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IV章 移殖と放流の歴史
 中禅寺湖を代表とする奥日光の湖沼と河川には、古来より魚類が生息していなかったといわれている。これは、中禅寺湖から流出する大谷川の下流約500m地点にある落差約100mの華厳滝によって、下流から魚類が上ってくることが妨げられたためである。また、古来この地域は男体山を御神体とする二荒神社の社域で、宗教的霊地として殺生、他所からの動物類の持ち込み、移殖、放流などは固く禁じられていた。古い記録ではカエルやイモリなどの両生類のみが見られた程度であったといわれている。しかし、1873年(明治6年)に、当時の二荒山神社の宮司であった柿沼広身がこの宗教的戒律を解いて中禅寺湖への魚類の放流を許し、日光・細尾の住人星野定五郎が附近のイワナ2,200尾を最初に放流した。その後、明治年代において、ビワマス(アメノウオ)が琵琶湖から、ニジマスがカリフォルニア州(アメリカ合衆国)から、カワマスがコロラド州(アメリカ合衆国)から、ヒメマスが北海道の支笏湖と秋田県の十和田湖から移殖された。
 閉鎖的な水域に移殖された魚類が定着するまでには長期にわたる人工増殖が必要で、現在でもこの努力は続いている。現在、奥日光に生息する魚類はすべて移殖・放流によるものである。明治初期からの130年にもわたる奥日光水域への移殖、放流の歴史は、我が国における冷水性魚類の人工増殖史として、貴重なものである。
 奥日光における移殖、放流の歴史については、田中(1967)が1873年(明治6年)から1962年(昭和37年)までの記録を整理している。その後、田中(1967)の資料をもとに、斉藤(1986)、奥本等(1989)がまとめている。
 ここでは、中禅寺湖、湯ノ湖、湯川の最新の資料を加え、奥日光水域における130年間にわたる移殖、放流の歴史を振り返る。
 
 二荒山神社の境内に、宮司の柿沼広身が宗教的戒律を解いて魚類の放流を許した由来を刻んだ碑が立っている。
 
 山幸もおのがさち、うみ幸も己がさちさちと、いへる古事ありしかるに此の湖は、水ありて魚すまぬは千とせにあまるむかしより御仏のいました故なりとも又水寒ければおのずからも生出でねなりといて我はなたむといふを、さまたくる人のみぞ多かりける。人言は耳ふたぎてまづその事を前宮司戸田忠友の君にはかりければ、うべ試みよとてこがね百ひらをなむたまわりける。この魚にかへて放ちけるに猶あまりあればそのあくる年又湯の湖にも放ち遣りて試みるにふた所ともにいとよく育ちたり。かくてこそうみ山の幸全く備りぬれ。
 されば今幸の湖と名をたたえて此の湖につりする糸のながき世までにつたえんとす。
 今よりはさちちさの矢の遊びせむうみさちの山、やまさちの湖
明治十一年五月二十五日
二荒山神社宮司権少教正 柿沼広身
田中(1967)
 
 これによって、1873年(明治6年)、細尾の住人の星野定五郎がイワナ2,200尾を中禅寺湖に放流したことが、この水域における魚類移殖の始まりであった。田中(1967)によれば、1874年(明治7年)には、二荒山神社の宮司、柿沼広身が中禅寺湖にコイ20,000尾、フナ2,000尾、星野吉平がウナギ300尾、星野定五郎がドジョウ500尾を放流したとしている。
 
写真: 
第1期養魚場報告(明治39年)に記載されている放流の記録(養殖研究所日光支所 蔵)
 
 1881年(明治14年)に当時の農商務省は、いろは坂下の深沢にふ化場を設置し、1882年(明治15年)に琵琶湖からビワマス(アメノウオ)、北海道からマス卵(サクラマス)を移入し、ふ化放流を実施した。移入した魚類は国内産にとどまらず、1887年(明治20年)にはカリフォルニア(アメリカ)からニジマスが移殖されている。「第1期日光養魚場報告(明治39年)」によれば、農商務省の施設に係るふ化放流の事業は1884年(明治17年)まで継続し3年にわたった。その結果、魚類の養殖の成績は良く、中禅寺湖や渓流のいたるところで魚類の遊泳が見られたが、禁漁を犯す者があった。このため、1885年(明治18年)地元の有志が、栃木県の許可を得て漁業組合を組織し、魚類の繁殖保護を図り、また漁場、漁具等を制限し、永遠に利益を増進することを目的とする規約を設けた。
 奥日光水域にニジマスが移殖された経過を、専門委員の加藤禎一博士がまとめているので以下に収載する。
 
日光養魚場に入ったもう一つの(ドナルドソン系)のニジマス
加藤 禎一
 
 奥日光水域に初めてニジマスが移植されたのは明治20年で、この時に4,000尾が中禅寺湖に放流されている。
 一方、日光養魚場(当時は帝室林野管理局所管)でニジマスの養殖が始まったのは明治40年にアメリカのコロラド州から82,100粒の発眼卵が到着した時からである。その後明治41年、明治42年、明治43年、明治45年と合わせて5回に亘って合計417,100粒が入ったが、現在の養殖研究所日光支所で飼育されているニジマスはその子孫である(日光系)。明治時代に移植されたものが今日まで一世紀近くもその系統を保ち続けているだけに遺伝資源としても貴重な魚である。
 このように移植した系統を大切に飼育してきた日光養魚場にも、これまで2回だけ外の系統のニジマスが入ったことがある。それが成長の良いことで知られるドナルドソンのニジマスである。ドナルドソンの名称は、この系統の育ての親であるワシントン大学のドナルドソン教授の名前をとってつけられたものである。
 何れも水産庁の委託試験として入ってきたもので、1回目は昭和29年に10,000粒、2回目は昭和41年に50,000粒が入っている。
 従来のニジマスとの比較試験が目的なので、当然のことながら日光系と混ざらないようにして飼育された。
 しかしながら、1回目に移植されたドナルドソンのニジマスは、従来のものと殆ど変わらないという結果だったので、初めて成熟に達した3年後に日光系との混合を防ぐために全て処分された。
 当時の日光養魚場(水産庁所管)は我が国唯一の国立の種苗生産機関であったため、池にも人にも余裕がなくてこのような選択になった。
 2回目の卵が入った昭和41年は機構改革で淡水区水産研究所日光支所として再発足した2年後であった。この時も成績は芳しくなく、特に生後1年目までの生残率が著しく低いことが目立った。
 移植1年目の生残率が低いという現象は、後になって日光支所から配付されたドナルドソン系にも共通して見られることになる。
 一方成長比較試験も日光系と殆ど差が見られず、1年でこの試験を中止したほどで、前評判を聞いて期待していた関係者を大いに失望させたものである。
 ただ、当時日光支所では養殖魚による種苗生産を目標に天然親魚の卵によるイワナ、ヒメマス、サクラマスを飼育していたが、いずれも初代の魚についてはドナルドソン系の場合と同じように生後1年目までの生残率が著しく低いことが観察されていた。
 また、試験方法にも問題がありそうだった。
 特に気になったのは、ドナルドソン系の場合、給餌が終わってもなお餌を求めて群がり続ける行動を見せていたことであった。給餌量はライトリッツの給餌率表によって計算して与えていたが、日光系には十分な量であってもドナルドソン系には足りないような感じだった。もしドナルドソン系が多くの餌を摂餌するために成長が速いのであれば、同一給餌量を与える従来の実験方法試験では成長に差が出なくて当然なので、別の方法で比較する必要があった。
 そしてその後の飼育実験で、ドナルドソン系のニジマスは食欲旺盛で摂餌量が多いために成長が速いこと、特に成熟に達した親魚で顕著に見られることが明らかになったのである。
 ドナルドソン系に見られる外観上の特徴はその体色である。普通のニジマスは体側に虹のように鮮やかな赤色の帯が見られるが、ドナルドソン系のニジマスは全体に銀色が濃くニジマスの特徴といえる赤色の帯は殆ど見えないほどである。
 日光支所で最も大型の記録は体重15キログラムの生後7年目の個体である。産卵数の記録は体重7キログラムの生後6年目の個体による21,000粒が最多記録である。
 ドナルドソン教授から送られてきた卵の梱包を解いた時に、直ぐに気付いたことは卵の大きさにかなり大小のばらつきが見られたことである。これは産卵年齢に達した親魚でも観察されて、同年齢にもかかわらず小型の卵を産卵する個体と大型の卵を持つ個体が見られた。このことをドナルドソン教授に伺ったところ、選抜の基準は第一に大型であること、第二に体高の高いことで、卵数や卵の大きさについては選抜の対象にしていないので当然いろいろなものが混ざっているという話であった。
 日光支所では卵の大きさで大型卵と小型卵に分けて選抜したが、小型卵の場合産卵数が著しく多いことから多産系と名づけた。21,000粒の最多記録の個体は多産系の魚である。
 日光支所ではドナルドソン系の成長の良い個体を残しながら、選抜によって、多産系、大型卵系、年2回産卵系を分離した。
 日光支所で選抜したドナルドソン系の卵は昭和46年から昭和57年までの間に北は北海道から南は広島県までの14都道府県の水産試験場に合わせて46回合計60万粒が配付された。
 このように広い範囲で飼育されたにもかかわらずドナルドソン系が優秀な成績だったと報告が届いたのは僅か2例だけだった。成功したこの2例の場合も軌道に乗るまでに数年を要した。このことからも、それぞれの配付先の成績が日光に移植された当時と同じように良くなかったかあるいは悪くなくても思ったほどでなかったことが推測された。
 しかし、ここで重要なのは、日光支所に移植した当時のドナルドソン系も初代の生残率が著しく低かったことや、天然親魚の卵によるイワナ、ヒメマス、サクラマスの養殖の場合でも、初代の生残率が著しく低かったことである。
 このことはパンダやトキの例を見ても明らかなように新しい飼育環境のもとでは難しくて当たり前だということである。ここで生残るという関門を越えることが不可欠の条件なのである。
 新しい環境の淘汰で生き残った親魚から得られた子こそその環境の中で優れた形質を発現する系統の出発点なのである。
 日光支所から配付されたドナルドソン系の大半がこの第一関門の成績が悪かったために、その時点で期待されたほどでないと判定されたのである。
 このような中にあって「ドナルドソン系はやっぱり優秀だった」と成功してドナルドソン博士を喜ばせたのが北海道と山梨県の養殖業者であった。日光支所では水産試験場から試験用として依頼があった場合には、従来からいろいろな魚種の卵を無償で配付していたが、46回に亘って配付された60万粒のドナルドソン系も配布先は全て水産試験場である。
 種苗生産を業務としていた日光養魚場と違って日光支所は卵を販売することは出来ないし、試験研究機関でない民間の養殖業者には無償配付は出来ないのである。
 従って、ドナルドソン系を導入したくても養殖業者にとってはそれを入手する方法がなかった。
 一方、水産試験場側としてはドナルドソン系の導入は最終的には普及が目的であることから、早い段階から養殖業者と共同試験や委託試験を行ったところもあったのである。
 それが北海道立水産孵化場と東京都水産試験場奥多摩分場である。北海道の委託先の場合、当初は全滅に近いほどひどい成績だったが、二度と入手できないかも知れないと僅かに生き残ったものを大事に育て続けた結果、北海道のドナルドソン系を育てることに成功したのである。そして昭和61年には財団法人北海道青少年科学文化財団から地域の科学・文化の振興に貢献したという理由で表彰されたのである。
 東京都から委託を受けた養殖業者もいろいろ苦労しながら、結果的には山梨県にあった養殖池を使用して成功しドナルドソンの名を広めた。
 壊滅的な打撃を受けながらもあきらめずに努力して成功したのが、何れも共同試験に協力した民間の養殖業者であったことは極めて興味深い。
 水産庁が受け入れたドナルドソン系の卵はこの2例だけであるが、教授の話によると水産庁以外のルートで相当数の卵が日本に入っているということであった。しかし、記録が残されているのは水産庁経由の2例だけでそれ以外は数量も移植後の経過も全く不明であるという。







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