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自分自身と向き合う −セルフケアのすすめ−
自然と人間
 私たちの日常生活の最大の関心事といえば、日々の天候のことではないでしょうか。あいさつでは、必ず天気のことに触れます。「今日は暑いですねぇ」とか「今日は蒸し蒸ししますねえ」とか「よく降りますねぇ」といった具合に、その日の天気を話題にします。
 手紙でも、「前略」は別として、たいてい相手の元気をうかがう前に天候のことをうかがいます。「暑さも寒さも彼岸までといいますが・・・」とか「残暑厳しい折から・・・」といって時候のあいさつを前置きにし、相手に気配りしてから、本題に入ります。
 日記でも・毎日の天候を記する習慣があります。「7月7日 七夕 晴れ」というように、必ずその日の天気を書き残します。これは日本人特有らしいのです。文芸評論家の紀田順一郎さんは、『日記の虚実』(ちくま文庫)のなかで、この習慣を、激しい感情も、強烈な意志も、俳詣的な自然のリズムヘとかし込み、詠嘆する日本人の特性とみています。
 時代が変わり、価値観が多様化したといっても、私たちの人生は天気と切っても切れない関係にあるのかもしれません。それは、日本人が「自然と人間」のつながりを重くみているからではないでしょうか。
 
手入れの思想
 こうした「自然と人間」の深いつながりから、私たちの祖先は、「手入れ」という自然との「折り合い」の思想をつくり上げました。つまり、自然を相手にするには、たえず「手入れ」しなければならないと考えてきたのです。
 解剖学者の養老孟司さんは、『人間科学』(筑摩書房)のなかで、自然と人工の境界にある「田んぼ里山」を成立させてきた日本人の思考を例にひき、「手入れとは、自然のものに手を入れて、できる限り自分の都合のよい方に導こうとする作業である」と「手入れ」の思想を解説しています。そして、その「手入れ」には「まず対象である自然の存在と自律性を認め、それを許容しなければならない」とのべています。
 人工の世界で生きている私たちは、ともすれば忘れがちになるのですが、人間とは自然に属するものなのです。したがって、人間が人間という自然に対してできることは、手入れにほかなりません。たゆまざる手入れによって、人間は人間であり続けるのです。
 今日まで日本社会では、身体のケア、仕事、子育てなどか「手入れ」という原則で行われてきました。しかし近年の都市化によって、それらが破壊され、私たち自身の生き死にの指針を問い直さなければならなくなりました。
 
ケアは生の豊かな営み
 この「手入れ」をケアとよべるのではないでしょうか。このほかにケアは「関わり」とか「世話」とか「手当て」とか訳されていますが、実は日本語でうまく言い表すことができません。
 それは、ケアは言葉で表現することのできない内実を含んでいるからです。つまり、言葉による表現をこえてしまうほど、豊かな生の営みがあるからです。
 私たちは日常、自分自身の生を生きている一方、他者と関わることで生きています。また、自分自身をケアし、他者によってケアされる日々を送っています。
 それはまた、おたがいに少しでも幸福になろうとする実践といえるでしょう。
 しかし現実には「なぜ私たちは誰かのことをケアするのか」という、このシンプルな問いを前にして、私たちは苦悶しながらケアの実践をしています。はっきりしていることは、苦しんでいる人や困っている人を目の前にして自分の体が自然に動いてしまうことです。
 その人のことが気になると、どうしても体が動いてしまう、心配で仕方がなくなってしまう、というのは、その人の苦痛の声に耳を傾け、知らず知らずのうちに、自らの魂をふるわせているからではないでしょうか。
 
共感共苦の感情
 近代の思想家、ジャン=ジャック・ルソーは、人間の魂のはたらきについて次のように省察しています。一つは「自己愛」というものです。もう一つは「ピチェ」というものです。この「自己愛」は、「自尊心」とはまったく対立する異質のものだと考えています。
 この「ピチェ」というフランス語は、日本語で「憐れみの情」と訳されていますが、英語では「コンパッション」と訳されています。すなわち、「他者と一緒に苦しむ」「苦悩を共有する」という共感共苦を意味します。
 ルソーは「自己愛」と「ピチェ」こそ、理性に先立つ人類最初の感情であると見なしています。それらは人間のなかに別々にあるのではなく、相互に補完しあう関係であると考えています。
 この「ピチェ」という自然感情が、各個人における「自己愛」の活動を調節し、人類という種全体の相互保存に協力するとのべています。そして、他人が苦しんでいるのを見て、私たちが何のためらいもなく、助けにいくのはこの「ピチェ」のためであるとものべています。
 ルソーは「他人にしてもらいたいと思うように他人にせよ」というかわりに、「他人の不幸をできるだけ少なくして汝の幸福を築け」と説いています。
 「汝の幸福」、すなわち、人間が人間である、あるいは人間が人間になることは、他人の“不幸”をできるだけ少なくする行為のなかでしかない、と考えていたのです。







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