日本財団 図書館


二席
 
「茅葺きの里」の形成
−茅葺き屋根の増減動向を中心に−
 
岩松 文代
 
I はじめに
 茅葺き屋根は全国的に激減している。日本一の伝統的な住居である茅葺き民家は、農業利用や土地の自然や気候に調和した、農山漁村では普通の家屋であったが、今ではほとんどが建て替えられ、姿をみることが少なくなった。茅葺き屋根の家屋は、建て替えをしなくともそのままの状態を保ちながら、屋根の上をトタンで覆うことができる。そのため、茅葺き屋根を表面に残している家屋はほんのわずかになっていても、現在ではこうしたトタン覆いの屋根が多くなってきており、昨年のおよその推計によると、わずかな茅葺き屋根の家屋数にトタン覆いの屋根の家屋をあわせると約3万5千戸1にのぼるとされる。
 茅葺き屋根の家屋は、希少価値や文化財的価値、歴史的な価値が認められてきており、保存政策が講じられてきた。1975年の文化財保護法の改正によって、文化庁は伝統的建造物群保存地区(以下、伝建地区と略す)の制度を創設し、茅葺き民家のような歴史的建造物と周囲の環境について、面的広がりを持つ文化財として保存地区に選定するようになった。そして、1995年には、白川郷の世界文化遺産の登録にみるように、「茅葺きの里」は、世界からみた日本の山間部の伝統的な暮らしを象徴する集落という位置付けもされるようになった。最近では、農林水産省が茅葺き屋根の家屋は地域文化であるという認識を高めてきている。
 伝建地区制度の創設された1970年代は、歴史的な町並みの観光が人気を呼び、都市に集中して居住する現代の人々にとって、昔の生活の場は知らない時代の暮らしとして新鮮な観光地になってきた時代である。「茅葺きの里」は、それより遅れて、白川郷が伝建地区に選定された1976年以降に観光の対象となってきたと考えられる。1980年前後の民宿ガイドブックには、家屋が茅葺き屋根であれば最も大きな特徴として取り上げられる場合と、付け足しで書かれる場合とがみられ、この時期以降、じわじわと関心を集めてきたことが推測される。そして、「茅葺きの里」という概念は、さらに後につくられてきたものと思われる。
 
1 (財)都市農山漁村交流活性化機構「全国茅葺き民家に関するアンケート調査」2002年 (財)都市農山漁村交流活性化機構ホームページ
 
 近年では、「茅葺きの里」という言葉が、旅行番組や雑誌でひんぱんにみられ、絵画・写真展などの芸術分野でもその景色が作品となることが多くなり、脚光を浴びるようになったといえる。最近の雑誌の特集見出しをみると、「日本人の懐かしい“故郷”でひと休み 春の散策は『茅葺きの里』へ」2、「日本のふるさと、茅葺きの里へ」3というように、茅葺き民家のある村里は、誰もが関係するふるさとという生い立ちの場として解釈されることに特徴があり、「茅葺きの里」は、暮らしぶりをみる観光地の一部門を確立してきたといえる。
 このように「茅葺きの里」の言葉は、情緒的で好奇心をそそる観光的概念として使用されているが、いいかえると、多くの古い家屋が残されたままの、山村地域に位置する集落のことである。そこで、本研究では「茅葺きの里」という概念の実態である山村の変動と観光現象との関係をとらえたい。「茅葺きの里」に関する研究は、これまでは保存地区を中心に個別地域を対象とした詳細な分析に偏っており、「茅葺きの里」のあり方の全体像を把握しようとする試みは見当たらない。本研究の目的は、「茅葺きの里」という観光的概念の実態である山村生活に視点をおき、茅葺き屋根の増減動向を分析の軸にして、観光地「茅葺きの里」の形成について広角的に考察することである。
 用いる資料は、京都府美山町北地区、同町南地区、同町下平屋地区、京都市左京区久多地区での住民への聞き取り調査(1998〜2002年に随時実施)と、久多地区での民家に関するアンケート調査(2001年12月実施、全55世帯対象、44世帯回収)の結果である。
 
2 小学館「サライ」2002年4月
3 JTB「旅」2002年9月 No.908
 
II 山村の変動と茅葺き屋根の増減
1. 山村と茅葺き屋根 −茅葺き屋根の社会減少−
 わが国の山村は、山村振興法の過疎振興山村でみると国土面積の約半分に及ぶ広い地域であるが、人口は国民人口の約4%しかない。さらに、高度経済成長に伴い山村問題といわれる情勢におかれて活力は低下してきた。山村からの流出人口は増大し、人口の社会減少が起こった。その結果、村落機能の低下や、民俗文化の衰退が進んだ。現在では、人口移動の動きは少なくなったが、高齢化の進行によって、死亡率が新生児の出生率を上回る傾向がみられるようになり、人口が社会減少から自然減少へ移行する時期を迎えている。この移行は、数値からみた違いだけではない。人口が社会減少していたころは、住民は生計を立てるためにやむを得ず都会へ出たという意に反する面もあったにせよ、都会で仕事をしたい、子供には学歴をつけさせたいと願った側面もまた強かったのである。しかし、人口の自然減少期になると、これは社会減少期以後の成り行きではあるものの、自分達の代まではせめて土地を守りたいが先は成り行きに任せるしかない、次世代に帰って来てほしいけれど世の中の流れで仕方がない、というように、人口の増加を願っているけれど新しい動きはできないまま、年月が過ぎているという状況になっている。このように、人口の社会減少と自然減少の時期では、住民の意識が異なっていることを指摘しておきたい。
 茅葺き屋根の家屋で今も残っているものは、江戸時代後期から大正時代に建築されたものが多い。よって、築200年になるものもみられるが、およそ築150〜100年くらいの家屋である。茅葺き屋根の減少要因は生活様式の変化が大きい。農業の縮小によって、家屋が生活に合わなくなり、また、山林利用や茅場そのものも減少した。そして、「息子夫婦と同居するから、住みやすい家に建て替えた」というように、世帯同居で現代的な生活を行うには、廊下なしで部屋がつながる間取りではプライバシーが保てず、建て替えや改築が必要になっていった。このように都市的な便利な家屋が好まれたこと、さらに通勤者にとって屋根の葺き替えが時間的に困難になったこと、手間がかかることは経済的に得策ではないという考えが山村にも生まれたことなどで建て替えが進んだ。都市への挙家離村の多かった地区では、家屋戸数の減少も起こった。そして、茅葺き屋根が減少して村落内の一定数を下回ると、村落内や株内、親戚内などで葺き替えの手間を交換していた結いの機能が消滅し、茅葺き職人も減少するといった、減少に向かう循環が作られていった。
 このようにして住民は、家屋を新築、改築、屋根をトタン覆いにしてきたが、そこには経済的な余裕を前提に、居住様式を変えたい、変化したいという意思があったのである。このように、近代化を背景とした住民の積極的な意思による茅葺き屋根の減少過程は社会減少ととらえることができる。日本の多くの山村において、茅葺き屋根はこの社会変動とともに減少してきたといえる。そして、人口減少でみたように、社会的という言葉の意味は意図的、自然的とは成り行きという意味を含むが、いいかえると、社会的とは新しい生活様式に向かう力があること、自然的とは従来の生活様式を続けようとする力があることである。つまり、ほとんどの山村では、茅葺き屋根の社会減少が起こった。現在でも、ほとんどの山村でこうした減少の循環が続いているため、茅葺き屋根がまとまって残されたところはごくわずかになったのである。
 次項からは、茅葺き屋根の社会減少を経た後の動きについて、事例地区の実態を通して検証する。
 
2. 茅葺き屋根の自然減少 −久多地区を事例に−
 京都市久多地区は、左京区最北の奥地山村地域である。入り組んだ山に囲まれた小盆地に55軒ほどの家屋が散在している。景観は、空、山、水田で占められ、茅葺き屋根の家屋は目立つ景観要素である。地区の人口構成は、112人のうち70才以上が50人に及ぶ超高齢社会である。人口流出は、1960年〜1981年の間が顕著であった。1970年には、茅葺き屋根をトタン覆いにする家が初めて現れ、それ以後、茅葺き屋根は減少傾向にある。当地区では建て替えは少なく、内部は古い造りのまま、茅葺き屋根はトタン覆いに、杉皮葺きの屋根は瓦屋根へと変えられてきた。ただし、当地区では1960年代以降の人口減少は激しかったが、挙家離村や生活様式の変化といった、先に述べたような社会減少の要因に対して、茅葺き屋根は比較的よく耐えて残ってきた。保存対策はなくても、現在までまとまって残されてきた希少な地区である。その後、1985年以降、とくに平成になってからの減少は著しくなり、これは流出人口が急増し始めた1960年頃から30年ほど後の、65才以上の人口割合が全体の40%を超えた時期である。現在、茅葺き屋根の母屋は14軒(うち1軒は別荘、1軒は空家、1軒は廃屋)、トタン屋根(下は茅葺き)の母屋は28軒(うち1軒は別荘)となっている。
 当地区では、茅葺き屋根は個人的に維持されており、結いのような労働交換は行われていない。住民同士で葺き替えることはごくまれで、3人程度の職人と、家族の他に手伝いさんが入ることもある。材料は各家で調達している。住民は秋に数日茅を刈り、茅場で一冬干して丈夫にしてから、春に家の屋根裏に運び入れる(写真−1)。
 
写真−1 茅干し風景(久多地区、2001年筆者撮影)
  





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION