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1995/09/30 産経新聞朝刊
芦田小委員会 秘密議事録 「日本の将来」冷静に見据える
 
 二十年前、本紙の米極秘文書取材班が発掘した芦田小委員会の秘密議事録の英訳文書にはなく、今回、公表された和文の原本にある部分は、確認できた限りで二十五カ所。この新たに分かった削除部分の中で、最も注目されるのは、昭和二十一年七月三十日の第五回委員会における社会党の鈴木義男委員と金森徳次郎国務大臣の次のようなやりとりだ。
 鈴木「今一つ念のために、交戦権を先に持ってきて、戦争抛棄を後に持ってくることは、立法技術的にいかがですか」
 金森「これは非常に『デリケート』な問題でありまして、第一項は『永久にこれを抛棄する』という言葉を用いましてかなり強く出ております。しかし第二項の方は永久という言葉を使いませんで、是は私自身の腹勘定だけかも知れませんが、将来国際連合等との関係におきまして、第二項の戦力保持などということにつきましては色々考うべき点が残っているのではないか、こういう気が致しまして、そこで建前を第一項と第二項にして、非常に永久性のはっきりしている所を第一項に持って行った。こういう考え方になっております。それがご質疑と直接関係があるかどうか知りませんが、そういう考えで案を作ったのであります」
 この金森国務相の答弁は、独立後の日本が国連に加盟した場合を考えた実に含みの多い発言だ。
 小委員会に提出された政府案の第九条はこうなっていた。
 《国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する》
 《陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない》
 小委員会を経て成立した現行憲法九条の規定も、第一項には「永久」の文字があるが、第二項にはない。
 金森氏はおそらく、第二項に「永久」という文字がないことで、将来の日本が自衛のための戦力を持てるような事態を予測していたのではないか。しかし、そのことをはっきりとはうたえない。日本に再び、軍備を持たせまいとするGHQ。戦争への嫌悪感に満ち、敗戦の虚脱状態から抜け切れなかった日本。その狭間にあって、将来の日本を冷静に見据えたぎりぎりの表現だったとも言える。
 この金森答弁をめぐっては、第七回委員会でも論議が交わされ、やはり、その部分が英文のGHQ文書では削除されている。
 犬養健「第九条は・・・これは永久不動、第二項は多少の変動があるという、何か含みがあるように、ちょっとこの国務大臣のご発言があったようですが…」
 佐藤達夫法制局次長「正面からそういう含みがあるということを申し上げることは出来ないと思いますが、ただ気持を分り易く諒解して戴けるように、金森国務大臣はああいう言葉を御使いになったのだろうと思います」
 こうした微妙な質疑はGHQに知られたくなかったのだろう。
 一方、憲法九条をめぐる「芦田修正」の真意は、今回明らかになった削除部分を見ても依然、分からない。
 「芦田修正」はこの小委員会で、芦田委員長自身から示された。憲法九条の政府案に対し、第一項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」、第二項に「前項の目的を達するため」という字句を挿入、これが現行憲法九条の条文になっている。
 芦田氏は後の憲法調査会総会(昭和三十二年十二月)で「私は一つの含蓄をもってこの修正を提案」「原案では無条件に戦力を保有しないとあったものが、一定の条件の下に武力を持たないということになります」などと発言、自衛隊合憲論の有力な根拠となった。
 昭和五十四年三月、東京新聞がスクープした「芦田日記」にもそのようなことが書かれていた。しかし、昭和六十一年、東京新聞のスクープ記事の中の「自衛権保持の余地を残した」という核心部分の日記の記述が記者による加筆(贋作)と判明。「芦田修正」を根拠とした自衛隊合憲論は大きな支えを失った。
 また、本紙が発掘し、森清・元衆院議員、西修・駒沢大教授らが和文に翻訳した「憲法改正小委員会秘密議事録」(第一法規)にも、「芦田修正」の真意をうかがわせる文言はどこにもなかった。今回、公表された和文の原本にもない。
 だが、西教授が米マッカーサー記念館で見つけた極東委員会関係文書によれば、日本の占領政策を決めていた極東委員会(十一カ国で構成)が「芦田修正により自衛力保持が可能になった」と判断、その歯止めとして憲法六六条の「文民条項」が復活した経緯がはっきりと分かる。
 「芦田修正」の真意はますます分からなくなったが、依然、自衛隊合憲論の根拠であることに変わりはない。しかし、占領時代をとっくの昔に終え、日本がPKO、PKFなど応分の国際貢献への負担を求められるようになった今、この秘密議事録公表を機に、憲法改正論議が高まることは必至だ。
(編集委員 石川水穂)
 
【芦田小委員会の審議経過】
《第1回(昭和21年7月25日)》
 自由、社会、新政会各党による修正案の説明。
《第2回(7月26日)》
 進歩、協同民主の修正案説明。前文について協議。
《第3回(7月27日)》
 前文の原案完成。第1章(天皇)、第2章(戦争の放棄)について協議。
《第4回(7月29日)》
 冒頭、9条について「芦田修正」を提案。第3章(国民の権利及び義務)について協議。
《第5回(7月30日)》
 第3章の教育権、勤労の義務などについて協議。金森徳次郎国務相に出席を求め、9条などについて質疑。
《第6回(7月31日)》
 第3章から第10章(最高法規)までを協議。88条(皇室財産)をめぐって議論。
《第7回(8月1日)》
 9条の原文完成。1条(天皇の地位・国民主権)や88条などを除いて、修正案がほぼ完成する。
《第8回(8月2日)》
 1条の社会党修正案を否決。88条の修正が決まる。
《第9回(8月8日)》
 天皇の「国事行為」が新たに盛り込まれるなど、一部の語句を修正する。
《第10回(8月10日)》
 本委員会に提案する付帯決議について協議。
《第11回(8月13日)》
 付帯決議の協議続行。社会党が追加決議案を提出。
《第12回(8月16日)》
 付帯決議決定。GHQの反対意見により、88条を再修正。皇室財産をすべて国家帰属とする。
《第13回(8月20日)》
 GHQの意向により、内閣総理大臣の指名(67条)、国務大臣の任命(68条)を部分修正。
 
◆20年前の証言
 二十年前、産経新聞の米極秘文書取材班が芦田小委員会の秘密議事録(英文)を発掘した際、メンバー十四人のうち四人が存命であり、その四人から話を聞いた。今は四人とも亡くなったが、委員会の雰囲気を伝える当時の貴重な証言を再掲する
 
【故大島多蔵氏】
◆しばしば速記ストップ
 委員会は衆議院三階にある第一委員室で開かれた。ちょうど夏の盛りで暑くてたまらなかった。第一回会合のとき、暑さにたまりかねて上着を脱ごうとしたが、自由党の廿日出君が「憲法の審議だから服装を正してやろう、背広をちゃんと着よう」と言い出し、おかげで全員、汗みどろだった。冷房もないし、風を入れるため、窓を開けていたが、そこから見えるのはまったくの焼け野原。麻布連隊の赤い崩れたレンガの残がいが印象的だった。しかし、全員、新生日本の憲法を作るというので相当意気込んでいた。
 審議は連日、午前十時から午後五時ごろまで昼食時間を除いてぶっ通し。秘密会だったため出入りのチェックも厳しかった。記録は一応、速記者二人がとっていたようだが、しばしばストップがかかった。会議の内容が英訳され、逐一、GHQに報告されていたからだ。このため各議員が本音を述べたときは大半、「速記中止」だった。
 戦争放棄の条項などでは、「こんな条文はおかしい、必要ない」という本音を吐く人がいた。各議員とも思い切った発言をした。この議事録は国会にも保管されているが、秘密会だったことを理由に公開されていない。今になってGHQ側資料から全容がわかるというのは、どうみても歴史の皮肉だ。
 
【故西尾末広氏】
◆進歩的憲法にびっくり
 ご承知のように、当時、日本は占領下にあって、日本人の自由な意志で何かをやれるような時代ではなかった。そういうときに憲法をつくるということが、そもそも正常ではない。マッカーサーの「日本を東洋のスイスにする」という言葉にいみじくも表れているように、今の憲法はアメリカの意思でつくったものだ。
 差し出された憲法(案)を見ると、これができすぎている。主権在民の憲法などというものは、日本では政治家も学者も口に出して言ったことがなかった。社会主義の人たちが考えていたのよりも進歩的な憲法だったものだから、僕もびっくりした。あのときにしてはベストだったのではないか。
 芦田小委員会に出た人たちも、欽定憲法に比較して「進歩したいい憲法」とみていたようだ。あのころは戦争に負けてボケていたせいか、日本人には憲法改正の能力がなかったのではないかと思う。その点、GHQの官僚の立案能力というのはすばらしいものだった。ビシッ、ビシッと案をつくって持ってくる。憲法づくりだけでなく、政策全体がむこうの力なしにはやれない状態だった。
 しかし、それにしても軍事支配の下で、大急ぎでつくった憲法だから、私は当時も、先々、変えてもいいと思っていた。近ごろは、そういう昔のことを知らんふりしてものを言うとる人が多いようだ。
 
【故笠井重治氏】
◆英語の表現よく問題に
 芦田小委員会で一番記憶しているのは、論議が盛んになると、北君(北吉委員=自由党)からしきりに「何という意味かね」と英語を聞かれたことだ。別に英文の議案書が配ってあるわけではないが、政府案の下敷きが英文なものだから、英語の表現がよく問題になった。
 一番論議に手間取ったのは、第九条の戦争放棄の条項だった。もともと総司令部の案だから、のむしかないと多くの人は思っていたようで、反対したのは僕一人だけだったと記憶している。知り合いのAP通信の米人記者が僕に向かって「日本人はバカだ。革命的なことが起こっているのに、一人も自分の意見を吐かない。日本が独立すれば国連に参加して、日本の負担として武器、軍備の提供を要求されるのでないか」というのだ。なるほどと思って、僕も発言したが、みんなに「君だけ反対してもしようがないじゃないか」と言われた。
 
【故森戸辰男氏】
◆政府は根本資料公開を
 この速記録は日本の憲法制定の事情を知るきわめて貴重な資料だ。わたしも一昨年(昭和四十八年)だったか、憲法に関する論文を書くため、衆議院に「この議事録を見せてほしい」と申し入れたが、断られた。民主主義を基本とする国としてはまことにおかしなことだ。それが今、米国側の資料から見つかって新聞に報道されるとは…。
 どうも最近の憲法論争を聞いていると、大半の人が制定事情を知らない。それは芦田小委員会のような根本資料を政府が公開しないことも大きな原因だ。この小委員会では、第九条に芦田委員長の提案で重大な修正が加えられた。それは「すべての戦争を放棄すべし」とするマッカーサーの基本原則が、「防衛戦争についてはこの限りではない」と解釈できるように修正されたことだ。裁判官にも、この議事録をじっくり読んでもらいたいものだ。


 
 
 
 
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