政治への傾斜である。不完全なもの(市民)は、完全なものあるいは完全へと向かうもの(国民あるいは法の根本規範)によって制限されるのが当然である。市民を国民と同一視した上で「国民主権」を唱える現憲法は、その意味で、「多数参加にもとづく多数決」としての民主主義的方式が「多数者の専制」(トックヴィル)という名の衆愚政治へ堕ちていく危険にたいし無警戒にすぎるというしかない。
 第四に、主権といった場合、諸外国にたいするものとしての国家主権の問題がある。国際的な相互依存の体系が発達している現在においては、「無制限の最高権力」としての国家主権を対外的に主張するのは不可能であり有害でもある。しかしだからといって、現憲法のように「平和を愛する諸国民〔米国をはじめとする連合国のこと〕の公正と信義に信頼して」対外関係を取結ぼうというのは児戯に類する。結局、国家の自立性については、せいぜい各々の国が自国の決定において「優越せる権力」を振るうのを互に承認するといったくらいの規範しかみつかりそうにない。現憲法のように「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」というものが本当にあるのだとしたら、それは立派に国際社会の根本規範たりうる。しかしそんなのは嘘話であり、「人は人にたいして狼である」(ホッブス)というのが国際社会の現実なのであってみれば、日本が服すべき国際社会のノモス(根本規範)はまだみつかっていないというしかない。したがって日本は国際協調のことを考慮しつつも自国の「優越せる権力」を確保すべきだということになる。
 まとめていうと、現憲法の前文に横溢している「民主主義と平和主義」をともども否定するのが私案の趣旨である。民主主義の絶対視は、市民が大衆(もっといえば衆愚)に転落する可能性のことについて配慮していないという点で、悪しきヒューマニズムの産物である。平和主義者は、英語でパシフィストというと「奇麗事をいう無責任な奴」という含意がたっぷりと伴うことからもすぐわかるように、国家関係はもちろんのこととして人間関係の一切が誤解と敵対と憎悪から自由になりきることはできないという。それこそ、「政治道徳の普遍的法則」(現憲法前文)を無視している。その意味でそれは悪しきコスモポリタニズムの産物である。
 
第一章 天皇
第一条
 天皇は日本国民の伝統の象徴であり、したがって日本市民の統合にとっての象徴である。
 天皇は日本国の文化的元首であり、それに相応した文化的儀式を取行う。
 天皇の地位は主権の存する日本国民の歴史的総意にもとづくものであって、市民がその地位について決定を下すに当っては日本の伝統からの制限を受ける。
 
 第一項は国民の歴史・伝統という時間軸に沿っての象徴と、現在の市民の統合という空間軸に沿っての象徴とを概念的に区別したものである。現憲法は、戦前の過去を誤謬の堆積として峻拒したためであろう、歴史・伝統という天皇の象徴機能に深くかかわる要素について一言の言及もない。だから「天皇は単なる象徴にすぎない」という見解が根強くつづいているわけだ。歴史・伝統を「単に・・・にすぎない」として片づけることは不可能である。
 第二項のいわんとするところは、天皇は象徴として超俗的な次元におりながらも、政治という俗的な次元もまた歴史・伝統によって権威づけられるのであってみれば、天皇も政治と無関係ではおれないということである。ただしその機能はあくまで政治に対する文化的な儀式に限定される。儀式は、元来、文化的のものだという見方もあるであろうが、露骨なショーとしての政治的儀式にはかかわらないという意味で、「文化的」の形容を付したのである。なお政治的の元首が首相の役割であることについても、他の条文で明記すべきであろう。
 第三項は、現憲法でいう「国民の総意」が現在における多数派市民の意志というふうに解釈されるのを避けるためのものである。つまり、市民の代表者からなる国会で議決すれば、天皇の地位は如何ようにでも左右できるというような俗流民主主義的な見解がまだまかり通っている。またたとえば、新天皇の「即位後朝見の儀」で当時の竹下首相が「臣下として忠誠を誓う」というふうなことをいったのは、主権たる市民の立場を蔑ろ(ないがしろ)にするものだという意見すらみられた。「国民の総意」が日本の伝統精神であることを明示し、現在の市民がその伝統精神を軽々にふみにじることを禁じておく必要があると思われる。
 
第二条
 皇位は世襲のものであり、皇室の慣習にもとづき、これを継承する。
 
 現憲法のように「国会の議決した皇室典範の定めるところにより」としたのでは、現在の国会が日本の伝統よりも優位に立つということを認めることになりかねない。天皇は日本の伝統の象徴なのであるから、その継承についても慣習に委ねるのが自然である。もっといえば、皇室典範は慣習法として定着すべきものである。明治憲法のように、憲法とは別立てで皇室典範を制定するのは天皇主権という過てる途を拓く因となる。おなじように「国会の議決」で皇室典範を作成するのは市民主権という誤りに導かれる。
 
第三条
 天皇の行う国事にかんする文化的儀式−−これを国祭事という−−には内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う。
 
 現憲法(「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」)のように「国事」といっているだけではあまりに範囲が広すぎ、その文化的儀式という性格が鮮明にならない。そのために天皇の政治介入というあらぬ誤解を受けることもありうる。政治にかかわって行う天皇の文化的儀式を「国祭事」とでもよんでおけば、それが政治ではなく、祭事にとどまるのだということが明らかになろう。なお、来たるべき大嘗祭のような皇室そのものにかんする儀式は、天皇の象徴的役割に直かにかかわるものであるから、一般的にそれを公事とみなすべきであり、より限定しようとすれば、それを「皇祭事」とよぶのが適切であろう。また現憲法の第四条における「国事」という表現についても、これに準じた変更が必要である。
 さらに厳密を期すと、現憲法の第七条における天皇の「国事行為」の具体的規定についても、用語の修正が必要だと私は思う。つまり条約の「公布」、国会の「召集」、「衆議院の解散」などというふうに直接的な表現を用いると、それらの国事行為が過度に政治的なものだと受取られかねない。公布、召集、解散などにおける儀式を司るのだということをはっきりさせた方が、市民のためのみならず天皇にとっても有益であろう。つまり天皇は、その文化的機能を闡明することによって、みずからの権威を高めることができるのである。
 
第二章 国防
第九条
 日本市民は日本国家の安全と独立を保つ義務を有する。
 その義務を全うするために日本政府は自衛軍を保持しなければならない。
 自衛軍は他国にたいする侵略的な目的のためにその戦力を使用してはならない。
 国際粉争を解決する手段としての戦争は、自衛の目的に適うかぎりにおいて、また国際協調に最大限に配慮するという条件つきで、これを認める。
 
 国防にかんする条文は、憲法の構成においてもっと後の箇所にくるべきであり、またシビリアンコントロール、非常事態宣言、国際軍事同盟などにかんしてもっと細かな規定が必要なのであるが、それでは現憲法との比較が困難になるので、ここで簡単に論じておくことにする。私案の内容はことさらの説明を要しまい。現憲法の「戦争放棄」、「戦力不保持」そして「交戦権の否認」が愚かしいほど非現実的ということである。
 ただ確認しておきたいのは、現憲法の第九条は、戦後日本人の平和主義に発するというよりも、国防のことは米軍に任せるという自立心の欠如あるいは依存心の過剰にもとづいているということである。私の知るかぎり、むろん兵役の義務を含めて、国防の義務を市民に課していないような文明国家は日本くらいのものだ。平和とは「戦争のない状態」を意味する消極的の概念にすぎず、平和を達成するために軍隊をもたねばならないこと、そしてある場合には大きな戦争を回避するために小さな戦争をやらなければいけないこともありうる、という当り前の理届をこれほど長きにわたって認めることができないできた日本人は世界の珍種に属する。
 なお自衛隊の存在を合憲とする見方は、日本が主権国家である以上、その主権を守るかぎりにおいての戦力は憲法制定の根本前提として暗に認められている、というふうに論じる。しかし私は自衛隊はやはり違憲の存在であると思う。なぜなら、前文の解説でいったように、この国際的依存関係のなかでは、国家はたかだか自国の決定において「優越せる権力」を保有するにとどまる。したがって、軍事以外の方面で他国にたいしきわめて優越する位置にあるような場合、軍事については他国に任せっ切りという選択も論理的にはありうる。戦後日本はその論理を採用したのではないだろうか。
 しかしそんな親切な外国はどこにもなく、日本政府は軍隊を組織せざるをえなかった。違憲をあえて犯したのである。それは致し方なかったとしても、違憲を合憲といいくるめたのである。これは、軍事においてよりも、精神の方面において癒し難い禍根を残したと私は思う。クロをシロといい張る猿芝居が国家の中心で白昼公然と演じられている。天皇制反対論者が、戦争放棄条項を守らんがために、天皇を日本国の象徴と規定している現憲法の擁護者であるというのも奇怪な姿であるが、自衛隊の強化論者が憲法改正を主張しないというのも奇妙な光景ではある。
 また、徴兵制を政治のプログラムとして具体的に論じることだけでなく、市民の兵役義務ということについて思想的に論じることすら一種のタブーになってしまっているというのは一体どうしたことか。そこにはヒューマニズムに発して「欲望の解放」を無条件に是とする思想と、それにもとづいて欲望の実現を権利とみなす権利思想の肥大化とがみてとれる。ほとんど誰しも、直接的の欲望としては、軍人になりたいとは思わないであろう。なぜなら軍人であることは戦争という人為において死人となることの覚悟を、多かれ少かれ、要請するからである。戦争とは、勇気一般がそうであるように、まことに逆説的な心理のはたらきではある。つまり、生き延びようとするために死に急ごうとする、それが戦争心理というものではないだろうか。
 逆にいうと、ヒューマニストであれその派生としての平和主義者であれ、人間の心理を平板にしかとらえていないということである。生への執着、それ自体はまことに当然の欲望であるが、その欲望が死への覚悟へと逆転していく心理のメカニズムが彼らにはみえていないのだ。そのため戦後日本人は凡庸で退屈な紋切型の思想しか紡げなかったのである。
 
第三章 基本的自由および基本的責任
第一一条
 市民は基本的自由の享有を妨げられないと同時に、基本的責任の遂行を免れ得ない。
第一二条
 この憲法が市民に保証する基本的自由は市民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。また市民はこれを濫用してはならないのであって、公共の福祉のためにこれを利用するという基本的責任をつねに負う。
 
 現憲法では第三章は「国民の権利及び義務」ということになっている。そしてその大半はいわゆる「基本的人権」の意義と内容を述べることに費やされている。しかし市民主権を認めない私案の立場からすると、一切の法律に先立つものとしての市民の基本的人権という概念を認めるわけにはいかないのである。その代りに私案では、日本の伝統精神に根差す根本規範によって許されるような市民の行為を「基本的自由」として規定する。つまり現憲法では「基本的権利」を市民の欲望にもとづいて規定しているのにたいし、私案では伝統的規範が許容する範囲として「基本的自由」を位置づけるということである。
 また現憲法における第三章は「基本的権利」の大合唱といった印象を受ける。たとえば第一一条では「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」という具合になっている。このような権利思想の肥大化をおさえるためにも、私案では、伝統的規範によって指示されるものとしての「基本的責任」をきちんと規定しておこうというのである。要するに、自由と責任が相補的な関係にあることを示すのが第三章の趣旨である。なお権利の代わりに自由という言葉を遣(つか)ったのは、わが国では権利という言葉が、一切の法規範に先行する人間の生れながらの権利、というふうにあまりにも自然法的な傾きにおいて理解されているからである。義務の代わりに責任としたのは、その方が自由の対語として適当と思われるからである。
 
第一三条
 人身の安全を求める自由、居住、移転および職業選択という日常生活にかかわる自由、財産を私有する自由そして信教、言論、出版、結社、集会、学習および教育という表現活動にかかわる自由は基本的自由としてすべての市民に保証される。
 また法に従う責任、納税の責任、国防に参加する責任、そして子女に教育を受けさせる責任は基本的責任としてすべての市民に課される。
 
 第一項は基本的自由の内容を規定したものだ。身体、日常生活、表現活動というふうに、順次、より高度の精神性を伴う自由の系列となっている。現憲法では「基本的人権」の内容が何であるかは、文章として明記されていないので、解釈次第となってしまっている。また「すべて国民は、個人として尊重される」といった類のムード的の表現が多いのも現憲法の特質だ。またすでに引用したように、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」であるというふうな崇高すぎる文句もみられる。これらはすべて自然法の想念からもたらされたものである。つまり、それこそ神聖不可侵な、基本的人権というものがあるとして、その実現を高らかに謳ったのである。ただし「財産権」についてはごく素っ気なく「財産権は、これを侵してはならない」と記述されているだけで、しかもその配置されている箇所は「国民の義務」を羅列している第三章の後半部分においてである。
 ともかく現憲法ではまず「基本的人権」が声高に強調されて、次にそれへの付帯的条件として「公共の福祉に反しない限り」という制限が設けられている。つまり「基本的人権」が第一次的で「公共の福祉」が第二次的とみなされている。私案では自由と責任は他方がなければ一方がないという相互規定的の関係におかれている。そして両者のあいだの平衡は法によってとられるという仕組になっている。
 
第一四条
 市民が自由を発揮したことにたいする報償と市民が責任を果たさないことにたいする制裁はすべて法によって律せられる。
 すべて市民は法の下に平等であって、個人の能力によるほかは、人種、信条、性別、地位または門地によって差別されるようなことはない。
 
 第一項は「法による支配」をいうためのものである。自己の欲望を基本的人権にまで高めて、それを法に優位させようとする風潮がどんどん強まっている。衆愚政治状況における世論は、それがルールやマナーに抵触するものであろうとも、多数者の欲望の発露だという理由だけで、法に代位するかたちで大衆リンチを敢行している。こうした趨勢に一線を画すためにも法治主義の原則を憲法に明示しなければならない。
 第二項が現憲法と異なるのは「個人の能力によるほかは」という留保を設けた点である。平等については、周知のように、「結果の平等」と「機会の平等」とがある。「結果の平等」は、この福祉社会のなかで悪平等を広く帰結しつつも、考え方としてはその不当なることが論証されている。そして平等は「機会の平等」に限られるべきだということを大方の自由思想家が主張している。その「機会の平等」を最も端的に表わすのが「法の下での平等」ということにほかならない。
 しかし、実は、「機会の平等」すらなにほどかは空語にすぎないのだ。いかなる時期に生まれたか、どんな地方に育ったか、どのような家族のなかで生まれ育ったか、などということにも依存して個人の能力は千差万別である。個人の能力に差があれば、各々に開かれる機会の幅も種類も異なってくる。
 つまり「人は生まれながらにして平等である」というのが現憲法における人間観であろうが、それは途方もない虚偽なのだ。「人は不平等のただなかに生まれてくる」といった方がよほどに正しいのである。そして自由が、単に「禁止されてはいない」という消極的のものから進んで、人間生活に活力を与えるような積極的なものになるのは、人々が自分の背負った不平等に抗いつつ生き抜く場合である。逆にいうと、平等があまりに拡延されてしまうと、自由の底が抜けるということである。このことを確認しておくためにも、「個人の能力によるほかは」という留保をつけておくべきだと思われる。
 
第一八条
 (削除)
 
 現憲法の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」というのは、第三一条の「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」というのと重複する。ついでにいっておくと、「奴隷的拘束」を禁止するとは、戦前日本もずいぶん前近代的だとみなされたものだ。それをわざわざ憲法で禁止してみせるからには、奴隷的拘束の可能性が日本にあって小さくないということなのであろう。奴隷的拘束とは、いいかえれば、不法の拘束のことである。法治の原理さえ明確にしておけば、こんな条文は不要と思われる。
 
第一九条
 (削除)
 
 「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」というのが現憲法第一九条であるが、「思想及び良心の自由」をそれ自体として侵すことなどそもそもできない相談である。思想や良心は、それが表現される段になってはじめて、その自由や抑圧を論じることができるのだ。私案では第一三条で表現活動の自由を基本的なものとして認めているので、それで十分であろう。
 
第二〇条
 いかなる宗教団体も国から特権を受けてはならない。
 何人も宗教団休が直接に関与する儀式に参加することを強制されない。
 国およびその機関は宗教教育のごとき積極的な宗教活動をしてはならない。
 
 宗教の自由については第一三条ですでに言及したので、ここでは繰返さない。第一項では、現憲法における「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という文句を削除した。なぜなら、宗教団体が政治活動を展開するのを禁止するのは間違っていると思うからである。宗教は良かれ悪しかれ価値の問題を主として扱う。したがって政治から宗教団体を排除せよというのは、政治において価値の問題を扱うなというのに等しい。私案では、良き祭政一致あるいは良き政教合致こそ政治の理想だという見方に立って、宗教団体の政治活動とそして政治活動にかならずや随伴するであろう権力の行使とを許すのである。
 第二項では、現憲法(「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」)における「宗教上の」というのを「宗教団体が直接に関与する」というふうに変えた。その理由は、ほとんどすべての儀式はなにほどか宗教的なものであり、そして参加を強制しなければならない(参加しなければ制裁を与えざるをえない)ような儀式というものもあると考えられるからである。現憲法のこの条項を拡張解釈して、宗教色を伴う儀式への参加を強制してはならないという意見が今でも健在である。たとえば、君が代は天皇の御世を称えるものであり、天皇は神道と関係が深く、したがって君が代を斉唱するような儀式は「宗教上の儀式」だという次第である。「宗教団体の関与する儀式」というふうにより強い限定をほどこすことで、宗教的儀式一般への強制参加を拒否するような拡張解釈をおさえることができるであろう。
 一体、無宗教の儀式さらには無宗教そのものを称揚するかのごとき印象を与える現憲法は儀式というものを何だと考えたのであろうか。無宗教、それは最悪の宗教であり、無宗教の儀式、それは最悪の儀式である。そんな最悪の儀式に参加を強制するわけにはいかないであろうから、現憲法下では参加を強制することのできる儀式はなくなってしまう。だが、様々な団体には各々固有の儀式があるものなのであって、なにほどかの強制力がはたらいてこその団体生活というものである。
 第三項は、例の政教分離にかかわる事柄である。現憲法においては、「宗教教育その他いかなる宗教的活動」も国家はしてはならないと規定されている。これは、国家は「宗教教育に典型をみるような積極的活動」をしてはならない、といっていると解釈すべきであろう。なぜといって、国家の活動にも儀式が必要であり、儀式に宗教色が必要であるとわかれば、宗教活動のすべてを国家に禁じるわけにはいかないはずだからである。
 
第二一条
 表現活動の自由には、公共の福祉を守る責任と、他人のプライバシーを守る責任とが伴う。
 
 私案第一三条において言論、出版、結社、集会、学習および教育という表現活動にかんする基本的自由を認定した。現憲法においてもそれらは「基本的人権」のうちに括られているのであるが、不思議なことに、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」を規定した第二一条には「公共の福祉に反しない限り」という条件が付されていない。これは、おそらく表現活動に権力批判を期待してのことだと思われる。つまり、第一二条で「自由及び権利」を一般的に規定するに当って、おそらく権力者の権利を掣肘(せいちゅう)するために、「公共の福祉」による限界を画すのに怠りなかった現憲法は、「集会、結社、言論、出版」を主として反権力の活動とみて、それを制限するのをためらったわけだ。
 しかし世論が王座に登る民主主義の爛熟段階にあっては、この種の表現活動の方が、その世論に対して与える強大な影響力のために、第一権力となるということが大いに起こりうるのである。ここは是非とも「公共の福祉を守る責任」によって表現活動にタガをはめるべきであろう。
 もちろん「公共の福祉」という概念が濫用されるという危険は残る。しかし同じことは「個人の自由」についてもいえることで、両者の濫用をいかに戒めるかは、法律と慣習の双方を含めた意味でのルールに頼るしかないのである。
 「他人のプライバシーを守る責任」もこれからますます必要になると考えられる。「公共の福祉」というのはどちらかというと全体社会にたいする考慮から導かれる概念であり、したがって社会の多数派に与(くみ)するものである。他方、「プライバシー」は少数派の自由を守るためのものだ。「独りになる自由」と「自分にかかわる情報は自分で処理する自由」とがプライバシーを構成するのであるが、世論は、とりわけマスコミによって先導される世論は、個人のプライバシーを破壊しがちである。
 プライバシーは、その言葉にたいする訳語がないことからも察しられるように、日本ではあまり尊重されていない。L・D・ブランダイスが『プライバシーヘの権利』を書いてからちょうど百年たつ。そろそろプライバシーの認識が日本に定着してもよい頃ではないだろうか。
 なお、私見によれば、プライバシーは現憲法が前提しているような人間にかんする性善説では説明できない。人間はなにほどか如何(いかが)わしい存在であること、しかし社会のルールに違反しないかぎりその如何わしさは容認されるべきであること、なぜなら人々が互いに相手の如何わしさを暴露しはじめると社会のルールが崩壊する心配があること、これらへの配慮からプライバシーの概念が樹(う)ち立てられるのであり、それは明らかに冷厳な性悪説にもとづいている。いや控えめにいえば、社会のルールはおおよそ自発的に守られるであろうと予想している点では性善説なのであるから、性善と性悪が拮抗しているということなのであろう。いずれにせよ、現憲法が得意にしている偽善的の姿勢にあってはプライバシーは無視されざるをえないのである。
 
第二五条
 国は健康で文化的な生活にかんする最低水準をすべての市民に保証するよう最大限の努力をしなければならない。
 
 現憲法では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」となっている。そしてこれがいわゆる「生存権」なるものの支柱としてもてはやされている。人間の欲望をただちに人間の権利とみなす悪しきヒューマニズムの見本といってよいであろう。人誰しも健康的かつ文化的に生活したいと思うであろう。しかしそんなのは権利ではない。どだい、世界で何億人もの人間が飢えている。その一事をみただけでも、欲望が権利にはなり難いこと、安穏に暮す権利が人間には与えられていないことを知るべきであろう。
 私案ではシビルミニマムつまり最低保証を達成するのを政府の努力目標にしている。ただしこれとて、福祉主義という現代のイデオロギーに妥協してのことではない。貧しいもの、弱いもの、愚かしいものを可哀相だと考えてシビルミニマムをいうのではない。弱者保護が私案の目的ではない。
 最低保証が大幅に壊されると社会が不安定に陥る。露骨にいうと、強者と弱者の関係すらもが動揺しはじめ、それが強者すらにも不利益を与える。つまり最低保証は、弱者救済のためというよりも、社会の構造的安定にとって必要なのである。最低保証はいうまでもなく平等主義の線に沿っている。しかしその平等は個人のためというよりも社会のためのものである。平等は社会の構造にかかわることであり、その構造が実際に機能した結果として不平等がもたらされたとて、それはむしろ自由の領域に属する事柄なのだ。また、最低保証の水準が上昇して悪平等が蔓延すると社会の構造的安定性が損なわれることにも注意しなければならないのである。
 
第二七条
 国は勤労の意欲をもつ市民に職場を提供すべく最大限の努力をしなければならない。
 
 現憲法では「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」となっている。これは社会主義の(現実ではなく理想の)テーゼである。「勤労の権利」、それは搾取されざる勤労は喜びであるという社会主義の労働者観であろう。「勤労の義務」、それは働かざるもの食うべからずという社会主義の資本家観であろう。
 一体、失業者たちが「勤労の権利」という現憲法の保証を盾にして政府を訴えたらどうなるのだろう。また政府が「勤労の義務」という現憲法の規則を盾にして金利生活者を訴えたらどうなるのだろう。私案では、ただ、政府には雇用政策に努力する責任があるということのみを規定した。要するに、訳のわからぬ、しかしなんとなく聞こえのよい文句を憲法に盛込むようなことはもう止そうということである。
 
第三〇条
 すべての市民は納税の義務を負う。
 
 これは、第一三条で納税を「基本的責任」のうちに勘定したのであるから、あらためて規定する必要はないのであるが、現憲法との対比のために取上げてみた。現憲法では「法律の定めるところにより」という挿入句が入っている。これをつかまえて、たとえば小林直樹氏は「第三〇条の実際の意味は、租税法律主義の原則に重点がある」(『憲法講義』)という。そして納税の義務そのものについては「国家活動が納税による収入を前提するかぎり、この義務はほとんど自明の事柄であって、とくに憲法の規定を要しない」といってのける。
 これははなはだしい誤りだ。国家は一部の市民からのみ税をとって活動をすることができる。つまり、あらゆる国々が兵役とならんで納税を市民の義務として憲法に明記しているのは、「市民たるもの、税を納めて国を守るべし、そうでなければ市民とはいえない」と考えてのことである。おそらく小林氏は、経済的弱者が納税していないという現実のことを考え、弱者に同情を寄せることにしている氏の立場からして、納税の義務について冷淡たらざるをえなかったのであろう。
 また小林氏は、第三〇条に意味があるとしたら「皇族も納税義務を負うという点に見出せようか」などと見当外れのことをいってもいる。天皇も国民の一人だから、というのがその唯一の論拠である。私は天皇を市民とは認めないから、天皇に納税の義務があるとは思わない。しかし、納税義務の除外例として弱者を数えるか、天皇も入れるか、などといったことは税法論議についてやるべきことで、憲法論にはふさわしくない。また天皇が市民の一人かどうかは憲法第一章で済ましておくべきで、それを第三〇条にまで及ぼそうというのは偏執的にすぎる。
 さていよいよ枚数が尽きつつある。第四章「国会」、第五章「内閣」、第六章「司法」、第七章「財政」、第八章「地方自治」についてもいいたいことがないわけではないのだが、割愛せざるをえない。またそれらは立法、行政、司法の三権にまつわる実体論や技術論が主になるので、憲法思想を問題としたい本稿には似つかわしくないともいえる。
 
第九章 改正
第九六条
 この憲法の改正が許されるのは第四章から第九章までの部分にかぎられる。
 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、内閣がこれを発議し、市民投票の過半数によって承認されなければならない。
 
 第二項の方から解説をすませよう。現憲法では改正を発議するのは国会だとなっている。しかし発議とともにレファレンダムつまり市民投票がはじまり、そしてそれに責任をもつのは内閣なのであってみれば、内閣が発議するのがよいと思われる。憲法改正は大いなる政治の実際行動なのであるから行政府が担当すべきだというのが私案の考え方である。しかしこれは小さな問題だ。重要なのは第一項の方だ。
 私案が新たに設けた第一項は、カール・シュミットのいわゆる「憲法」と「憲法律」との区別にもとづいて発想されている。「憲法」とは現実の憲法規範のうちでその根幹部分をなすものである。他方、「憲法律」は、現実の憲法規範のうちで、「憲法」の根幹から派生的に導かれた部分をさす。
 「憲法律」は改正することができるが、「憲法」は、革命によるほかは、変えることができない、それが規範の論理というものである。ある根本規範にもとづいてその根本規範を否定するのは論理矛盾だからである。たとえば、人を殺してはならないということを根本規範とする社会で、その規範にもとづきつつ、人を殺しても構わないという根本規範を導出することなどできるわけがない。
 現憲法では「憲法」と「憲法律」の区別についてはきわめて曖昧なので、私案で第三章までを「憲法」として、第四章から第九章までを「憲法律」としたのは、あくまで近似的のことにすぎない。私が指摘したいのは、憲法を全面的に変えたくても、現憲法の枠内では不可能だということである。戦後における憲法規範が根本的に歪んでいたのだということを市民の多数派が認識し、その認識にもとづいて、いわば「静かな革命」でもやるつもりで、戦後規範からの難脱を図るのでなければ、現憲法の根本的改正は不可能である。
 その場合の「静かな革命」は現憲法の「改正」条項にもとづくことはできない。それは、憲法制定議会とでもいうべきものを新たにつくるところからはじまらざるをえない。だからこそそれは革命とよばれるのである。
 現憲法を無効とみなし、明治憲法にまで遡ってみて、そこから憲法改正を図ってみてはどうかという意見もあるのだが、それは二重の意味で駄目である。少くとも私案の立場としては不可能である。なぜなら、私案でいう真正民主主義は天皇主権という明治憲法の根本規範と相容れないからである。天皇であれ市民であれ、現実に生存する人間あるいは集団に「無制限の最高権力」という意味での「主権」など与えてはいけない、それが私案の出発点である。主権があるとしても、それは日本の歴史を貫徹していると想定される根本規範であるにすぎない。それを完全に体現しているような人間は、天皇であれ市民であれ、いるはずがない。したがって主権者は実在しないのである。明治憲法における天皇主権をそのままにして真正民主主義に移行することはできないということだ。
 明治憲法を別様に解釈して、それはかならずしも実在としての天皇主権をいったものではない、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」というのも象徴的な意味においてであるにすぎない、とみることもできないわけではない。しかし仮にそうだとしても、第二に、現憲法下で過した戦後の四十三年間は一体何だったのかという疑問が残る。無効の憲法をかくも長期にわたって甘受してきたような私たちに戦前に帰還する資格などあるのだろうか。その資格を得るためにも、現憲法を無効として棚上げするのではなく、まず現憲法と確執を演じ、それをつうじて現憲法からの離脱あるいは飛躍を図るべきだと思われる。
 いずれにせよ私の強調したいのは、憲法の根本的改正はやはり革命と形容するしかないような難事だということである。つまり私たちは、誤謬と歪曲にみちみちた現憲法によって手枷足枷をはめられているということだ。そうした私たちの精神の有様はそれこそ「奴隷的拘束」にも等しいものである。その拘束の端的な例を示すと、現憲法の前文には次のように書かれているのだ。「これ〔市民主権〕は人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」。第九六条に改正条項があるとはいえ、それはあくまで部分的かつ補足的の修正にかんするものだと解釈するしかないのである。
 重要なのは、というより唯一可能なのは、現憲法について議論することである。そしてその議論の中心には戦後民主主義にたいする懐疑が据えられるべきである。だが、戦後民主主義を盲信もしくは軽信したまま現憲法の護持を叫ぶのが市民の多数派ときている。また少数派とて、第九条問題にのみ関心を寄せて、戦後民主主義の総体を批判するまでには至っていないことが多い。民主主義の基礎は市民が議論しあうことにあるというのに、「議論なき民主主義」が闊歩しているのである。
 もちろんどんな議論であってもよいというのではない。ルール、マナー、エチケットを守るような議論、またそれらを破るにしても制裁を受けるのを覚悟でやるような議論でなければならない。「言葉遣いの規範」、それが議論を実りあるものにするのである。実は、その規範こそ私が「伝統の知恵」とよんだものの真髄にほかならない。「議論なき民主主義」あるいは「規範なき世論」は私たちを広汎な精神汚染ヘと追込んでいる。しかしその汚染を自覚するのが精神浄化への第一歩である。憲法論議は私たちの精神における汚染と浄化のドラマに恰好の舞台を与えてくれるに違いない。
 
◇西部 邁(にしべ すすむ)
1939年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
東京大学教授を経て、現在、秀明大学教授。評論家。


 
 
 
 
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