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1994/10/23 毎日新聞朝刊
[新聞と戦争]/4 平和の中で 憲法改正 象徴天皇へ地ならし
 
 終戦直後の新聞は大体、表裏二ページのペラ新聞だった。三十ページ前後の現在の新聞からは、想像もつかぬ貧相な外見だった。しかしそのペラ新聞が、歴史を動かすこともあった。一九四六年二月一日の毎日新聞が、その一つ。同紙はその日、政府の憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務相)の作った新憲法試案をスクープした。
 その朝、首相官邸は大騒ぎになった。松本国務相は記者会見して「あれは違う」と否定した。が、スクープされたのは政府試案二つのうち、その一つとほとんど同じだった。
 「ならば本物を出せ」と連合国軍総司令部(GHQ)に促されて、政府は一週間後、松本試案を提出した。GHQはこれを「非民主的」と拒否、五日後にGHQ草案を政府に突きつける。新憲法づくりは以後、この草案をもとに急ピッチで進められる。
 
◆スクープが誘因に
 もちろん報道だけがGHQをして新憲法づくりを急がせたわけではない。戦後初の総選挙がその年の四月に行われる予定であり、マッカーサー元帥が憲法を総選挙の争点にすべく、急がせたとの説がある。
 また元帥が極東委員会の干渉を嫌って先手を打ったことも考えられる。ソ連などの要求もあって、連合国側に新たに極東委員会が設置され、初会合が二月二十六日に開かれることになっていた。GHQ首脳陣は「新憲法づくりを急ぐのは天皇を守るためだ」と日本政府側にもらし、極東委員会が天皇制の廃止を迫ってくる可能性をにおわせていた。
 政府は新憲法案を総選挙前に示したいと広言していたが「あまり積極的でなかった」と、新憲法づくりにずっと携わった佐藤達夫元法制局長官が回顧している。そこへのスクープである。しかもその内容はGHQの目指す方向に程遠かった。GHQはこれを契機に攻勢に転じた。佐藤氏は「この記事がGHQ側のその後の急激な動きについて、一つの誘因となった」とも語っている。
 歴史的スクープを放った新聞だったが、その後は生彩を欠いた。政府の松本試案が拒否されてGHQ草案が逆提案されたこと、これをもとに新憲法づくりの作業が進められたことなどは、全く報道されなかった。一カ月後の三月七日、松本試案とは似ても似つかぬ新憲法草案が新聞に掲載される。突然の出現に、大半の国民は戸惑ったに違いない。
 GHQは表向き、新憲法づくりが日本の自発的努力によるとしてきた。だからGHQとの連絡で頻繁に開かれる閣議を楢橋渡書記官長は「公職追放関係でだ」とごまかした。ちょうど公職追放令の出た直後だったから、新聞記者たちもそんなものかと疑わなかった。「残念ながら全く気がつかなかった」と、新憲法試案をスクープした西山柳造氏(78)は語っている。
 だが、新聞は草案発表後もこの経緯に沈黙を守り続けた。「政府が発表した憲法改正草案は、松本国務相が起草に当たっていた案とはだいぶかけ離れ、相当飛躍したものであった」と朝日新聞は「憲法改正草案解説」(三月九日付)で指摘した。しかしなぜ飛躍したのか、言及がない。恐らくGHQの検閲を意識してのことだろう。新憲法の背後にGHQのあったことをにおわせたとしても、事前検閲で削られたに違いない。このことをもって現在の改憲派は、現憲法の民意反映に疑義をはさむ。
 その指摘は一面で正しい。が、すべてではない。改正の中心は天皇制と戦争放棄だが、いずれも当時の国民の意識とかけ離れていたかといえば、必ずしもそうとは言えない。
 まず天皇制から見よう。
 GHQは四五年十月四日、政治的自由に対する制限撤廃の覚書を出して、天皇制に対する自由討議を新聞に促した。天皇と聞いただけで直立不動の姿勢を取る当時の国民にあって、天皇及び天皇制を議論するなど思いもよらぬことだった。
 それでも新聞は、初めは外電を転載することで天皇問題を紙面化した。続いて毎日新聞は憲法学者などを動員して、四六年一月「天皇制の解明」を連載した。朝日新聞は読者欄に、さまざまな層の天皇論を紹介した。新聞は学者の説や読者の声を掲載することで、国民のタブー感を緩めていったのだった。
 そして新聞自身も少しずつ、新しい天皇観を模索していく。毎日新聞四五年十月十三日の社説では「建国以来の君臣一如の国体は、たとえ憲法にいかなる改定が加えられようとも変動あるべきものではない」としていた。しかし十二月二十一日の社説は、前日に明らかになった近衛文麿元首相の憲法草案を「微温に過ぎる」と批判して、明治憲法の天皇統治権に思い切ってメスを入れることを主張した。
 さらに四六年二月一日の社説は、政府試案のスクープを受けて、これを「現行憲法と全然同じ」と非難。「(天皇の)不統治の原則を何らかの形で憲法に明らかにしておく必要があろう」と注文をつけている。
 
◆戦争責任追及が・・・
 同紙はまた、四六年二月四日付で民間団体の世論調査を紹介。「天皇は道義の中心に」と伝えた。それによると天皇制支持は九一%、反対が九%。しかし支持の内訳は「現状のまま」が一六%、「政治の圏外に」が四五%強、「議会とともに共有」が二八%、その他一・五%となっている。世論とキャッチボールしながら、新聞は天皇の象徴化へ地ならしをしていったのである。
 もちろん米国やGHQの思惑もあった。彼らは天皇を日本統治の手段に利用するハラでいた。しかし天皇制廃止論や昭和天皇の退位説の渦巻く中で、象徴天皇が新憲法の天皇制の落としどころであることは、政府も新聞も国民も推し量っていた。
 むしろ問題があるとすれば、このことによって戦争責任の追及がうやむやになったことだった。象徴の意味一つ取っても、新聞は突き詰めて考えることを放棄した。天皇の国事行為でさえ、政府の拡張解釈に任せた。これを新聞の限界とする声は、少なくない。


 
 
 
 
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