2. イギリスとの交易
イギリスは、1558年スペインの無敵艦隊を破って制海権を手にし、さらに1600年イギリス東インド会社を設立して、東洋貿易を積極化しました。オランダが喜望峰を回って東洋進出を果たし、ウイリアム・アダムスの尽力によりオランダ商館が日本の平戸に設置されたことを知り、東洋、中でも日本渡航の機会をうかがっていました。
クローブ号を仕立て、イギリス国王の親書を携えたジョン・セーリスを司令官として、1613年6月ヨーロッパ諸国に遅れて、はじめて平戸に来航しました。干潮のため、港の沖合いに錨を下ろしたので、鎮信(法印)は孫の隆信(宗陽)とともに、40隻の舟で迎え、大いに歓迎しました。平戸滞在約50日の後、アダムスも江戸から来平したので、セーリスは同道東上して家康に謁見し、アダムスの力添えもあり、正式に通商の許可を得ました。
幕府やアダムスは浦賀を貿易港にすることを強く望みましたが、セーリスは平戸にもどり、評議し平戸に商館を設置することを決定しました。今の石橋幸橋の西岸付近を選定し、中国泉州出身で、平戸居住の朱印貿易商李旦の持家を借り受けて多くの商品を収納し、商館にあてました。リチャード・コックスを館長に任命し、ウイリアム・アダムスほか約10名を置き、営業を開始しました。コックスは江戸・駿府・京都・堺・大坂・長崎に館員を派遣して販路の開拓や、商品取引の業務にあたらせ、他方中国や交趾(ベトナム)の商品の導入なども考慮しました。またアダムスを船長としてシャム(タイ)などに派遣して、日本人向きの生糸・絹織物・皮革・蘇木などの仕入れに努力しました。
イギリスの貿易品は西洋より輸入されたものが多く、比較的高価なのに対し、オランダ商館は東南アジアより諸国の仲買品を入れ、ことさらに薄利多売を策し、日本人の気質に合う掛売りなども取り入れたので、財力的にもイギリスは次第にオランダに圧倒されることになりました。
イギリスはオランダとの貿易商戦に敗れ、遂に平戸商館の閉鎖を決定しました。閉鎖の準備に着手し、従来の貸付金の回収をオランダ商館に委託し、再び来平の時に使用するため、商館の保管を平戸藩主に託して、1623年インドネシアのバタビアに向かって出港しました。イギリスの日本貿易はわずかに10年で幕をとじたのです。
港のできる場所としては、大きく次の四つの条件があげられるといわれます。
(1)船の出入りの容易さ。(2)風波が避けられる地形であるかどうか。(3)内陸とのアクセスがいいかどうか。(4)大きな船がつけられる水深があるかどうか。
この中で特に重要なものは(1)と(2)であるといいます。これを満たす地形とは、海が袋状に陸の中にはいりこんでいる状態をいいます。現在の平戸港は埋め立てが進行し、奥行きの感じられない港になっていまが、中心部の埋め立てが完成した1804年(文化元)までは、まさしく袋状に海が入り込んだ地形をしていました。正保年間(1644−1647)に作製された「正保平戸城下図」では、その地形がよくわかります。平戸港の江戸時代以前の様子はよくわかっていないのですが、おそらく、現在の平戸市街地の平坦な土地はほとんど埋め立てによって形成されたものではないかと思われます。
「正保平戸城下図」
正保年間(1644−47)
ところで、平戸港は平戸瀬戸に面しています。潮の流れの早い瀬戸は海上交通において難所の点が強調されがちです。たしかに難所でもありますが、船の出入りの容易さからとらえると、一定時間に一定方向の潮の流れがあるのは、むしろ好条件にもなります。また、瀬戸の両側には陸地がせまり風波の影響から逃れやすくなるのも見逃せない点です。
港のできる条件の(3)に「内陸とのアクセスがいいかどうか。」とありますが、平戸港ではこの条件はあてはまりません。しかし、これに代わる条件として、物資の積み替え・物資の結節点としての機能が平戸港にはありました。特に海外貿易時代は、この機能が十二分に平戸港は発揮されていました。
平戸港(平戸城下)の様子を描いた最も古い絵図に、オランダ・ハーグ国立中央文書館蔵の「1621年平戸図」があります。建物は、洋風に描かれ正確に描いたものではないのですが、貴重な情報を伝えています。当時は平戸港に、オランダ商館・イギリス商館が設置されていて、日本、アジアおよびヨーロッパの人々が平戸に居住したまさしく海外貿易港として全盛の時代でもありました。この絵図には「FIRANDO」(フィランド)と平戸の呼称が記されます。この絵図より以前に描かれた世界地図にも同様に「FIRANDO」の文字が見られ、特にヨーロッパにおいても認知されていたようです。
最後に(4)の「大きな船がつけられる水深があるかどうか。」についてですが、この点について平戸港はきびしい条件でした。これは中世までは、そこまで必要な条件ではありませんでした。しかし、近世になって船が大型化し、深い水深の港が必要になってきます。これはヨーロッパにおいても共通にいえることでした。
平戸においてはオランダ商館が長崎出島に移転して以降、国内海運の大型船に対応するため水深の深い港の整備や、平戸瀬戸の航路整備がおこなわれました。
1. 捕鯨
1641年(寛永18)、平戸オランダ商館が長崎出島に移転し、平戸に貿易船が来航しなくなると、平戸における経済状況は次第に悪くなっていきました。平戸藩もいろいろな政策を打ち出しますが、貿易時代のような活況をとりもどすことはできませんでした。
そのような中、オランダ貿易時代からおこなわれていた捕鯨業を盛んにした鯨組に益富(ますとみ)組があります。平戸の西にある生月島に本拠をおき、1700年前半から捕鯨をはじめました。現在の長崎県から佐賀県海岸でおこなわれた捕鯨を西海捕鯨といいます。益富組はその中で最大規模の経営をおこないます。益富組は200隻以上の船と、三千人余りの人々を雇い、多い時で、年間200頭あまりの鯨を捕獲しています。この捕鯨による収入は莫大で捕鯨開始から廃業にいたるまで、平戸藩に対して納税額が約77万両、献金が約1万5千両、貸金が約24万両、合計100万両以上におよぶ莫大な金額をおさめています。
「得庵本」
江戸時代中期
益富組の収入は大名に匹敵するものであったようです。その益富組は生月に本拠をおきましたが、平戸との関係は深く、平戸城下に広大な屋敷を平戸藩からあずかるなどその影響は大きかったと考えられます。
江戸時代後期になると、アメリカ・ヨーロッパ諸国は捕鯨業を盛んにおこないました。アメリカをはじめ諸外国の捕鯨船が目本近海に進出し、鯨を捕獲し頭数が急速に減少していきました。それにともない益富組も影響を被り1861年(文久元)廃業することとなったのです。
1858年(安政五)、江戸幕府と諸外国の通商条約の調印以降、平戸近海へ黒船(外国艦船)が出現するようになりました。同年だけでも、平戸藩領近海に合計13回外国船が確認されています。また、1860年(万延元)には、平戸海峡を通過するにいたりました。こうした事態を受け、不測の事態に備えて平戸藩は平戸瀬戸に大砲を設置しました。
しかし、「鎖国」体制のなかで、造船及び軍事力の差は諸外国との間で歴然としており、平戸瀬戸の台場に設置された大砲も実戦に使用されることはありませんでした。
また、平戸藩は外国艦船への対応を通じて、近隣の藩との密接な関係を築くこととなり明治維新へむけての対応とつながっていくこととなりました。
※掲載してある資料は、すべて松浦史料博物館の所蔵品である。
年 |
海外交流内容 |
1183年 |
「平戸」の地名の初見 |
1191年 |
栄西、平戸(古江湾)に宋より到着 |
1235年 |
栄尊、円爾、平戸より商船にのり宋へわたる |
1265年 |
建長寺二世兀庵普寧(ごったんふねい)、宋へ帰国の途中、平戸による |
1271年 |
蒙古、元と称する(中国) |
1274年 |
文永の役(蒙古襲来) |
1281年 |
弘安の役(蒙古襲来)、平戸近海に元軍集結する |
1350年 |
倭寇(「前期倭寇」)激増 |
1368年 |
元、滅亡、明興る(中国) |
1392年 |
高麗滅ぶ、朝鮮興る(朝鮮半島) |
1407年 |
平戸島代官、金藤貞、朝鮮に使者をおくる |
1452年 |
遣明船、平戸寄港、硫黄を積んだ薩摩船、遣明船のもとに来航 |
1456年 |
松浦義、朝鮮と歳遣船を約す |
1458年 |
松浦義、室町幕府から遣明船の類船を許可される |
1486年 |
明からもどった遣明船、平戸に到着 |
1498年 |
ヴァスコ・ダ・ガマ、インドに達する |
1534年 |
イエズス会、設立 |
1539年 |
遣明船、平戸寄港 |
1542年 |
密貿易商人、王直このころ平戸に本拠をおく |
1543年 |
ポルトガル人、種子島漂着、鉄砲の伝来 |
1549年 |
フランシスコ・ザビエル、鹿児島に来る |
1550年 |
ポルトガル船、はじめて平戸に入港、ザビエル平戸に来る |
1557年 |
王直、明で捕まる。ポルトガル、マカオの居住権を獲得 |
1558年 |
1568年まで、倭寇、明沿岸、東南アジア各地に猛威をふるう |
1561年 |
平戸港で宮の前事件発生、ポルトガル人多数殺害される |
1564年 |
平戸にキリスト教の教会が建設される |
1565年 |
ポルトガル船、福田港(大村氏領)入港、平戸の兵船、福田港を襲撃する |
1587年 |
豊臣秀吉、バテレン追放令を発令。日本人のソマ船、平戸よりルソンに渡海 |
1588年 |
イギリス、イスパニアの無敵艦隊を破る |
1593年 |
スペインのフィリピン長官使節、平戸に来航 |
1600年 |
リーフデ号、豊後に漂着。イギリス、東インド会社設立 |
1602年 |
連合オランダ東インド会社(V・O・C)設立 |
1604年 |
松浦鎮信、江戸幕府に朱印船を許可される |
1605年 |
リーフデ号船員を平戸より帰還させる |
1609年 |
オランダ船、平戸入港、商館を設置する |
1613年 |
イギリス船、平戸入港、商館を設置する |
1616年 |
オランダ・イギリス貿易を平戸と長崎に限定される |
1619年 |
平戸のオランダ・イギリス同盟成立 |
1620年 |
ウィリアム・アダムズ平戸で没。鄭芝龍、平戸にくる |
1623年 |
イギリス商館、閉鎖される |
1624年 |
鄭成功、平戸に生まれる |
1635年 |
唐船貿易を長崎のみに限定される |
1636年 |
長崎出島完成、ポルトガル人収容 |
1637年 |
島原の乱おこる |
1639年 |
ポルトガル人、日本追放 |
1640年 |
平戸オランダ商館の破壊を、幕府に命じられる |
1641年 |
平戸オランダ商館の長崎出島への移転を命じられる |
1648年 |
鄭成功、江戸幕府に明朝回復の援助をもとめる |
1662年 |
鄭成功、台湾のオランダ軍排除、同年没 |
1715年 |
近松門左衛門「国姓爺合戦」著す |
1725年 |
益富組捕鯨をはじめる |
1782年 |
平戸オランダ商館時代のオランダ船錨、海中より引き揚げられる |
1799年 |
連合オランダ東インド会社解散 |
1853年 |
ペリー浦賀来航 |
1860年 |
外国艦船、平戸瀬戸通過、平戸瀬戸に台場(砲台)設置 |
|
|