日本財団 図書館

共通ヘッダを読みとばす


Top > 芸術 > 諸芸.娯楽 > 成果物情報

海の総合学習テキスト

 事業名 帆船から学ぶ海と日本
 団体名 大阪港振興協会 注目度注目度5


第2章
北前船の寄港地
積み荷を満載した北前船
(北前船主の館・右近家所蔵)
福井県河野村の船主・右近権左衛門の「八幡丸」、船名録の登簿石数では1357石になっているが、2000石(300t)を越える大船である。明治30年代の写真であろう
 
[寄港地(1)]北海道・ニシン―1
(拡大画面:335KB)
 
●ニシン・肥料になって全国へ
 北海道から東北地方の海産物といえば、長崎俵物(たわらもの)(イリコ・干しアワビ・フカヒレ・コンブ)が有名である。江戸時代の中国向け海外輸出品であった。後期にはニシン(鰊)も重要な資源として注目される。ニシンは農作物の強力な肥料として国内で飛ぶように売れたからである。とくに瀬戸内海沿岸では、燈火(とうか)用油の菜種(なたね)、木綿(もめん)になる綿花(めんか)、染料になる藍(あい)などの商品作物の需要が急増し、速効性のある金肥(きんぴ)(お金で購入する肥料)が不足し、これをニシンが助けたのである。ニシンの大群が押し寄せる北海道の西岸では、つぎつぎに新たなニシン漁場が新設され、明治の最盛期には、周長90kmの積丹(しゃこたん)半島がニシンを捕る450カ統(とう)の定置網で埋めつくされるほど漁獲高は多かった。
 
●春ニシン
 毎年3月から5月頃、北海道西岸の浅瀬に寄せて産卵するニシンを春ニシンという。稚魚は北の海を回遊し、3年目から北海道西岸域に戻り、以後毎年産卵を繰り返す。寿命は7年ほど、5年魚で約5万粒も産卵する。春ニシンは脂肪に富んでいる。この資源を肥料に食料にと日本人は大いに利用してきた。
 
●ニシンの消滅
 巨大な群で浅瀬に寄せていた春ニシンは、昭和33年(1958)頃を境に北海道西岸より姿を消す。同時に数ノ子、身欠(みがき)ニシンが食卓から、肥料としてのニシン粕(かす)が農家から姿を消した。消滅の理由に定説はなく、海洋環境や生態の変化も考えられるが、春ニシンの回遊領域と成長サイクルを乱獲で破壊したという見方も有力である。
 
●北海道・海の役割
 北海道の漁場には、全国から多数の出稼ぎ者と多岐にわたる生活用品と資材が送り込まれていた。北海道からは魚肥を全国の農家へ、海産物を食卓へと送り、国内で相互に支えあい、日本近海のもつ役割は大きかった。ところが高度成長期(昭和30年代〜)以降、生産体制が大きく姿を変え、北海道の海は生産の拠点から離れはじめていった。
 
Herrings Commonly Used as Fertilizer
Since the end of the 17th century marine products of Hokkaido had been the dominant goods for export and in the 19th century, the herrings that surged against the west coast drew people's attention as material for fertilizer, the domestic supply of which was running short at that time. The fertilizer made of herrings sold very well as it was good for rapes, cottons and Japanese indigo plants.
 
[寄港地(1)]北海道・ニシン―2
 
●漁場は肥料の生産工場
 北海道のニシン漁の基地は番屋(ばんや)と呼ぶ大きな建物で、これは親方と漁夫たちの宿舎である。ニシン漁場の多くは、周囲に人家のないところに新設されることになるため、網場と港、宿舎と加工工場など、生産と生活に必要な施設が全てそろえて造られていた。ここで働く人を“やん衆”といい、毎年漁期に東北・北陸などから募集し作業をしていた。
 番屋の前の浜と背後の丘が加工工場で、ほとんどのニシンを製品に加工してから出荷していた。大きな魚は干して食品としたが、他は全て油をしぼり、その残りをニシン粕(かす)(農業用肥料)にした。当時は干鰯(ほしか)(イワシ)が金肥の代表であったが、イワシより効果があるといわれ人気商品になった。明治30年(1897)には、1年で約330万俵(ひょう)(30万t)ものニシン粕が北海道から全国に出荷されたのである。
(拡大画面:226KB)
 
流れ作業で製品に
(拡大画面:70KB)
図は明治末ごろのニシン漁場の全景で、積丹半島の西部、泊村の田中漁場である。創業者・田中福松は天保8年(1837)青森の生まれで、17歳のとき北海道に渡り、廻船問屋の手伝いから身をおこし泊村の漁場を買い入れた
 
●加工法の選択
 加工法は、まずニシンの大きさや質により選ばれ、新鮮で大きいものは食用に回される。ただし市場価格のよい製品が最優先で、幕末から明治にかけては肥料用の粕が大量に求められた。
 
●海が支えた商品作物
 ニシン製品を取り仕切っていたのは、全国に組織網をもつ大阪肥料問屋が中心であった。魚肥はおもに商品作物に使われ、徳島では藍、愛知や山口あたりでは綿花、養蚕農家では桑畑に使っていた。いずれも商品作物で地域の重要な輸出品であった。
 
Herring Processing Factory
 The base for herring fishery was called ban'ya. It was a lodging house for both the manager and the workers. Herrings were shipped after being processed in the factories built at the beach in front of ban'ya or the hill behind it. Fertilizer was the main product. As much as 300,000 tons of fertilizer was processed in Hokkaido and shipped throughout Japan in 1897.







サイトに関するご意見・ご質問・お問合せ   サイトマップ   個人情報保護

日本財団会長笹川陽平ブログはこちら



ランキング
注目度とは?
成果物アクセスランキング
165位
(30,551成果物中)

成果物アクセス数
73,559

集計期間:成果物公開〜現在
更新日: 2019年3月23日

関連する他の成果物

1.参加者募集案内
2.セイル・トレーニング報告書
3.第4回日本太鼓全国障害者大会 報告書
  [ 同じカテゴリの成果物 ]


アンケートにご協力
御願いします

この成果物は
お役に立ちましたか?


とても役に立った
まあまあ
普通
いまいち
全く役に立たなかった


この成果物をどのような
目的でご覧になりましたか?


レポート等の作成の
参考資料として
研究の一助として
関係者として参照した
興味があったので
間違って辿り着いただけ


ご意見・ご感想

ここで入力されたご質問・資料請求には、ご回答できません。






その他・お問い合わせ
ご質問は こちら から