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三、魚獣油を固めた蝋燭
 越後の蝋燭が上手と評した黒川道祐は、貞享元年(一六八四)に著したその著書『雍州府志』の中で、蝋燭についてかなり細かく記している。概略は次のようである。蝋燭の蝋は漆樹より採ったもので、その製法は灯心に練った蝋を懸けて作る。これを「木蝋」または「生蝋」といって、我が国では何も交じらないもののことを「木」または「生」という。また、蝋燭造りを「懸ける」というのは、俗に水や油を灌ぐことを「懸ける」ということからである。蝋燭の大きさや数量の単位は、「幾拾銭目懸」、「幾挺」といい、その大きさは弐拾銭目懸から五百銭目まである。兼葭(葦の一種)を芯としたものや、牛蝋を加えたものなどは粗悪であり、少し臭気があり火を灯すと蝋が流れるように出てすぐに塵になってしまう、などとある。このように日本のロウソクが蜜蝋ではなく漆の実から採ったロウを使ったものであり、そのような蝋燭が良き品と評している。一方悪い品として並べられたものが「牛蝋(牛油)」であり、このような動物脂も使われていた。
 寛政七年(一七九五)に津村淙庵が書いた随筆『譚海』には、江戸で使う蝋燭のうち三分の二は大阪からの下りもので、三分の一が江戸で作ったものであったとし、江戸のものは漆の実から製した蝋を使ったもので安いものではなく、下り蝋燭は全部生蝋ではなく魚油獣油を固めたもので作ってあると記している。全部が魚獣油でなくとも、『人倫訓蒙図彙』にあるように、下に牛蝋を懸け上に本蝋を懸けるなどして、上手く良品の生蝋を節約していたこともある。また、「薩摩蝋燭」と呼ばれる魚油を使った蝋燭が販売されていたことが、一八○○年代に書かれた佐藤信淵の『経済要録』や斎藤月琴の『武江年表』に見ることができる。
 蝋の材料としてはこのほかに、人見必大の『本朝食鑑』や先に紹介した菊岡沾涼の『本朝世事談奇』には、イボタ蝋から作ることも紹介している。
 
「誠忠義士傳 菅谷半之丞正利」豊國
和蝋燭を掛け燭台に立てて歩いているようす
 
 イボタ蝋は、イボタノキ(水蝋樹、女貞木)に住みついて「イボタカイガラムシ」通称「イボタロウムシ」が分泌した蝋質のもののことで、チャイニーズワックスとも呼ばれるように、蜜蝋燭の後に中国で主に使われていた蝋である。日本でも、会津や北陸、信州松本などで蝋燭に用いていたという話が聞かれるが、製法など詳しくはわかっていない。
 
四、漆と櫨
 和蝋燭の主たる材料は、漆や櫨(はぜ)の実から採取した木蝋である。漆は、会津や越後に代表されるように東日本で多く、一方櫨蝋は、九州や四国の伊予など西日本で採取され使われていた。蝋燭作りは、もともと蝋の多く採れるところに始まり、優れた技術とともに多くの職人を輩出していた。江戸時代以降その需要は、大都市江戸や大阪ばかりではなく、各地の城下でも広がり、漆や櫨の実の生産を奨励し専売とする藩も少なくはなかった。各城主にとり、蝋燭は日常の照明用のみならず、城の非常時や献上用としても一度に沢山用立てなければならないこともあり、常に質の良いものを具えておくことも必要であった。城下町には、「御用」を冠する蝋燭職人や蝋燭問屋が店を構えており、お上の急の用向きにも応じていたことであろう。『大日本近世史料』に収録されている「諸問屋再興調」には、寛政五年(一七九三)に、日本橋堀江町より出された、安永年間(一七七二)からの蝋燭屋の数が記録されている。これを見ると蝋燭を商う問屋は、布物や人形、紙、荒物などと一緒に扱っており、これらを合わせて安永期には八五人であったものが、二〇年後には一七一人に増えている。この中には下り蝋燭を専門に扱う店があり、安永期には三〇人、寛政期には六〇人が「下り蝋燭」を商っていた。また、「地懸蝋燭屋」も二八○人と記録されており、産地に限らず、江戸市中においても多くの蝋燭が作られていたことがうかがえる。
 
芝居絵「岩井半四郎」五渡亭國貞
提灯の蝋燭が消え火をもらおうとしているようす
 
五、普及していく蝋燭
 蝋燭の原料となる漆や櫨の生産が奨励され、多くの城下町や門前町でも和蝋燭が作られるようになると、それまで宝物として崇めていた庶民にも、次第に手に届くものとなっていく。江戸時代も半ばには、提灯などの携行用の灯火具も普及し、蝋燭が灯される機会も増えていった。豊な商家での婚礼や儀式、特別な来客、また吉原などではふんだんに用いられ、富や贅沢の象徴としての存在でもあった。一方で、貴重な資源を最後まで大切に使いきるという、当時の堅実な生活ぶりも、蝋燭一つ灯すことにも見ることができる。
 明治一〇年(一八七七)に来日したエドワード・モースは、在日中日本の各地を旅し、そのさいに当時の日本文化を詳細に見聞している。明治一五年(一八八二)七月の日記には、和蝋燭について植物蝋でできていることや、絵が浮彫りになっている珍しい蝋燭(会津蝋燭)のことなど興味深く記している。その中で、和蝋燭の芯が空洞の紙の管でできていることに注目し、短くなった蝋燭の芯の穴に新しい蝋燭の先端を差し込むことで、最後まで使いきることができるという、経済性と合理性に感嘆している。正徳三年(一七一三)に北条団水の著した『日本新永代蔵』には、屋敷の下男が燭台に付いた蝋を捨てようとしているのを見た男がそれをもらい受け、蝋燭屋にそれを売ったという話が書かれている。流れ落ちて燃えることのなかった蝋は、再び蝋燭屋で精製され、新しい蝋燭となって使われるのである。嘉永の頃(一八四八−五三)には、西沢一鳳の『皇都午睡』や喜田川守貞の『守貞漫稿』に見るように、「蝋燭の流れ買い」として専門に集めて廻る仕事もあり、蝋屑を買い取ることは今も行なわれ、蝋燭職人はそれらをまとめて精製し直し下掛けに使うなどして大切に使っている。
 
 私たちの祖先が丹念に作りあげてきた和蝋燭も、明治の文明開化の世とともに、西洋ロウソクという強力なライバルが現われた。さらに石油ランプが登場するなど、その居場所は次第に少なくなっていった。
 燈火として用いられることがほとんどなくなってしまった今日、蝋燭の需要は決して多くはない。しかし、その中においても守り続けてきた職人たちによって遠い祖先たちが見たあかりを、同じように今の私たちは見ることができている。揺れる炎の奥には、その歴史が垣間見えるようである。
 
和蝋燭職人 大西明弘氏(滋賀県高島郡今津町)
櫨蝋を掛け太くしている(平成十二年日本のあかり博物館において実演)
 
・・・<日本のあかり博物館>
 
主な参考文献
柳田國男著『火の昔』実業の日本社 一九四四
宮本馨太郎著『燈火その種類と変遷』 一九六四(朝文社一九九四復刊)
深津正著『燈用植物』法政大学出版局 一九八三







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