日本財団 図書館


III. 平戸とオランダ(およびイギリス)
1. オランダとの交易
 オランダは古い時代ネーデルランドといい、スペインの領土でしたが、ネーデルランドの北部の人々は同盟を結び、スペインからの独立宣言をしました。
 当時オランダはポルトガルから東洋諸国の品物を買って、ヨーロッパの国々に転売する中継貿易を行っていました。スペイン国王はポルトガルも統治していましたので、報復としてリスボンの港への出入りを禁じました。
 このためオランダは大きな打撃を受けましたので、貿易会社を設立して、航路を開拓して、自ら東洋へ進出することにしました。
 1598年6月、デ・ホープ号(500トン)、デ・リーフデ号(300トン)、ヘット・ハローク号(320トン)、ヘット・トラウ号(220トン)、デ・ブライデ・ボートスカップ号(150トン)の5隻で編成された東洋向けの船隊がロッテルダムの港を出帆しました。
 はじめ、南アフリカの喜望峰を回って、東インドに向かう計画を立てましたが、途中変更して南アメリカのマゼラン海峡を経由することにしました。航海中暴風雨、伝染病や飢えなどの困難に遭い、その中のリーフデ号だけが太平洋を横断して、1600年(慶長5)4月に豊後国(大分県)臼杵湾にかろうじて漂着しました、ロッテルダムを出港して、実に18ヵ月ぶりのことでした。当初リーフデ号の乗組員は150名でしたが、生存者24名、歩行できる者はわずかで、漂着後6名が死亡しました。当時の航海の過酷さがしのばれます。生きのびた乗組員の中に、のちに徳川家康の外交顧問として活躍し、また平戸のオランダ、イギリス両商館の設置に尽力した、イギリス人航海士ウイリアム・アダムス(日本名三浦按針)がいました。
 
「唐船之図」(オランダ船部分)
江戸時代中期
 
 1605年、浦賀に止めていたリーフデ号船長ほか乗組員の帰国に際し、平戸松浦家第26代松浦鎮信(法印)は、この好機をのがさないようにと家康に請願して、海外渡航許可の朱印状を受け、船を仕立てて、平戸招致の手紙とともに彼らをオランダ商館のあるマレー半島のパタニに送還しました。1609年2月オランダ東インド会社は、日本に対し通商を開始する決定をし、デ・ローデ・レーウ・メット・パイレン号とフリフーン号の2隻を日本に向けて出帆するように命じました。同年6月パタニにおいて生糸・胡椒などを船積みし、同地を出港して、7月1日の夕刻平戸港外に到着しました。
 
「松浦鎮信(法印)画像」
安土桃山時代
 
 貿易を熱望していた鎮信(法印)は、船長以下の一行を大歓迎し、オランダ人が通商の許可を得るための便宜を与え、斡旋の労を惜しみませんでした。一行は駿府(現静岡県)の家康に謁見し、通商許可の朱印状を得て平戸に帰着しました。一行は直ちに停泊中のメット・パイレン号の船上において会議を開き、鎮信の好意に報いるために、商館を平戸に設置することに決定しました。
 早速フリフーン号のジャックス・スペックスを館長に、ほかに補助員数名と下僕を任命し、平戸の街の東端崎方に土蔵付き家屋1戸を借り受け商館にあて、パタニから積んできた生糸・胡椒などの物資を陸揚げし、商売を開始ました。
 同年10月用務を終え平戸港を出帆したメット・パイレン号は、パタニを経由して、翌年7月にアムステルダムに帰着し、東インド会社に日本貿易開始のいきさつを報告しました。この報告により会社は日本貿易を重要視して、好適商品の選定委員会を設置しました。
 第2代目平戸商館長ヘンドリック・ブルーワーは、1610年8月メット・パイレン号に乗り組み、丁子・胡椒などを積み込み、2ヵ年の歳月をかけて1612年8月平戸に入港しました。同航のハーゼウィント号も、パタニに寄港して生糸・織物・その他中国の物資を積み、平戸に入港しました。次第に商館の商品の在庫が豊富になったので、商館の建造物などの充実を図ることが必要になってきました。
 1613年藩主に願い出、近くの町家の住宅22戸を取り払い、住宅・倉庫を新築しました。1616年には、倉庫やその他を建て増し、新たに埠頭を築造しました。さらに、1618年には、商館に隣接する町家50戸以上を取り払い増築拡張しました。これには新しい広間、商務員の私室、2棟の倉庫、石造火薬庫、病室、塀・埠頭などの石造物などが建造されました。埠頭にはアーチ型門を造り、商館の東端石垣上にオランダ国旗が翻っていました。1637年、1639年には、貿易の進展充実にともない、膨大な商品の収納のために、大規模な石造倉庫が建造されました。平戸港の商館施設の不足を補うために、副港川内浦にも倉庫、埠頭などの施設が建造されました。川内浦では主に船体の修理や船乗りたちの休養にあてられました。平戸の商館は東洋各地の商館の中で、最も豪華であったといわれています。
 
「オランダ船船首飾木像」
17世紀
 
 商館施設の充実とともに、京都・堺・大坂・江戸など各地の商人たちとの直接取引を実行し、幕府や諸大名からも注文を受けるようになり、逐次販路を開拓していきました。
 1628年貿易をめぐりタイオワン事件がおこり、オランダ貿易は数年間中断しますが、解決後は以前に増して、順調に進展していきました。
 そして1639年、幕府がポルトガルとの交渉を断絶してからは、オランダは中国とならんで、日本貿易を独占するようになりました。平戸オランダ商館閉鎖直前貿易は最高に達し、莫大な利潤を上げ、当時アジアの商館の中で抜きん出た存在でした。特に平戸との交易時代を「平戸時代」と呼ぶほどでした。
 輸入品としては、中国の生糸、絹織物、ペルシャ・ロシアの皮革、羅紗、毛織物、木綿、麻織物、ビロード、鉄、鉛、錫、水銀、象牙、水牛角、鮫皮、磁器、ガラス器、南洋の丁子、胡椒、砂糖、蘇木、琥珀、伽羅、麝香、薬品、酒類、珍品としての眼鏡、時計、望遠鏡、ランプ、装飾品、ほかに印刷本、絵画、彫刻、馬、犬、小鳥などなど多岐にわたっていました。中でも生糸、絹織物、羅紗、鹿皮、砂糖、香辛料などは原価の倍額以上で売れるもので、需要が多く人気商品でした。
 輸出品としては金、銀、銅の地金、漆器、屏風、武器・武具、陶磁器、樟脳、米・麦などの食料品が主なものでした。
 大量の商品と数多くの乗組員を搭載した貿易船は大型帆船で、春季西南の貿易風に乗って来航し、秋季東北の季節風を利用して帰るのを常としました。
 平戸に来航したオランダ貿易船の数は、多いときは年間12隻、平均して年間8隻を数えました。貿易港が長崎出島に移転した後、最終的に年間1隻に限定されましたが、この数だけを見ても、いかに平戸が貿易で潤い、そして外国の人たちで賑わいを見せたかを、容易に想像することができるのです。
 平戸の歴代領主藩主はオランダとの貿易を奨励し、平戸の人々の温かな人情はオランダ人に深い好感を与えていました。が、幕府は島原の乱後再び平戸にも宗教にからんだ騒乱が起こることを恐れ、かつ海外貿易の利を外様大名である平戸松浦家に独占されることを嫌い、オランダ商館の取り壊しを命じ、1641年遂に長崎出島への貿易移転となり、「平戸時代」として栄えた一時代に、幕を下ろすことになったのです。
 
「1700年オランダ製天球儀」







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION