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2001/05/08 産経新聞東京朝刊
【正論】歴史的継続性もつ憲法概念構想を
佐伯啓思(京都大学教授)
 
◆「入院患者」のような国民
 アメリカの人類学者ルース・ベネディクトは、占領下の日本について『菊と刀』(一九四六年)の中で次のような日本人の言葉を紹介している。「みんなぼうっとしていて、物事をうわのそらでやっている。国民全体が入院患者のようだ。」。要するに、戦争が終わってみんなが無気力状態に陥っているという。そして、この無気力の中に進駐してきた米軍を日本人は歓呼の声をもって迎えている。「われわれにとってほとんど信じがたく思われるのは、このような態度(無気力な態度)と並んで、戦勝国に対して日本人があのような親善ぶりを示していることである。」とベネディクトは書いている。
 このようなことから書き始めたのは、戦後日本の体制が、そしてその骨格を指し示す憲法が、いかなる状態の中で生み出されたかに改めて注意を向けたかったからである。小渕内閣によって憲法調査会が始動し、小泉首相も憲法改正を口にしている。
 にもかかわらず、憲法への関心は一般的には決して高いとは言えず、そもそも憲法への意識そのものが鋭敏だとは言い難いようにみえる。これは、ただ、戦後憲法が「押し付け憲法」であったというようなことではなく、また、多くの人々が現行憲法でそこそこ満足している、というようなこととも違っている。もう少し根本的な問題をはらんでいるように思われる。
 
◆国民の総意に見せた欺瞞
 端的に言えば、国民主権を高々と謳い「国民の総意」によって創出されたはずの憲法が、まさに、全く無気力な国民、「入院患者」のような国民の総意によって作り出されたということになる。これは一つの欺瞞であった。この欺瞞は、確かに多くの論者が指摘するように、GHQ(連合国軍総司令部)民政局が作成した憲法を、日本政府が、国民の総意であるかのように見せたという欺瞞でもあるが、それと同時に、まずはこの入院患者のような国民全体を主権者に仕立てたというところに求めるべきである。
 なぜこれが欺瞞かというならば、いやしくも主権者であろうとする国民ならば、自らの意志で主権性を奪取し、自らの言葉で主権性を表出しなければならない。しかるに、この憲法の創出においては、一切そのような意志は露呈されず、己の言語を表出されることがなかったからである。無気力に覆われた「入院患者」が自らを主権者と名乗ることはできないであろう。入院患者が退院したときには、彼の主権的地位はすでに憲法で保証されていたのである。
 
◆「憲法制定権力」を持たず
 ここに実は重要なことが隠されている。というのも、人民主権を謳う近代憲法には一つの困難な問題が付きまとうからである。それは、人民主権は憲法によって保証されるとすれば、その憲法の正統性を保証するものは何か、という問題である。そこで通常は、ここに憲法以前の「憲法制定権力」なるものが想定される。ではこの「憲法制定権力」の正統性は何によって保証されるのかというと、それ自身によってという以外にない。彼らが人民を代表するからである。この奇妙な、人民による人民主権の自己正統化を可能としたものは、人民による革命、そして新たな政治権力の創出という歴史的事実であった。つまり、西欧近代憲法は、人民による近代的な政治権力の創出という事実と不可分だということである。この事実によって、憲法の正統性という困難な問題が一応のところ回避されているのであり、人民は常に憲法の作者であるというフィクションが維持されることになる。
 だが、日本の場合、このようなプロセスは踏襲されていない。「入院患者」が「憲法制定権力」をもったわけでもなし、人民が新たな政治権力を作り出したわけでもないのである。そこで戦後憲法がとった形態は、あくまで明治憲法の改正という手続きを踏襲することであった。つまり形態としての立憲君主制が維持されたのである。
 戦後の多くの憲法解釈は、「八月革命説」を取り、戦後体制は一種の革命であり、戦後憲法は、実質上、明治憲法の断絶の上に成立していると見なす。しかし、実際には革命は存在せず、人民による「憲法制定権力」を生み出すこともなかったのであれば、ここで設定された主権者としての国民なるものが、何か欺瞞的なものに見えるのは当然である。したがって、今日必要なことは、このような西欧近代憲法のタームで憲法を語るのではなく、歴史的な継続性にたった「もうひとつの」憲法概念を構想することであろう。
 
◇佐伯啓思(さえき けいし)
1949年生まれ。
東京大学経済学部卒業。東京大学大学院修了。
滋賀大学助教授を経て、京都大学教授。


 
 
 
 
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