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1995/05/02 毎日新聞朝刊
対談 戦後50年・護憲はどこへ(その1) 自衛隊、合・違憲論は終結
 
<京極純一・東大名誉教授/斎藤明・毎日新聞主筆>
 戦後五十年の節目を迎え、日本はどこに行こうとしているのか、その存立基盤をめぐってさまざまな論議を呼んでいる。三日の憲法記念日を前に、戦後日本の骨格を規定してきた憲法をどう位置付けるべきなのか、京極純一・東大名誉教授(毎日新聞社特別顧問)と斎藤明・本社主筆(東京本社編集局長)が話し合った。(政治部長・岸井成格)
 
◇社党政策転換で状況一変
 斎藤主筆:自衛隊論争の歴史は、合憲か違憲か、ということだけだったと言っていい。それが今、社会党の政策転換で全く状況は変わった。阪神大震災で問題になったのは、自衛隊の出動が早いか、遅いかということだった。地下鉄サリン事件では、自衛隊のことは問題にすらならなかった。
 京極氏:自衛隊、日米安保条約が違憲であるという社会党の立場は、社会党が自民党と政権を担当した段階ですべて終わった。社会党は細川内閣にも参画していて、自衛隊が違憲であるという意見はすでに消えかかっていた。長年の立場が終わったあとは、自衛隊がうまく動くかどうか、実際面に焦点が移った。
 主筆:占領下で、二つのことがあった。最初は、平和憲法の制定。そして、朝鮮戦争(一九五〇年)の時に、自衛隊の前身として警察予備隊が出来た。まず、この間に考え方は変わったのだろうか。
 京極氏:占領下では、日本は主権状態ではなかった。連合国側は、日本の政治をつくり変える目的をもっていた。日本は革命が起きず、大日本帝国体制を維持したまま降伏した。天皇の戦争裁判問題を前面に出すと占領軍の安全が脅かされる危険もあった。そこで出てきたのが、天皇制を浄化した新憲法。軍隊をなくし、戦争という問題自体がなくなった。
 主筆:世界が復興に向かう中で、日本国憲法に対する考え方は変わったのではないか。
 京極氏:朝鮮戦争がぼっ発し、日本を後方基地にということになり、日本の安全が(米国にとって)至上命題になった。そこで、占領軍の指令により中程度の装備を持つ警察予備隊ができた。憲法九条と両立しがたい警察予備隊をつくれとは矛盾だが、日本は主権状態になかった。
 主筆:そこで憲法問題は変わってくる。
 京極氏:その段階は、まだ占領下だ。米軍から見ると日本の軍事基地の安定利用が必要になる。そこで日本と講和条約を結び、日本政府、国民が自主的に基地を供用するという形を取った。サンフランシスコ講和条約と日米安保条約はセットだった。それから戦後政治が本格化する。冷戦状況の中で、ソ連、中国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の応援団、代弁者という政治勢力と、日米安保堅持という政治勢力が内政上で対立する政治状況になった。社会党は憲法九条があるから日米安保も違憲と主張する。五五年に左右社会党が再統一し、その後、保守合同があり「一と二分の一」大政党制が出来上がった。社会党は憲法改正を防ぐため、三分の一の議席を取ればいい、過半数を取らなくていいという大義名分を得た。政権を取らない政党が国会で議席を維持する正統性が憲法九条護持。自民党は過半数を取っても憲法は改正しない。そのかわり日米安保堅持。これが五五年体制だ。
 主筆:サンフランシスコ講和条約の締結前の憲法創設期と、朝鮮戦争の時期とで憲法の解釈の違いがあった。講和条約以降、その二つの解釈を持ち込んできたということになる。講和条約の後に国民投票をして憲法を決めようという意見があった。「もし」は禁物だが、それがあれば今に至る議論というのはなかったかもしれない。
 京極氏:自民党サイドは、国民投票をして「ノー」と言われたら困る。社会党サイドは「イエス」と言われたら困る。国民投票をしないことに政治判断の一致があったのかもしれない。
 
◇解釈、運用で対応できる――斎藤明・主筆
 
◇9条は「不戦メッセージ」――京極純一氏
 主筆:対外侵略から国を防衛するとカチッと決まったのが自衛隊法発効の五七年だ。
 京極氏:自衛隊法三条に「自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし」とある。この明文から、九条は自衛権を認めているという解釈が有権的解釈になり、学者の間でも主流になっていくのではないか。
 主筆:ともかく、自衛隊が既成事実化した後の国会論争というのはワンパターンで、足の長さ――航空機・船舶が領海を出るか出ないか――とか、攻撃兵器か防御兵器かとか、そういうことばかり繰り返してきた。そういう論議の裏にあった日本の憲法、平和思想を考える時、第一次大戦後のヨーロッパを念頭に置いて考えてみると分かりやすいと思う。第一次大戦で初めて「総力戦=大戦の世紀」となる。あの時、英国などはものすごい平和主義、「戦争はいやだ」という空気があった。
 京極氏:一番大きいのは、日常の市民的文明生活の場が戦場になったという経験だ。日本の場合も本土空襲で、日常生活の場で戦争の被害を受けた。そういう反戦感覚、反戦感情、反戦思想・・・。これは日本国憲法制定時にあった。
 主筆:実際には戦後は日米安保体制という形で日本の安全保障は行われてきた。にもかかわらず「戦争には巻き込まれたくない」という意味での中立政策があったとは言えないか。
 京極氏:連合国側の調査によると、日本国民は一部の軍国主義者だけが加害者であると考えていた、という話だ。国民が主権を継承する過程で、大戦を遂行した主権の責任の方が免責されてしまった。
 主筆:被爆体験が、それを加速している面もある。米国の原爆投下への謝罪問題という問題も今日的テーマとして出ている。
 京極氏:被爆者たちには、結果として、人類に代わって、犠牲になったという面がある。「地球上の他の人々にこれ以上の被害を与えないでほしい」。これは言わなければならない。
 
◇京極純一氏=47年東大法学部卒。65年東大教授。88年東京女子大学長。94年から毎日新聞社特別顧問。著書に「政治意識の分析」、「日本の政治」など。


 
 
 
 
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