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紅大燭と龍燭
 韓国でろうそくがすでに古代より霊妙な意を込めて用いられていたという記録は、まだほかにもある。
 樂浪古墳からは紀元前三世紀頃の青銅の燭台が発掘された。樂浪は古代三国時代の北方地域、つまり高句麗の領土だった。ろうそくそのものこそ発掘されていないが、燭台から推測するにこの時代にろうそくが使われていたこと、そしてろうそくの歴史が遥か昔にまで遡ることがわかる。南部地方では統一新羅の頃の燭台が今日まで残っており、慶州の雁鴨池では灯心を切るろうそく鋏が出土した。これもまた燭台とあわせて、ろうそくが使われていたことの証明となる。ただ、このときのろうそくがどのような類のものであったかは、詳細にはわからない。またそれが一般に広く使われていたとも思えない。
 高麗時代にもろうそくは貴重であったため、多くは松明を使っており、宮中では紅大燭と龍燭が使われていたという記録が残っている。
 一〇五七年(文宗一一年)、契丹からの使臣・王宗亮はその帰路を多くの松明によって見送られた。彼は見送りに来た高麗人・崔尚に、高麗の禮樂は中国と何ら変わるところがない、としながらも、宴会でろうそくが灯されたのはどうかと思う、自分たちは婚姻式でのみ華燭の使用を許し、たとえ深夜であっても接客にろうそくを使うことはない、と語った。崔尚はこれを受けて、燈燭は民衆の膏血であり、賓客は明るい時間帯にもてなすよう建議をしたという。
 しかし高麗末には奢侈の風潮が蔓延し、紅大燭が一般でも用いられた。再三の禁にも、ほとんど効果はなかった。甚だしくは、刻燭といってろうそくの一部に金を刻み入れ、そこまでろうそくが燃える時間を基準に詩を作るという会が流行したりもした。
 朝鮮王朝初期には、紅大燭の代わりに松炬(松の木の松明)が使われもし、水陸祭では油燈を使わせた。煤の多い松炬に代えて布燭が使われることもあった。朝鮮王朝後期の英祖の時代には冠婚葬祭には役所の蜜蝋を使わせることで一切の私的売買を禁じたが、「宰相の家では下働きの部屋でも蜜蝋を灯しながら、それさえ卑しいものと見なされるが、貧乏人は祭祀にもろうそくの代わりに灯火をともす」と囁かれるほどであった。甚だしい貧富の格差を垣間見ることのできる記録であるが、中国との頻繁な交流によって中国産が多く輸入されたこともあり、国の禁にもかかわらず、奢侈を好む貴族たちの間でろうそくが広く用いられていたことがわかる。英祖は宮中行事に輸入染料で彩った華龍燭に代えて紅燭を使うよう命じ、自ら倹約を実践して見せさえした。
 しかし朝鮮王朝末期、すなわち亡国の危機にあった純祖・高宗の時代には、宴会では真っ昼間から燭台一組に華龍燭を挿し、王の威厳を誇示したという。
 
龍燭(国立民俗博物館・ソウル)
撮影−白智舜
 
多種のろうそく
 いうまでもなく朝鮮王朝時代まで、ろうそくは貴重な品であった。もともとごく限られた地域でしか採れなかった蜜蝋が、ほとんど枯渇してしまったことがその原因であった。養蜂法が普及する以前には自然に山中に放置された蜂蜜や白蝋蟲からしか採取できなかったのだから、貴重なのは当然であった。しかしそれゆえに、すばらしい贈り物として脚光を浴びもした。中国に使臣として遣わされた人々が土産として買って来ることもあれば、王が臣下に下す特別な贈り物のひとつに含まれてもいた。
 記録により確認できるろうそくの種類としては、紅大燭、龍燭、黄蜜燭、華燭などがある。
 まず紅大燭は、五本の粗い麻に赤い染料を入れた蜜蝋を塗り、長さが一尺ぐらいになるように切って作ったものだ。高麗の頃より、朝鮮王朝初期まで吉凶時にあまねく用いられた。龍燭は白蝋を朱色の顔料で色付けし、龍を彫刻し華麗に装飾を施したものである。宮中で用いられ、王の下賜品とされたのもこのろうそくであった。龍はすなわち王を象徴する文様だ。黄蜜蝋は白蝋に色付けして、牡丹の模様で飾り、赤い紙で灯心を縒って填めたものである。宮中でも特に儀式の折に使われた。華燭は白蝋を色付けして牡丹を装飾したものだ。
 それ以外に耐点燭、風前燭、聖燭などがあった。これらはたいてい黄蜜を使って作られたが、万里燭という別名のごとく、それ一本で万里を行くことができるというものだった。もちろんこれは誇張された、ご愛敬のネーミングではあるが、通常十日から二十日はもったという。
 このようなろうそくを作る方法は、大きく三つに分かれる。転がし法と浸け置き法、そして鑄燭法がそれである。
 おそらくまず最初に現われた方法は転がし法であろう。蜂蜜を水で煮て不純物を除去した蜜蝋を板の上に置き、心棒で転がして円筒形を作ったのち、心棒を抜いて灯心を打ち込む、これが転がし法だ。特別な道具もいらず簡単に考案して作ることのできる方法だ。しかし、このようなやり方ではその形は単純で、規格も一定でなく、大量に生産するのにも困難であったと思われる。
 浸け置き法にも同様の欠点があった。この方法は、溶解した原料に灯心を浸けておいては引き抜き、冷ましてはまた浸けるという動作を繰り返して、だんだんに太くしていくというものだ。
 このような欠点を克服して、最も精巧な製品を作るために登場したのが鑄燭法である。朝鮮王朝後期に至ってはじめて現われるこの方法は、蜜蝋を大きな桶のような鑄物に入れて固めるというものである。鑄物によっていろいろな形の製品を作ることができ、同じ形の製品を数多く作り出すこともできた。
 
詩とろうそく
 韓国人にとってろうそくの火は、文学の題材として使われるとまた違った印象で立ち現われる。それは民俗的なものとは少し意味が異なる。むろん、ろうそくの火が文学的な素材となっている例はすでに中国にもあったが、朝鮮王朝時代に書かれた次のような時調には、ろうそくの火に対する韓国ならではの情緒が現われている。
部屋に灯るろうそくの火
だれとの別れであったがゆえに
うわべに涙しつつ
焦げる胸のうちは知らぬのか
あのろうそくの火は我に似て
焦げるそのうちが知られることはない
 愛する人との別れを前にした夜、または別れてひとりになった夜、ろうそくの火は寂しい人の心を代弁してくれる詩的な題材だ。思いを外に表すことなく、心で涙する人がここにいる。愛する人と別れてもその思いを率直に語ることができないというのは、朝鮮王朝時代まで韓国では男性にも一般的な情調であった。女性にはもとより自分の意思を積極的に表現する道が閉ざされていたが、男性の場合にもいわゆるソンビ(在野の学者)は、情感の直接的な表出を慎むのが常であった。
 しかし、この時調を書いた李という人物の個人的な経歴を考えるなら、燃えているろうそくの火をながめながら、それは自分の胸のうちが焦げているのだと言った意味が、単に愛する人との別れを意味しているのではないことがわかる。李は朝鮮王朝初期の両班(貴族)で、はじめ世宗のもとで官職につくが、世宗が亡くなって幼い息子・端宗が即位すると彼に忠実に仕えた。ところが、その端宗を叔父の世祖が殺して王となる。有名な端宗廃位事件である。李はこれを見て憤然と反対し、結局世祖に殺されてしまう。別れは自分が仕えた端宗とのそれを、胸のうちが焦げるというのは端宗の廃位を指して言っているのである。
 今日、韓国人にこの時調は、ある忠臣の切実な心を表現したものと受け止められている。それとともにろうそくの火は忠臣の涙を意味しているのだ。
 もちろん、文学作品にあってろうそくの火のイメージは、閨情の恨を表すのが一般的だ。同じ朝鮮王朝時代の金克倹の詩には、
冬の衣類を送ることもできず
一夜 むなしく 砧を打つ
ろうそくの火は 私の心に似て
涙が枯れたと思ったら 胸さえも焦がす
という表現が出てくるが、涙をぽたぽたと流して燃えるろうそくの火を見ながら、その火があたかも自分の心をわかってくれるかのように思うのである。
庭いっぱいに桐の葉は西風に落ち
寂しい夢 破れてみれば
ろうそくのみ ひとり涙す
 やはり朝鮮王朝時代の金孝一という人物の詩だ。ろうそくの火だけが自分の心をわかってくれるかのように、赤い涙をぽたぽた落としながらその身を燃やしている。別れを恨んでひとり寝入る女人の気持ちがよく伝わる。
 このような詩を通して、われわれは、ろうそくが日常生活の道具として広く使われていた時代の風景を描いてみることができる。詩人というものは、周辺のありきたりの何かに自らの心情を託して詠うものだからだ。
・・・<東国大学韓国文学研究所研究員>
 
除夜の風景(ソウル鐘路二街の十宇路)
撮影−白智舜







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