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私はこう考える【憲法改正について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1993/03/02 産経新聞朝刊
【正論】「内発性」に欠ける改憲論議 国民の自己不信を払拭せよ
西部邁(評論家)
 
「無責任」な指導者たち
 改憲論議の登場をもって「政治改革隠し」とよぶ向きがあるようだ。しかしそれは何とかの勘繰りに属する。改憲への動きが心理学でいうところの「防衛機制」であることはたぶん本当であろうが、それは「転移」ではなく「昇華」のディフェンス・メカニズムである。つまり政治改革が満足すべき結論に達することができないという事情の下で、話題を他に転移させたのではなく、より高次の話題に挑戦することによって不満足を浄化せんとする企てにすぎない。
 だが宮沢首相は、後藤田法相と河野官房長官に助けられつつ、この企てに陰に陽に反対している。それは、私の思うに、「退行」の防衛機制である。つまり政治改革にこれ以上の発展が望めなくなったので、むしろ初期の問題意識にまで退行し、平和だの民主だのといった気分に浸ることによって不満足を糊塗(こと)しようとしているのではないか。
 「憲法を政治の旗にするなんて」という首相の不平くらい見当違いのものはめったにあるものではない。憲法は、その定義からして、政治の旗である。その旗がすっかり破れ旗になってしまった。で、それを新しい旗に替えるか、その破れを一時的に繕うことですますか、それともボロになるまでそれを振りつづけるか、この三択が問われているのである。そこで自分の所説を展開し改憲論議を率先するのでなければ、指導者として失格である。
 「改憲を政治日程にのぼらせるのは時期尚早」という首相発言もいただけない。それをいうのなら、同時に、改憲が半世紀近くも時期遅延になってしまったことについて、戦後政治に一貫してかかわってきたものとしての立場から慙愧(ざんき)の念のせめて一片でも表明してもらいたい。
 また「若い人たちが改憲論議をやるのは結構」というのも無責任きわまる。憲法は国の根本規範であり、それはその国の歴史の大地に根差しているはずだ。そうならば、歴史との付き合いの長い年配者の方が憲法論をまず開始すべきであり、指導者の地位にあればなおさらのことである。われらの首相こそはわれらの時代における歴史喪失という社会病理を最も典型的に代表してくれている人物だと見受けられる。
 
「国体」が産み落とす憲法
 「自然的かつ文化的な共同体の枠組」をラテン語でナツィオという。かつて人々はそれを「国体」とよんだ。国体を天皇主義の袋小路に追い込んではならないし、排外主義の狂気にさまよわせてもならないのは当たり前だ。国体は国民の「生き方」の形式としてとらえられるべきであろうし、またその形式が「開かれた」性質を持っている方がよいことも論を俟(ま)たない。しかし確認すべきは、憲法によって国体が創られるのではなく、国体が憲法を産み落とすのだという点である。
 戦後世代、それは自分らの国体に不信をしか差し向けられないような哀れな自信喪失者の群れである。そしていわゆる憲法第九条問題は、国家の安全保障にかんする問題である前に、この国民規模での自己不信という社会病理的な問題である。その第一項が「侵略戦争の禁止」ということだけをいっているのに、その第二項は、「前項の目的を達成するために」、一切の「戦力不保持と交戦否認」をも規定している。これは何を意味するか。憲法制定過程の裏話を度外視して、その文意にこだわってみると、それは、日本人には「侵略と自衛の区別ができない」、さらには「自衛を侵略に転化させる傾きがある」という含意になる。
 第九条のことにかぎらない。現憲法を彩る過剰な人間礼賛とは、裏を返せば、過激な国体不信ということなのだ。国体不信に、苛(さいな)まれるのならまだしも、すっかり淫しているのが国民であるというのは笑止千万であるし、そんなものに主権を与えるのが民主主義であるというのは烏滸(おこ)の沙汰である。こうした迷妄から覚めることを可能にしてくれる大きな切っ掛け、それが久方ぶりに登場した改憲論なのだと私はとらえたい。
 
外発的な日本人の構え
 ところが、その登場の仕方がすでにして国体不信の方向にある。「日本はもっと国際貢献せよと国際社会は要請している。その要請にきちんと応えるには改憲しなければならない」、これが改憲論の口上である。日本は国内と国際の双方にたいしてかくかくの根本規範を期待している、その期待に沿うのならばそれなりの犠牲をすすんで払うつもりだ、というふうになぜ構えられないのか。日本人の構えは、漱石の用いた表現を借用すれば、相も変わらず「外発的」なものであって「内発的」なものにはなっていないのである。
 外発的なのは政府・与党ばかりではない。創憲論だか何だか知らないが、諸野党は、彼らのこれまでの護憲論が日本の国体と、それゆえ日本人の人格とを、どれほど惨めなものにしてきたかを内省するまでは、改憲論に加わる資格はない。因(ちな)みに、私の持論は「改憲ではなく廃憲を」ということである。
 
◇西部 邁(にしべ すすむ)
1939年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
東京大学教授を経て、現在、秀明大学教授。評論家。


 
 
 
 
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