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落語の現場では・・・
KY氏:僕はとても不思議に思っていることがあるんです。新聞にしてもテレビにしても言葉は規制されているのに、人殺しの場面やエロティックな描写など、ちょっと日常では信じられないような過激な内容は規制されていないことです。
 アメリカや中国では、決してそういったものは一般の家庭には流れないようになっていると感じました。アメリカはあんなにひどいものをたくさん日本に送りつけているのに、自分の家庭で見ているのは実にまじめですよ。プロレスを見るのにも、子供は一生懸命にお父さんに頼み込んでちょっとだけ見せてもらう。あとはホームドラマだけ。そういうことはすごく普及しているんですね、アメリカでは。
 中国も、ちょっとした肌を見せるのも大変です。三国志とかそういうものでは、人殺しもありますけども、それはリアルなものではなくて、かつての歌舞伎に見られるような、形で殺してゆくというようなことです。
 最近の日本の映画やテレビに見られるようなものは、視聴率は稼げると思います。でも、僕らは、子供にはそういう漫画も見せられないですよ。怖い番組を見たときに、小さい子が引き付けを起こしてしまったことがありましたから。怖いもの見たさはありますので、そういうものを見たがるんですが、実際にいい影響があるんだろうかと思います。人殺しの場面というのは、子供にいい影響を与えないと思うんです。しかし、そういうことに関して、小説やテレビにしても、規制しているとはとても思えないんです。そこのところだけちょっと論点ということで。
 今の落語は滑稽話ばかりが主と思われていますが、実際には江戸時代から400年近く続いてきた中で、頂点であり基本になっているのは、本当にいるようなリアリズムをポイントにした人情噺です。
 滑稽噺の場合にはナンセンスですが、「めくら」「つんぼ」「びっこ」、そして何よりも「与太郎」は、滑稽噺の中でも主役級として出てきます。
 その中には、眼の不自由な親をいたわっている息子の涙ぐましいような姿など、登場人物のすばらしさがあります。
 人からバカにされる、眼の不自由な方、耳の聞こえない方、びっこの方、そして何よりもチエ遅れの方を一生懸命守る市民の人たちがたくさん出てきます。そして、差別する人たちに、「お前たちはなんだ」という人たちが数多く出てきます。
 しかし、今は、そういう人を登場人物としてもなくしていくような傾向にあります。ですから、この資料にあります「かぼちゃや」「金明竹」「牛ほめ」での「バカ」、「抜けた野郎」という言葉は、放送にされる場合には、できる限り省いています。滑稽噺はそうやってある程度、言葉を切ることが可能です。ただ、それをしないで普通どおりにあったままをやってくれるように弟弟子にいったのが、この三つの作品です。
 ところが、「心眼」は人情噺です。これは円朝という神様が明治の初めにお創りになった人情噺の代表作なんですが、この中に「どめくら」という言葉があります。師匠の円楽からこの噺の稽古をつけてもらったときに、これは大きな会場ではやらないようにと言われました。ましてや、マスコミの方が来ている時には絶対やらないように、という注釈をつけられました。
 そういったことからいくつかの問題点がありますが、とりあえず二つだけ申します。つまり、この「どめくら」という言葉は変えられない。一生懸命、変換を試みました。「甲斐性なし」とか「どうしようもないやつ」とかですね。でもそのくらいでは、命をかけてまで信心をしようと思わない。実の弟に「どめくら」と言われたがために自殺を考えたけれども、愛する奥さんのために・・・。結果的には最後の下げは「俺は目が開かなくてもかまわねえ、いやあ、めくらというのは不思議なものだ、寝ているとよおく見える」と。
 この言葉はここだけ取ったら分かりませんが、夫婦の愛情はいかにすばらしいものか、大切なものかということがよく分かる、よく見える。「寝ているときほどよおく見える」ということを、お客様も見ようとしていらっしゃるんですね。
 それが、見えるに掛けてあるわけです。「めくらっていうのは不思議なもんだ、寝ているときだけよおく見える」と。この「見える」というのは、人間とは斯くあるべきかというところがよく分かるものだということなんです。
 自分の独演会をやったときに、何人もの方からあの「どめくら」はやめなさいといわれました。大学の先生・小学校の先生、普通の主婦の方にも楽屋に来て言われました。そこで、「どめくら」を封じられてしまいましたので、「甲斐性なし」だのなんだのとやるんですが、それは自分でやっていていやになってしまうんです。
 そこで僕は、福祉落語として「目の不自由な方」、「知的障害のある方」という言葉を使って「心眼」のようなものを作りたいということで、その話をさせていただいています。
 これは落語家の代表として言わしていいことだと思うんですが。「めくら」「びっこ」「与太郎」という障害をお持ちの方々の言葉だけでなく、今、噺家は「田舎者」「おいらん」「こじき」、こういった人たちの言葉も全部なくさなくてはいけないというような危機感を持っているんです。全員とは言いません。しかし、心ある人情噺を志す人は、これでとても困っています。
 くるわ噺ですとか、芝居噺、音曲噺そういった昔ながら古典落語、あるいはその中でも、ナンセンスの前座噺ですと言葉を変えることはいくらでもできるんです。しかし、ある程度テーマのある噺になりますと、とても難しくなります。人からバカにされている「田舎者」、いわゆる「ごんすけ」という人たちの出てくる噺の主題は、田舎の人はとってもいい人だというものです。「高貴朴訥にして仁に近し」。いやあ、田舎の人というのは本当に正直な人だというのが、常に根底にあります。こういう主題の噺はたくさんあります。「おいらん」にしても「こじき」にしても、必ずしも悪く描いていないんです。
 やはりここでお聞きしたいのは、会話のものをみんなに伝えようとした場合に、どういうふうな記述にしたらいいかということを、やはりある程度の知識人の方々が考えていただきたいと思うんです。つまり、日常生活の言葉と学校で先生の前でしゃべる言葉と、それから友達としゃべる言葉はおのずから違っているはずなんです。それらすべてを網羅しているのが落語です。もしくは演劇や映画等全部そうだと思うんです。そういったものを記述する場合にどうしたらいいんだろうか。その辺の表し方の規定がないと、落語だけでなく古典というものは何もかもなくなってしまうと思っています。
 そういった表記の仕方のシステムというものについて、テレビ、ラジオや新聞それぞれの違いの中でそういう問題が話し合われる必要があるのではないかと思います。たとえば、この中にはこういう記述がありますがどうぞご勘弁ください、という表示をすれば大丈夫とか。こういうふうに変えたらいいとか、こういう時間帯ならいいとか。落語にしましても、くるわ噺ならこの時間帯ならしてもいいとか、この番組ではだめとか。小説の中ではやってもいいけど、ここはだめとか。一面はだめだけど三面は大丈夫とか。
 そういうことで、何とか私たちを助けていただきたい。つまり、仕事ですので、お客さんに、テレビの方々に撮り直しだよと言われてしまえば、僕たちは受身ですからそうするしかないんですね。アンケートで、先生方にこれは抜いたほうがいいと言われれば、お金に頼っているわけですから、抜くしかなくなってしまうわけです。
進行:今日の主題といいますか、座談を深めていこうというところまで、いくらかみなさん少しずつ踏み込んでお話していただきました。ここまでは、演者、マスコミの方がどう考えておられるかということで、自己紹介を兼ねてお話ししていただきました。
 これからは当事者及び障害者の偏見差別等々について日頃顕著な活動をし、一方で悩んでおられる二団体のお二方が見えておられます。
 それでは、どちらから行きましょうかね。YGさん一つお願いできますか。
 
視覚障害者として・・・
YG氏:YGと申します。この資料にもありますように、視覚障害者のスキーサークルで「シーハイル」というところに所属していまして、ガイドボランティア捻出のために、三遊亭円窓師匠のご協力の下に十何年落語をやらしていただいております。ただこの資料で違うのは、「心眼」は演じた経験は残念ながらございません。聞いたことはあります。「金明竹」はやったことがあります。「心眼」の場合は聞いただけなんですが、確かに「どめくら」とか出てきますね。でも最後まで聞くと、別にバカにされている感じは受けないんですね。むしろ、僕が思うのは、先ほどから何度も出ております言葉尻を捉えて差別だというふうに言う人が、残念ながら僕ら視覚障害者の中にも多いんです。僕ら視覚障害者の団体の上のほうの方は、結構こういうことをいう方が多いんですね。まあ、それだけじゃないと思うんですが。そういうことで、だんだん古典落語をやりづらくしていっているのは、僕らの中にもあると思います。
 ただ、何にも考えなくって、落語を聞けばいいんじゃないかなというのが感想です。また後で意見が出れば、言いたいと思います。
進行:ありがとうございました。それでは続いてOOさんお願いします。
 
OO氏:同じスキーサークルに所属しておりますOOと申します。
 私は落語を演じるような実力もございませんので、一聴衆者の立場で、あと当事者の立場で参加させていただいている次第です。
 落語で差別用語がたくさん使われているが故に制限されている、たとえばNHKの学校の中でもそういうものができなくなっているということは、一応小耳には挟んでおりました。実際問題、そういうお話を伺うのは私も初めてです。私が個人的にそういう落語を聞く、あるいはまたそういう言葉を一つの文化として受け入れるかどうかと聞かれた場合、多分僕は素直に受け入れられるんだろうと思いますし、先ほどからお話を伺っても、そういう諸題ができなくなってしまうのは残念だとは思っております。
 ただ、一つだけ迷うところがあります。世田谷のほうで障害者プロレスというイベントをやっている団体があるんです。過激な内容でして、障害者同士、下肢に障害がある方が中心だったと思うんです。かなり面白いんで、僕らも大学祭のときに、その団体をお呼びしてやったんですが、やはり大学の中で大議論になりました。僕たちは面白いと思ったんです。大学に通う障害者もいますし、そういう方々の頭の中のキャパシティもございますから、そんなに問題にもならないだろうし、一つのイベントとして、エンターテーメントとして見てもらえるだろうと思って、若干見切り発車的にやってしまったことがあるんです。
 そのとき大議論になって言われたことが、不快に思う人がいるんだということですね。先ほどBさんがおっしゃったことと条件が似通っているんですけども、不快な人がいるのをどう考えるのか、というふうに突きつけられます。マスコミ各社としては、特に報道する立場としては絶対突きつけられて、小数でもそういう意見があったら話し合わなければならないでしょうし、考えていかなければいけない質のものだと思うんですね。
 だからといって、それを全くやらない。といって伏せてしまうのは、私は当事者の立場としても残念だと思うんです。結論は出ないとは思うんですけども、それも一つの文化・芸術だし、エンターテーメントなんですよと、折り合いをつけてゆく作業が一番されていないからこそ、そういう事態になってしまっていると感じております。
 こういう会合を開くのも一つの切り口でしょうけれども。問題にしないようにやるよりも、公開して問題になっていく方がより積極的なのかなあ、くらいにしか感じていないんですけれども。
進行:それでは、もう一人。KR会長のほうから、会としてというよりも当事者としての立場で発言をしていただければと思います。
 
知的障害者の親の立場から・・・
KR氏:ある親から話がありまして、足の不自由な車椅子の子が、今度、養護学校に行くことになったからいって見て下さいと。行って見たら、エレベーターがない。それで、エレベーターがなくても、6年生がちょっとおぶればいいじゃないかと。夜中に行くわけじゃなくて、みんな大勢いるときに車椅子で行くんですから、みなさんで運べばいいんですから。そういうことがやっぱり日常当然に行われなくっちゃならないと思っております。
 知的障害者相談員をやっておりますが、有りのままを見せていくということを、日常心がけていかなくちゃいけないと思っております。障害者自身も、もっとオープンにしていく。特に精神障害者の場合には外見からは分かりませんから、家族の方々にですね、「心身症」だとか「分裂病」といわなくても、いろいろいい言葉が、ありますからね。そういうオープンにしていくと、私は気持ちが半分楽になると思う。
 精神障害者の方々は、せっかく手帳が出来てももらわないということがありますが、そういう手帳があって、自分がオープンにして初めて社会が受け入れてくれるんではないでしょうか。こういうふうに思っております。
進行:それでは、今度はちょっと厳しいお話になろうかと思います。事件等々で、偏見・差別に基づく報道がありました。そのマスコミの方々と精神障害者にかかわる問題について話し合いをしたいと、そこまで考えられたこともあったかと思いますが、全家連のOKさんにこの問題についてお話をしていただければと思います。







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