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自然と文化 72号

 事業名 観光資源の調査及び保護思想の普及高揚
 団体名 日本ナショナルトラスト  


和蝋燭の歴史・・・山崎ます美
一、輸入品としての蝋燭
 細い藺草から髄を抜き出し、それをグルグルと巻いたものの上から、木蝋と呼ばれる漆や櫨の実から採取したロウを掛け、塗り固めたものが和蝋燭といわれているロウソクである。スーパーで売られている木綿芯にパラフィンロウで作られたものとは、形も燃え方も違う。近年、和蝋燭が取り上げられる機会が増え、テレビドラマでも和蝋燭職人の家を舞台にするなど、その存在は再び広く知られるようになって来た。
 日本で「ロウソク」が使われるようになるのは、仏教伝来とともにはじまるといわれている。折しも、第五四回を迎えた平成一四年秋におこなわれた奈良国立博物館の「正倉院展」には、ロウソクの芯きりに使われた「白銅剪子」が出品されていた。先端の鋏の部分が片方ずつ半円形を成し、合わせると円形になる。さらにその縁には金輪が取り付けられている。奈良国立博物館で発行している図録の解説によれば、長い間これが何に使われていたものかわからなかったという。韓国の慶州市雁鴨池の発掘調査で、これと同形のものが出土し、ようやくその正体が判明した。鋏の部分の円形や金輪は、燃えているロウソクの芯を切るときに取り除いた残骸(燃え残り)を落とさないように配慮したものであった。正倉院宝物の起源は、天平勝宝八年(七五六)に崩御された天武天皇の遺品を、光明皇后が東大寺盧舎那佛(大仏)に献納したのが始まりとされている。当時の宮廷内には、どのようなロウソクが灯されていたのであろうか。
 同じ頃の記録に、現在国の重要文化財に指定されている「大安寺伽藍縁起並流記資財帳」がある。これは聖徳太子ゆかりの寺としても知られる奈良大安寺に伝わる記録で、そこには養老六年(七二二)に天正天皇から賜った品目が記され、その中に「蝋燭」という記述が見ることができる。また、承平四年(九三四)に作られた我が国初の漢和辞書である『和名類聚抄』(以下『和名抄』)にも「蝋燭」の項目があり、「唐式云」という解説が加えられている。奈良から平安時代初期にかけての日本では、すでに「蝋燭」が使われていたことは、このような史料からうかがうことができるが、「蝋燭」という文字が物語るように、これらのロウソクは大陸からもたらされたものであり、唐代や新羅などとの交流からその道は繋がっていたのであろう。この頃のロウソクは、蜜蜂の巣から採取する蜜蝋を使ったものであったといわれている。
 わずかな輸入品を、特権階級の人たちのみが使っていた時代から、ロウソクが国産化されるようになるのには、まだしばらくの時間が必要であった。
 
白銅剪子(正倉院蔵)
 
二、和蝋燭の原形
 江戸中期の国学者菊岡沾涼は、享保一九年(一七三四)に著した『本朝世事談奇』の中で、日本には文禄年中(一五九二−九五)まで蝋燭がなかったとし、助左衛門なるものが献ぜられているものを倣て製したと書いている。「蝋燭がない」といっても、「献ぜられたもの」は輸入品の蝋燭を差し、おそらく国産のものがなく広く使われていなかったことを示していると思われる。では、これを頼りにこの頃の文献を見てみよう。
 承平四年の『和名抄』よりしばらくの間、「蝋燭」の記述は見当たらず、室町時代ころから散見するようになる。元弘元年(一三三一)に後醍醐天皇が光巌院に剣璽を譲ったことを記した「剣璽渡御記」や、南北朝時代の軍記物として知られる『太平記』に、蝋燭を灯したあかりが使われている様子が描かれている。また、永正六年(一五〇六)の『大内問答』や同じく八年(一五一一)に伊豆守利綱が記した兵法書『家中竹馬記』、享禄元年(一五二八)に有職家伊勢貞頼が著した『宗五大草紙』には、能楽の舞台における蝋燭の芯の取り方についてなどの作法が書かれており、幽玄な能の舞台に、蝋燭のあかりが用いられていた。
 
燭台 芯きりとほくそ入れの備わったもの
 
 
『慕帰絵詞』にみられる院主の前に立つ和蝋燭
 
 この頃のロウソクの形を、西本願寺に伝わる『慕帰絵詞』に見ることができる。本願寺第三世覚如の伝記を描いたもので、観応二年(一三五一)の没後しばらくの間に作られたといわれている。絵巻には、院主と稚児が対面する場面に、火が灯された朱色の蝋燭が描かれている。その形を見ると現在も見られる和蝋燭とほぼ同じ形をしており、和蝋燭の原形をこの頃に見ることができる。
 このように蝋燭が次第に武士や公家、寺院などでも使われるようになってきたことがうかがえるが、それが和製であるかどうかについては未だ記されたものは見当たらない。室町時代末に奈良の商人であった林宗二が書いた辞書『饅頭屋本節用集』には、蝋燭が財宝の項目に分類されている。このことからも、未だ市井の人々には手の届かない稀少なものであったことは確かである。
 時代は戦国から、安土桃山に移り変わろうとする頃、ようやく国産であろう記述が見えはじめる。永禄一〇年(一五六七)、武田信玄の六女松姫と織田信長の嫡男奇妙丸との婚約にさいし、武田家から織田家に送られた品に、漆三千桶、熊の皮千枚、馬一一匹とともに「越後有明の蝋燭三千張」があったことが、『甲陽軍鑑』に記されている。越後には江戸時代から近年まで多くの蝋燭屋があったことからも、信玄の進上した蝋燭は、越後産の和蝋燭であったのであろう。和蝋燭の始まりは、文禄以前にさかのぼり、五百年以上の歴史があることは想像に難くないと考えられる。
 これ以降、蝋燭の産地を示した記述が多く見られるようになる。江戸時代初期の俳書である松江重頼の『毛吹草』には、越後とともに「山城」「陸奥」のそれぞれの国が蝋燭で有名な地としてあげている。ほかにも黒川道祐の『雍州府志』には、越後のものが上で「蝋色潔白にして燭光明るく」と評し、次いで陸奥会津と越前福井をあげている。一方会津を絶賛しているのが、元禄三年(一六九〇)刊の『人倫訓蒙図彙』や、享保四年(一七一九)に佐久間洞巌によって著された『奥羽観蹟老志』などである。佐久間の『奥羽観蹟老志』は、仙台藩伊達綱村の命により藩の地誌をまとめたものであり、「絶品」や「他邦に冠する」など、その評し方には手前味噌の感はあるが、越後や会津が優れた漆蝋の産地であったことは今も語り継がれており、良質の蝋燭が作られていたことは確かであろう。
 
『人間万事愛婦美八卦意 辛 蝋燭の夜の雨』一勇斎國芳
芯きりをしているようす







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更新日: 2019年2月16日

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