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全国の個人船大工存在確認調査

 事業名 全国の個人船大工存在確認調査
 団体名 東海水産科学協会 海の博物館 注目度注目度5


瀬戸内及び四国の船大工現況
織野英史
 
 瀬戸内は、舳(水押)を持つ船の発祥地である。そのため、逆に早くから刳船や準構造船といった古い造船技術は失われた地域でもある。波の高い外洋と違い、鋼船の漁船は少ない反面、FRP化は比較的早い。海船としては、漁船、筏船、渡船、運搬船と様々な和船型の船種や機帆船に代表される洋式の木造船が活躍したが、今はほとんど造られていないというのが現状である。
 その中で一部、(1)地元漁師がFRPを嫌い木造船の建造が現在でも細々と続けられているところがある。若松造船が独占する伊予下灘の漁船や広島県大柿町の幾つかの造船所が造る底曳漁船である。しかし注文なしで造り始めておくという前者や必ずしもコンスタントな需要のない後者の状況を考えると、これらの地域も木造船衰亡の例外にはあたらないだろう。土佐湾の地曳網船は近年に入っても板舳の木造船で、高知市の弘光優氏は地杉を使った安価な船を提供していたが、地曳網も急速に衰えつつある。
 もう一つ(2)宮島の管弦祭や櫂伝馬、押船といった船祭りの行事に使用するため、あるいは水軍など海関連のイベント船の必要から、たまに発注があるという状況の倉橋島や笠岡市の船大工(八杉衛氏)。大崎上島の櫂伝馬は地元で造れなくなり、近年では今治や倉橋に注文している。
 かつて観光鯛網の鯛縛網船を造った横島の中尾福良氏らが愛知県型打瀬船を造ってから、はや20年近くになる。
 そして、(3)老練な船大工が注文なしに釣船を造っていて、売れるあてもないという状況。牛窓の竹内繁氏は大正2年生まれ。大柿町の畑本初一氏は明治44年生まれである。このような船大工のもとに遊漁船や伝馬の注文がたまに入ることがある。
 (4)模型造りに転向した船大工たち。伯方島の渡辺忠一氏は県立博物館や町立資料館に納めた水軍の小早船、自ら手がけた客船の模型を、倉敷市玉島の加瀬野工氏も自ら手がけた機帆船の模型に取り組んでいる。倉橋島の向井造船では実物大のイベント船「遣唐使船」製作後、その模型などに取り組んでいる。独特な高根の渡しや発条舳の唐船を造ってきた長光泰司氏はイベント船を考案し、御手洗で農船を造ってきた宮本國也氏は床の間用の置物といった模型を造っている。
 川船大工は、広島県の江の川、徳島県の吉野川、高知県の四万十川に現役船大工がいる。三次市の光森賢治氏製作の極端に細長い独得の川船、三野町のカンドリ、中村市の加用克之氏、十和村の中脇定義氏、梼原町の吉村透氏の造る四万十川の川船は一枚棚である。川船大工は直穂の片鐔釘差鑿を使うなど海船との道具の違いを考える必要があるだろう。
 さて、原料の調達の問題も深刻である。日向弁甲(飫肥杉)材の材木問屋が倒産する、あるいは植林法を船材から家材向きに切り替えるなど材の調達が難しくなっている。かつては木江町明石から来たマキハダ(桧肌縄)船は走らなくなり、靹でも船釘を打たなくなった。「手持ち分がなくなったら、もう造れん」というのが正直なところかも知れない。
 さて、板舳の和泉型や広島型の打瀬船、板舳の家船、オチョロ船、神戸港湾艀、イサバ船など造っておけないかと思う船は数多い。
 
日本伝統造船技術の行方
赤羽正春
 
 日本の伝統造船の粋を集めた最後の漁船は、川崎船であろう。焼き玉エンジンやチャッカエンジンを積み込んだ和船としても有名である。動力化以前の船で、カムチャッカ海域まで出かけ、鱈捕り、鮭・鱒漁業に従事し、第二次世界大戦前の日本の水産業の隆盛を導いた船である。昭和10年代にカムチャッカ半島とロバトカ海峡を挟んで立地するシュムシュ(占守)島で、鱒漁業に従事したのが最後の華であった。
 想えば、コロンブスのアメリカ大陸発見以前に、北欧から北アメリカのニューファンドランド島へ渡った鱈漁民が、真の新大陸発見者だとされている。動機はやはり鱈であった。
 北太平洋・オホーツク海でも、北大西洋でも、鱈場の発見を支えた船と、それを乗りこなす漁民がいたのである。
 荒れる海に木の葉のような船を浮かべ北の豊かな漁場を開拓した人々には頭が下がる。船も、北の海では頑丈に作らなければならなかった。最後の川崎船は、肋骨を等間隔で備え、板張りには雪国の北斜面の山で時間をかけて育てた杉材が使われた。年輪の間隔が緻密で、雪に押されて成長しない根元部分は、最も強度を必要とする舳先の根元に入れられた。
 川崎船の船大工を20年間追って分かったことは、日本の漁船が、遥かな昔から培ってきた日本人の技術の蓄積がすべての面で現れ、技術が高いレベルに昇華していたことである。接合材のチキリまで入れれば、古代エジプトの技術体系まで受け継いでいるのである。
 この技術が消えようとしている。FRPの登場、動力化の流れ、これらは止められないであろうが、営々と先人が築いてきた日本の船の技術を一瞬にして消し去ることが進歩といえるのだろうか。私自身どうすればよいのか分からないのであるが、和船研究の仲間と話し合っていることは、技術復元できるだけの記録を取ることの意味は大きいということである。船大工道具・図面・板取り等、記録を読めば船が造れるような冊子を目指して記録を進めている。幸い、函館の船大工さんや、焼津の船大工さんが師匠としている。
 若い研究者も、和船研究会で育ってきている。これらの力を結集すれば、少しは後世に意味のある仕事ができるのではないか。
こんなことを考えているときに、海の博物館から全国の船大工をリストアップする仕事の連絡が入り、ほのかな希望を感じた。今回の試みは、石原義剛先生の巧みなリーダーシップで実現にこぎ着けた価値ある調査である。必要性を認め、やらなければならないことは船の研究者の殆どが持っていた潜在的意識であった。和船研究会でも何度も話題に上った。まずは取り組みの始まったことで善とし、次は私自身の取り組みの進展ということになる。
 
干葉県の船大工現存状況に関する概況
松田睦彦
はじめに
 千葉県内で行った船大工現存状況に関する調査について報告する。調査は平成14年9月18目・19日・21日・22日・23日および12月19日に行った。調査はすべて聞き取り形式で行い、調査者が「調査基礎カード」に記入した。
 調査対象は内房沿岸(富津市1人・鋸南町1人)計2人、外房沿岸(和田町1人・天津小湊町3人、御宿町2人・大原町4人・一宮町1人・旭市4人)計14人、利根川沿岸(佐原市1人)計1人の合計17人の船大工である。佐原市の1人を除いてすべて海船の造船に携わっていた。
 以下、項目別に具体的内容を見ていきたい。
 
1:木造船の残存状況について
 筆者が調査した房総半島沿岸においては、まったくと言ってよいほど木造船を確認することができなかった。ただ、鋸南町においては平成14年12月に戸田良三氏が建造したごく小型のテンマ船(磯物用小網、イセエビ・サザエ採り用)1艘を確認し、写真に撮ることができた。こういった状況の背景には、漁場が外海に面していることが多いうえに、戦後も漁業が比較的盛んに行われてきたために、漁船の老朽化が早く、FRPなどの新しい技術に対する抵抗も少なかったことがあると考えられる。
 一方、内水面である利根川流域の佐原市では、現在でも多田一二男氏によって木造船の建造が行われている。多田氏が主に造っているのは釣船と農船である。釣船は鮒釣等に用いられ、もともとは竿で操船するものであったが、現在ではオールで漕ぐものとなっている。また、農船は昔は稲の運搬などに用いられていたものであるが、現在では佐原市や隣の潮来市の水郷めぐりなどに使われている。このような観光という要素があるからこそ、木造船の造船技術が残っていると言うことができる。
 
2:経歴について
 船大工が修業をはじめた時期については、戦前に修業した世代では小学校卒業後の15・6歳というのがもっとも多い。修業の期間はおよそ5年で、徴兵検査までというのが一般的である。礼奉公は半年から1年である。造船技術は親の代以前から造船場を経営している場合は父親から習うことが多く、わざわざ他の造船場で修業するということはみられない。親が造船場を経営していない場合は近隣の造船場に弟子入りするが、この場合も親戚関係にあることが多い。
 修業を終えてからは自家で造船場を経営している場合には、他の造船場に稼ぎに行くということは基本的に無い。一方、自営で無い場合にはいくつもの造船場を渡り歩く大工が多い。その背景には造船場の仕事は忙しい時とそうでない時の差が大きいという事情がある。造船場は造船や修理の注文が多くある時にはたくさんの人手を必要とするが、そうでない時には余分な人手を囲っておくことはできないのである。時には親方自らが東京や横浜の大きな造船場に、他の職人とともに仕事を求めたこともあったという。
 最後に木造船を造った時期については、早い人で昭和35・6年、遅い人でも昭和40年代後半である。それ以降、鋼船やFRP船へと切り替わっていった。FRP船へと切り替わると同時に造船場を閉める人もいたという。これはFRP船が化学薬品を用いて建造されるため、体の不調を感じたり、強烈な臭いを嫌ったりしたためである。また、造船が職人的技術を必要とするものから、単純作業へと変わったことにより、仕事のおもしろさが失われたと感じる大工も多かった。
 
3:過去の木造船の内容について
 房総半島沿岸で古くから行われてきた漁法として地引網とアグリ網がある。どちらの漁にも専用の船が用いられていた。
 房総半島は九十九里浜で有名なように、多くの砂浜を有している。したがって地引網は房総半島の各地で行われていた。地引船は長さ10m、幅2.5mほどの船であり、五丁櫓から七丁櫓が一般的だった。一方、アグリ網はイワシ巻網漁であり、1艘で行なうもの(一艘巻)と2艘で行なうもの(二艘巻)があった。アグリ船は長さが小さい船では10m、大きい船で20mを超すものもあった。幅は2.5mから3.6mほどである。地域によって船の大小があったようだ。アグリ網漁では母船の他に網を引き寄せるためのテンマ船も用いられた。ひとつの網元と契約するとアグリ網で使われる船すべての修理や新調を請け負った。
 その他の漁船としてはサンマ船やサバ船と呼ばれる多目的の小型漁船が多い。小型漁船の大きさは地域によってさまざまである。対象とする魚も地域によるが、主にサバ・アジ・キンメ・イカ・サンマ・タコ・シラウオなどである。サバ船は造船の順序としてアバラを建ててから板を張る洋船式であるとする地域もある。また、タイの延縄やエビ網・タコ釣・イセエビ網・刺網・などに使う縄船も各地で見られる。縄船の大きさも、地域や用途によってそれぞれである。さらに、長さ5m、幅1〜1.5mほどのテンマ船も各地で使われていた。テンマ船は釣や磯漁などに用いられ、1〜2人が乗り込んだ。
 利根川で使われていた川船としては農船(サッパ船)や釣船、漁船などがあげられる。
 農船は稲等の運搬に用いられたが、現在では観光船として活躍している。長さは8.6m、幅は1.6mほどであり、竿で操船していた。現在は船外機を動力としている。釣船はフナ釣等に用いられたもので、長さ4.6〜6m、幅は1.5mほどである。昔は竿で操船していたが、現在ではオールや大きな観光船では船外機が動力となっている。漁船は投網や張網などの漁に用いられていた。長さは6m、幅は1.6mほどである。
 
4:材料と入手について
 材料は船材としてはスギ、ヒノキ、ケヤキ、カシ、ヒバ、シイ、マツなどが用いられていた。船の部位によって異なる木を用いていた。板と板の間には水漏れを防ぐマキハダを埋め込んだ。これらの船材はそれぞれの地域の近隣の山から調達した。ただ、特別に大きな船の注文などが入った場合、東京の問屋などから長い木を取り寄せることもあった。
 船釘はほとんどの地域に鍛冶屋がいて、地元で調達することができたが、木造船の衰退とともに鍛冶屋が廃業していき、地元での調達が困難となった。その後は尾道や呉から取り寄せるようになった。しかし、地元の釘に比べ利きが悪かったという。
 
5:船大工について
 今回、調査をした船大工は明治45年生まれから昭和22年生まれの人びとであるが、このなかで現在でも造船を行っているのは昭和4年生まれから昭和22年生まれの人びとである。さらに、なんらかの形で木造船の建造に携わっているのは3人に過ぎない。この3人のうち2人が海船の船大工だが、現在手掛ける船はごく小型の船ばかりである。とくに和船に関しては厳しい状況にある。しかし、木造船建造の技術の記憶は残っている。この記憶を記録として残すためには、造船の再現とそれを映像や文章の形に定着させる以外には方法が無いと考えられる。船大工が高齢化しているため、記録を取る作業は急がれる。
 
現在でも木造船製作が可能な船大工について
 報告にあるとおり、現在でも木造船を製作している船大工は限られている。そのなかで、今後和船の再現等の仕事を依頼するのに適当と思われる船大工は、川船では佐原市の多田一二男氏、海船では和田町の樋口喜持氏である。両氏ともに現在でも木造船の製作に携わっており、技術も確かである。ただ、製作することのできる船種については限られてくるだろう。また、多田氏に関しては千葉県立大利根博物館が、樋口氏に関しては千葉県立安房博物館が調査を行なったり、造船の依頼を行なったりしている。船の再現等については、両博物館との連絡が必要である。
 その他の船大工にも木造船の製作に意欲を持つ人がいるが、大工道具、木材・船釘等の材料、人手などの問題を解決することは困難が予想される。金銭面、人員面等での大きな負担が必要となるだろう。







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更新日: 2019年7月20日

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