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1999/02/08 産経新聞東京夕刊
【久保紘之の天下不穏】平和憲法の持つ最大の問題点 戦略論的思考法の欠落
 
 日本の防衛(憲法)論争は各政党の政治的立場が先に決まっていて、それを正当化するため論理の構造が自分で増殖し、「船の底のカキがらのように重なっていくだけ」
 と、岡崎久彦氏(『戦略論的思考とは何か』中公新書)が、言ったことがある。
 なるほど、今国会の新ガイドライン関連法案をめぐる与野党のやりとりも、国会に憲法論議の「場」をつくろうという超党派議員の話し合いも、議論をすればするほど、それぞれの政治的立場の正当化が「カキがらのように」こびりつくばかり。
 実は、新ガイドラインと憲法(改正)論議とは、密接不可分の問題である。それが、あたかも関係ないかのごとく、別々に論議されていることが、まず、おかしい。
 そういう政治論議の“あいまいさ、はぐらかし”的技法は、いま国際情勢で日本が直面している問題の「所在・重要性・緊急性」を、不透明にするだけだろう。
 なぜなら、いまや現行憲法の「プラグマティック(実用主義的)な解釈法」(高柳賢三『天皇・憲法第九条』有紀書房)を最大限、駆使したところで、国際情勢の変動に対応しきれない。
 つまり、自民党のお家芸だった“解釈改憲”的手法が、限界点に達したのが現在の日本の位置だから、である。
 たとえば、新ガイドラインでの米軍への後方支援は、「集団的自衛権」という新たな補助線を一本、引かない限り、どうつじつまを合わそうと努力しても、かえって四方八方にほころびが生じる。あるいは、新たな「カキがら」となってこびりつく。
 かつて、テレビタレントでアメリカ人の法律家、ケント・ギルバート氏は、
 「(自分の国を守るのは)憲法以前の人間の権利、その権利をみんなで確認し合うよりどころが憲法です。人間以前に神様みたいに憲法があるわけじゃない」(『ボクが見た日本国憲法』PHP)
 と、言ったことがあった。
 日本の政治家の憲法観は、この普通の米人法律家の、身についた憲法感覚に及ばないのではないか? と思う。
 憲法論議の「場」づくりは、どうやら「改憲」イメージを弱めるため、自自両党提案の「常任委員会」ではなく、民主、公明両党の求める議案発議権のない「調査会」に落ち着きそうな気配である。
 これは、単に政党間の「憲法観」の違いより、いま日本が直面している「危機のシナリオ」について、政治が現実的かつ客観的な認識をもてないためというべきだろう。
 たとえば、憲法前文の「日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という、奇妙な文章を見てほしい。
 何しろ「恒久の平和を念願」するため、国家主権の基本である「武力を放棄する」(第九条)というのだから。
 折しも一九九九年の米国防報告は、北朝鮮の弾道ミサイル開発について「米国も攻撃できるミサイルを開発するかもしれない」(二日)と、重大な懸念を表明した。
 その真っただ中での憲法論議が、このありさまである。
 いまほど憲法改正が必要とされるときはない。この二十世紀の最後にして、最大のめぐり合わせを、政治家たちは避けて通ろうとしている。
 日本における「戦略論的思考法」の欠落を憂えた伊藤憲一氏(『国家と戦略』中央公論社)は、「当てにできないもの(敵の善意、同盟国の力、天祐=てんゆう)を当てにすることから出発する思考こそ、戦略論的思考法と対蹠(たいしょ)的な思考法だ」と、言っている。
 とすると、平和憲法こそ戦後日本の、戦略論的思考法欠落の元凶ということになる。
 しかも、欠落の影響は単に防衛問題にとどまらない。
 伊藤氏によれば「欧米の大学では、一般教養として戦略論の素養が伝授される」。
 国民に浸透した形で、社会全体としての知識の中に、そのような戦略論の素養が蓄積されている場合と、欠落している場合とでは、どのような「差」が生まれるか?
 たとえば、アメリカとの“経済戦争”(アメリカの電子金融戦略)における日本の完膚無きまでの敗退は、この戦略論的思考の欠落、つまり戦後憲法に淵源をもつものと、いえないか?
 何しろ、アメリカ“直行便”の「自由化・規制緩和・ビッグバン・ボーダーレスエコノミー論」の元をたぐれば、
 「日本国が再び米国の脅威とならざることを確実にする」(『米国の初期対日方針』、いわゆるマッカーサーの日本弱体化政策=戦略論)にまで、つながっているはず。
 ところがマスコミ世論は、まるで“トロイの木馬”のように、無防備に内部に取り込んで踊り狂ったのだから。
 どうして、そうなったか?
 実は、ここに戦後憲法に淵源をもつ、日本の「戦略論的思考法の欠落」の最大の問題がある、と筆者は考える。
 それは、憲法前文を見れば一目瞭然(りょうぜん)なように「国家主権イコール悪」と考え「国民(主権)」を国家の対立概念とする思考法(理念)である。
 経済・金融のボーダーレスエコノミー論が、無防備に受け入れられた根底には「国家なき社会こそ進歩した理想型」とする、憲法の理念の下地があったればこそだろう。
 
 「国家(政府)否定」を理想社会とする憲法のもとで、戦略論的思考法が育つわけもなく、「日本の安全」が守れるはずもない。
 まして、圧倒的な国家暴力装置を後ろ盾に、「国益」を押し出して来るアメリカとの“経済・金融戦争”に、勝利できるはずもあるまい。(編集特別委員)


 
 
 
 
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