日本財団 図書館


第19回 香川県白鳥町立本町小学校
元・運輸省航海訓練所(現・独立行政法人航海訓練所)教授
元・東京船大学教授 船長 橋本 進
 
1. はじめに
 今年の9月中旬に船長協会から「船長母校へ帰る」の企画を承ったとき、正直いって二の足を踏みました。ところが「この企画は四国で初めてですから、ぜひご協力を!」という協会の熱意にほだされ、また、ちょうど旧制中学のクラス会があって帰郷することもあり、本町小学校へ行って話してみることにして一応お引き受けすることにしました。
 あらかじめ白鳥町教育長・村上克美氏に趣旨を説明しておきましたところ、本町小学校校長・児島洋司先生、教頭・三井重彰先生にご相談下さり、「本町小学校の一大行事である校内文化祭の一事業として11月10日(日)に実施しましょう」というご返事をいただき、もはやあとに引くこともならず、ままよと「母校へ帰る」を引き受けた次第です。
 児島校長は、先生のモットーとしておられる「教育に夢を!子供に感動を!」テーマに「夢のある話」を望まれました。また出席者は全校生徒13クラス329名、先生23名、父兄約200名、総計約552名ということでした。
 船長協会・澤山会長、村田常務と種々検討の結果、「練習帆船日本丸」(監督:篠田正浩、脚本:富岡多恵子、音楽:渡辺晋一郎、ナレーション:岩崎加根子)の映像を中心に講演会を企画することにしました。
 また、白鳥教育委員会を通じて「白鳥町広報」や新聞社(四国新聞ほか)等への事前広報をお願いし、さらに、事前資料として船長協会からは生徒・教師用に「船の下敷き」および「海と船なるほど豆辞典」を、日本船主協会から先生用として「Shipping Now 2001」を、生徒用としては「めざせ海のエキスパート」、「船ってサイコー」などが小学校へ送付されました。
 
2. 白鳥町の紹介
 もともと白鳥(しらとり)町は、香川県東部の瀬戸内海・播磨灘に面した半農・半漁の白鳥本町、すぐ南の農業の白鳥村、その西につづく農・林業の福栄(ふくえ)村と五名(ごみょう)村の4町村が、昭和30年(1955)7月1日に合併してできた町です。人口は13,015人(11月1日現在)です。
 私の故郷旧白鳥本町はその昔、伊勢の能褒野(のぼの)で没した日本武尊(やまとたけるのみこと)の霊が白鳥となってこの地に舞い降りたという伝説を起源とする古社、「白鳥神社」を中心に栄えた門前町です。
 白鳥神社の前を通る道路は「遍路(へんろ)みち」と呼ばれ、旧五名村の西隣の長尾町(東さぬき市)の矢筈山の東麓にある四国八十八ヶ所・八十八番札所(ふだしょ)・大窪寺(おおくぼじ)(結願寺(けちがんじ)ともいう)に通じています。この大窪寺にお詣りして四国八十八ヶ所の霊場を無事めぐり終えたお遍路(へんろ)さんは、ここに金剛杖(弘法大師の化身という)を納め、「お礼詣り」のために再び鳴門(なると)の一番札所・霊山寺(りょうぜんじ)にお参りし、さらに鳴門海峡を渡って高野山・金剛峰寺(こんごうぶじ)へ向かうのだそうです。白鳥神社は大窪寺と霊山寺のほぼ中間に位置していたこともあって、多くの「お礼詣り」のお遍路さんがこの神社にお詣りしていました。私の子供の頃の記憶には、菜の花の咲く頃、神社前の遍路みちの両側の床机(しょうぎ)の上に並べられていたお接待(せったい)の「おこわ」や「牡丹(ぼた)餅」の印象が強烈です。
 
 白鳥町はもともと海も川も山もある風光明媚なところですが、最近は道路整備が進んだこともあって、ますます見どころは多くなったそうです。
 また、白鳥町は西隣の大内町、東隣の引田町とともに明治時代から手袋産業が栄え「手袋の町」として全国に知られ、今では全国の90%以上の生産量を誇っています。また最近は日本だけでなく世界の手袋産地として有名です。製品もファッション手袋、スポーツやレジャー手袋、工業用手袋などがあり、さらに手袋の技術を応用したバッグ、ニットウエア、ルームソックスなど幅広い商品の生産地となっています。
 平成15年4月1日には白鳥町、大内町、引田町が合併し「東かがわ市」になるそうです。
 
 2002年(平成14年)9月号『正論』の随筆欄に、諸橋清隆氏(東京高等商船航海科118期)が「山本元帥夫人の白い封筒」と題した一文を寄せられています。その内容は、
 「昭和36年(1961)4月に護衛艦「ありあけ」の艦長となり、この年の遠洋航海は初めて赤道を越えて豪州・ニュージーランド方面へ向かうことになった。
 出港当日、故山本五十六元帥の礼子夫人が見送りに来られるという連絡を受けていたのでお待ちしていたところ、夫人一行は出港1時間前に來艦された。士官室へご案内していろいろと歓談していたが、出港時間も迫り、礼子夫人は私に退艦の挨拶をされた。その直後のこと、夫人はつと私に近寄り、〔大変勝手で恐縮ですが、ブーゲンビル島の西側を通過なさるさい、これを海に投げ入れてくれませんか。これは、山本とともに機上で戦死された樋端(といばな)航空参謀への追悼文です。どうかお願いいたします〕と深く頭を下げられ、ズシリと分厚い白い封筒を手渡された。ブーゲンビル島ブイン沖を南下の際、この「白い封筒」投下の慰霊式を行いご冥福を祈った」
というものです。
 ここに紹介された樋端航空参謀こそ、昭和18年(1943)4月18日ブーゲンビル島ブイン上空で連合艦隊司令長官山本五十六と運命を共にした航空参謀・樋端久利雄(といばなくりお)海軍中佐(戦死後大佐)なのです。彼は明治36年(1903)旧白鳥本町に生まれ、尋常小学校、大川中学(現三本松高校)から海車兵学校、海軍大学校を通して常に主席を譲らず、海軍生活のエリートコースを歩みました。海軍部内では、日露戦争の日本海海戦を大勝利に導いた秋山眞之(さねゆき)参謀に比すべき逸材といわれましたがミッドウエー海戦後、連合艦隊の参謀となり自ら「い号」作戦を索案しましたが、その戦果を得ることなく山本長官に殉じました。享年40歳でした。しかし当時の海軍首脳部は戦局の劣勢が一般国民に知られることを恐れ、山本長官の偉大さをひたすら強調することによって戦意の高揚をはかろうとしたため、同行していた参謀達の死を公表することはなかったのです。このため戦後の戦史特に「海軍もの」に「樋端久利雄」が登場することは極めて稀でした。平成4年(1992)、海兵78期の衣川宏(きぬがわひろし)氏が『ブーゲンビリアの花』(原書房)を出版されてはじめて世に知られるようになりました。
 ちなみに東隣りの引田町からは第2次世界大戦後まもなく、ときの首相・吉田茂から「曲学阿世の徒(きょくがくあせいのと)」呼ばわりされた当時の東大総長・南原繁(なんばらしげる)(大川中学卒)が出ています。
 
3. 11月10日(日)の本番
 この講演会開催にさきだち、私なりに集めた「子供たちを相手の話し方」の情報は、
(1)最初に演壇に上がったときが勝負である。生徒全員の関心を一身に引きつけることが大切で、船長の制服で登壇するのが最高であること。
(2)1年生から6年生までを一堂に集めての「話」は一番難しい。1年生にゆっくり、よくわかるようにしゃべってばかりいると、5・6年生は飽いてくる。ときには下級生、ときには上級生とほどよくしゃべりわけることが必要であること。
(3)出来得れば話はわかりやすく短くした方がよい。そのためには「映像」をうまく使うのがよい。
(4)簡単な内容の質問形式で話を進める方法も心掛けたがよい。
(5)広く、みんなの顔を見渡しながら大きな声でしゃべること。
等々でした。今後の参考のためにと思い列記しました。
 これらの情報をふまえ、『月報・Captain』に掲載されているこれまでの実績を参考に、私なりに『「船長母校へ帰る」講演シナリオ』を作りました。そのシナリオによって、ビデオやOHPがスムーズに映写されるように工夫しました。
 11月9日(土)午後4時、澤山会長と村田常務にご一緒して本町小学校を訪問し村上教育長、児島校長、三井教頭と応援の教師2名を交え翌10日の打ち合わせを行いました。この席で用意した「講演シナリオ」をお渡しし、村田常務にはそれを参考にして手はずを整えていただくことにしました。
 講演場所は全生徒と教師が昼食を共にする「ランチルーム」で、すでに机や椅子は外に出して絨毯を敷き、児童は前から1年生、最後尾は6年生の順に座って講演を聞くとのことでした。その後ろは座布団を敷いた一般席、さらにその後ろは椅子を並べた一般席と用意されていました。
 
 11月10日(日)、いよいよ本番です。午前9時45分、校長室に集合して再度打ち合わせ・調整を行いました。その折、児島校長より10時20分から開始ではいかがかとのご提案があり、願ってもないことと喜んでお受けしました。
 10時15分、制服・制帽を着用した私たち3人は児島校長の先導で入場しました。一瞬、会場のざわめきは静まり、会場の視線が私たちに集まるのを感じました。(内心、シメタと思いました)
 10時20分、三井教頭の司会で講演会は始まり、児島校長からは講演会の趣旨についてのご挨拶があり、次いで私たちの紹介がありました。
 澤山会長は(社)船長協会の紹介と「船長母校へ帰る」の企画について話されました。次はいよいよ私の番です。
 大きな拍手に迎えられて演台に立ちました。最初は緊張しましたがあとはシナリオにそって話を進めました。そのシナリオの出だしを一部紹介しておきます。
 
橋本船長の話(I)
(制服・制帽で壇上に上がる)
 みなさん今日は!(今日は!の返答を待つ)
 私は船長の橋本進です。この制服は商船(お客や貨物を運ぶ船、自衛艦ではありません)の船長が着る服で、袖には4本の金モールがついています。この帽子も船長のかぶる帽子です。商船では船長のことを「キャプテン」と呼びます。みなさんがクラブ活動で呼ぶ「キャプテン」と同じです。しかし、クラブ活動では、キャプテンを辞めるともうキャプテンとは呼んで貰えませんが、商船の場合は、船を下りても一生「キャプテン」と呼んでもらえます。これは世界共通のしきたりです。
 私は61年前にこの本町小学校を卒業しました。それから勉強して帆船日本丸の船長になりました。これからみなさんにお見せするビデオは、アメリカの独立200年を祝って、各国の帆船がニューヨークのハドソン川に集まりパレードを開いたときのもので、日本からは練習帆船日本丸が参加しました。この時の船長は私でした。
 ビデオの内容は、帆船日本丸に乗った若い人たちがマスト登りの練習から、帆の取り付け、帆の上げ下ろしの訓練を終わって太平洋に出て行くところから始まります。途中、大嵐にあったり、けが人を助けたり、いるかと一緒に走ったり、パナマ運河の近くではペリカンが飛んでいる場面も出てきます。それではビデオをみて下さい。
 
 このようにして話を進め、パナマ運河を通過し終わったところではビデオをいったん止め、船長協会のDVDを使用してパナマ運河とスエズ運河の詳細を澤山会長から説明して貰うなどしながら、ビデオの映写を終わりました。
 
橋本船長の話(II)
(1)私が9月26日に本町小学校へ打ち合わせに来て東門から校庭に入ったとき、男の子から「今日は」と挨拶されました。その子に職員室の場所を聞いたところ教えてくれました。腕に包帯をして首から吊っていましたが、ここにいますか?立って下さい。(立ち上がってくれました)そのあと、後から女の子が追っかけてきて職員室の前まで連れていってくれました。ここにいますか?(立ち上がってくれました)二人ともありがとう。(場内、大きな拍手)
 
講演中の橋本船長
 
 あのとき私は、わが母校本町小学校の教育も大したものだと嬉しくなりました。
(2)(OHP・暮らしを支える主要物資の輸入依存度のグラフで説明)
 日本の国は四方を海に囲まれております。そのうえ国内には鉄を作る原料も、ガソリンを作る原油もありません。ですから私たちの生活に必要な品物はほとんど外国からの輸入に頼っています。
 このほかに、油や石炭や鉄の材料など、たくさんのものを輸入しています。そしてそれらの原料から鉄を作り、自動車を作って外国へ輸出していますが、これらの貨物はすべて船を使っていることを知って下さい。
(3)私が1年生の1学期の終わりに初めて通知簿を渡されたとき、担任の先生から「進君は1学期は遅刻したことも休んだこともなかったナー、よく頑張った!」と褒められました。2学期も褒めて貰おうと思って頑張りました。そして6年間、1回も遅刻せず1日も休まずに卒業しました。いま思うと「学校を休まず頑張ってみよう」というのが私の夢であったような気がします。私の夢は実現したのです。
 練習船に乗ってからの夢は船長なることで、そのために努力しました。そして船長になりました。
 子供のときの夢は、小学生のとき中学生のときと学年が進むにつれてだんだん変わってきます。それはみんな大きくなり勉強しているのですから変わるのが当たり前なのです。大切なことは夢を見るだけでなくその夢を実現するために努力することなのです。
(4)私が船に乗って初めてホノルルに行ったときに買った本のなかに、船の人が帆船模型をビンの中に入れようと工作している絵がありました。これを見て、日本ではまだ見たこともないものだから、これを作ったらみんな驚くだろうなーと、秘かな夢をもちました。
 これは私が工夫を重ねて作った帆船のビン詰め模型です。出来上がったときは嬉しかったです。ボトルシップといいます。ボトルシップという言葉は正式の英語ではありません。私が作った新しい日本語です。
 今日、本町小学校に来た思い出に、このボトルシップを寄付します。どこかに置くようにお願いしておきますので、どのようにして作ったのか考えてみて下さい。
(5)最後になりますが、みなさんの先生方も、みなさんが世の中のためになるような人に育ってくれることを夢みて努力しておられます。
 私もまだ夢をもっています。それはこれからも多くの人たちに、海のこと船のことをもっともっと知らせたいという夢です。私の話はこれで終わります。有り難うございました。
 
 11時35分、私の講演は予定通り終わり、質問時間に入りました。質問は、
(1)帆船以外にどのような船がありますか。
(2)船酔いは誰でもしますか。
(3)船で行って一番遠いところまでどのくらいかかりますか。
(4)船から海に落ちたらどうなりますか。
というものでした。私と澤山会長が応答しました。なお、ほかに質問のある方は船長協会へお知らせ下さいということで質問時間を終えました。
 ひきつづき澤山会長挨拶、次いで児島校長の謝辞があり「ビデオの中で船長の言われていた“労働とは汗をかくこと”という言葉に感銘を受けました」と言われましたが、学校教育が云々される昨今、長い歴史と伝統をもつ練習帆船における人間教育の一端が理解されたのではないかと嬉しくなりました。
 最後に児童会代表・三島由妃(ゆき)さんによるお礼の言葉、「本日は、お忙しい中ご講演いただきありがとうございました。本町小学校の大先輩が来て、講演してくださると聞き、楽しみにしていました。そして、今日、先輩をお招きしてお話を聞くことができて、とてもうれしかったです。先輩がお仕事に一生懸命取り組んでいらっしゃることがよく分かりました。私たちは、お話いただいたことや、今日の出会いを忘れず、これからも勉強や運動にがんばっていきます」のあと、香西力也(こうざいりきや)君からの花束贈呈があり12時ジャストにすべての行事は終了し、盛大な拍手に送られて会場を後にしました。
 
4. あとがき
 今回の「船長母校に帰る」の企画は、小学校側が文化祭の一環として行事に組み入れたこと、また事前に広報してくれたこともあって会場は児童、父兄、一般聴衆でいっぱいでした。この講演の対象は子供たちであったにもかかわらず、一般の方々も熱心に聞いてくれたこと、さらに最後尾の人垣の中には双眼鏡をお持ちの方もあり感激しました。それやこれやを総合しますと、この企画は大成功だったと自画自賛しています。
 新聞報道によりますと、文科省は、1987年度から小中高校の新採用の教師の初任者研修の一環として実施してきた客船を借り切っての約10日間の洋上研修は、財政難で参加者を送れない自治体が増えたこともあって、来年度から廃止することにしたそうです。
 第2次世界大戦後の経済最優先の政策は、一方ではさまざまな弊害をもたらしました。それが具現化し、国民に大きなショックを与えたのが昭和48年(1973)の第1次オイルショックによる社会生活の混乱でありました。このオイルショックによって暴露された日本国民のモラルの貧困さに対して、その育成と高揚に積極的に取り組み始めたのは地方公共団体であり、またその手段として船を選んだのも地方公共団体でした。
 せっかく根付いてきた新任教師の洋上研修が、財政難の理由で幕を閉じることに深い悲しみを覚えます。日本の国は海に囲まれた国であることを日本政府も国民もまた忘れようとしているからです。
 せめて、21世紀を担う子供たちを指導する小学校の先生だけにでも「我は海の子」の歌を実感できる研修があってもいいのではないでしょうか。
 いま練習帆船海王丸が一般の人を受け入れて体験航海を実施しています。なんらかの方法で実習生と一緒に研修する機会はないものかと愚考する次第です。
 
(拡大画面:42KB)
 
(拡大画面:33KB)







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION