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平成14年度運輸国際協力セミナー
第1回 (平成14年5月29日)
 
【男竹理事】 お待たせいたしました。それでは、ただいまからJTCA運輸国際協力セミナー平成14年度第1回セミナーを開催したいと思います。本日は3月末に3年間の勤務を終えて日本にお帰りになりました、現在国土技術政策総合研究所の企画調整課長をされております松永康男さんをお迎えしまして、こちらではフィリピンでの3年間を振り返ってということですが、内容としてはフィリピンの運輸事情及び運輸の分野の国際協力の方向などについてお話をしていただくことになっております。
 それでは講師の松永さんをご紹介します。
【松永講師】 遅れまして申しわけございません。国土技術政策総合研究所というのが新しくできたわけですが、具体的な内容というのはまだ明確に決まってないというのが実情でして、また一方で、今まで国だけで研究をやってきたものも産官学いろいろなところを混ぜ合わせてやっていかないといけない。そうしないと予算も取れないし、人間もどんどんカットされてしまうということがございまして、今民間の方々と意見交換という会議がございまして、これに出席して遅れまして申しわけございませんでした。
 
 
 私はフィリピンに3年間行ってまいりまして、在外の日本大使館に勤めてきたわけですけれども、それぞれ運輸の各分野の専門家が派遣されておりました。今日は第1回ということだそうですけれども、第2回、第3回におかれては多分それぞれの分野の個別マターの話があるかと思いますので、あまり個別マターに踏み込むと行き過ぎてしまうところもあるかもしれませんので、いわゆる大使館に勤めましての全体的な観点から、こんなような感じのところが動いているということで、今日はご説明させていただければと思います。
 実は昨日パワーポイントをちょっと、文章だけはすぐできたんですが、文章だけではあまりにも味気ないものですから、インターネットをいろいろ検索して写真をいろんなところから取ってきたんですが、これはご存じのようにジープニーというやつで、日本で言う乗合バスなんですけれども、どこでも乗れてどこでも降りることができるということでありますが、路線は基本的に決まっているというやつです。
 こちらの写真は、パラワン島エルニドというところですけれども、このような非常にすばらしい景観を持ったところもあるということです。
 
 
 フィリピンの大使館ですけれども、99年の3月からこの2002年の3月まで行ってまいりまして、湯下大使及び荒大使の下で働いてきたわけなんですけれども、部局としては経済班というところに属しておりまして、経済班は何をするのかというと、基本的には出身母体であります運輸省関連も含めまして何でもやるというようなところだと思います。
 
 それから、経済班の班長といたしましてボスがいるわけなんですけれども、これは外務省の方ですが、藤井さん、川田さん、星山さんという3人に仕えてきたわけです。経済班というのは比較的大所帯でありまして、9名体制ということですが、旧運輸省のほかに旧建設、農水、旧厚生、外務、旧大蔵、通産、それから草の根担当ということで、全部で9人体制ということです。
 それから日本人の職員ですけれども、たしかですが53名ぐらい働いておりまして、現地の採用が70名ぐらいおりますので、トータル130名ぐらいおるということで、比較的大きな組織になっております。
 これが大使館の全景ですけれども、これもインターネットからちょっと持ってきたんですが、このように3階建ての比較的新しい建物でして、ペルーの大使館襲撃事件が起きてからこの建物ができたということでありまして、セキュリティにはそれなりの気を使っているということであります。
 
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 それからアタッシェということで役割は何かと。この辺にいろいろ写真を持ってきたんですけれども、例えばよく誤解を受けるというか、多分私の普段の行いが悪いんだと思うんですけれども、お前、ゴルフばかりやっているんじゃないのかとか、海にばかり行っているとか、飲みにばかり行っているとか、そんなような評判というのがあるような気がするんですが、実は違いますというのが、このイメージしている写真なんです。皆さんの中でもアタッシェでいかれた方はたくさんおられると思いますけれども、アタッシェの役割というのは、メッセンジャーというのが一番の仕事だと思います。悲しいかなといいますか、判断能力というのはもしかしたら問われないのかもしれません。ただ、実質は問われるんですけれども、メッセンジャーというのはあくまでも本省の意思伝達、それを相手国政府に伝えるというのが非常に大きな宿命の1つだと思います。それから、本省、母体への報告とか連絡・相談、こういうものは当然のことであります。
 2点目ですけれども、在外における本邦関係窓口ということですが、本邦すべての事項に関して当然のことながら在外において窓口になるということです。それから任地での代表者と書いてありますけれども、よきにつけ悪しきにつけ代表的な存在として見られてしまう。普通にやって当然ということで、普通にやらなければあいつは悪いというイメージがすぐに立ってしまうということが、そういう意味ではつらい立場かなと思います。
 その次ですけれども、省をバックにするのか、日本をバックにするのかというのはよく問われる話だと思うんですが、例えば何々省から出向していって、何々省の仕事ばかりしている。それはそれで当然のことながら、あいつはけしからんということになってしまうわけなんですが、逆に何々省から行っているのに何々省の仕事を全くせずに、おれは日本から行っているんだということで、日本をバックボーンに仕事をしたりすると、またこれはこれで、あいつはばか者かというイメージを与えてしまうということで、そういう意味では、ここでもバランスというのが非常に大事になってくるんだと思うんですけれども、基本的には出身母体も見つつ、外務本省を見つつ、日本を見て仕事をしていくのがあるべき姿かなと感じました。
 それから、最後に本国との温度差というのがここにありますけれども、これはどういうことかといいますと、霞ヶ関というのは非常に忙しいところだと思います。そういう意味でその忙しさの中で仕事をしていると、在外の非常にどちらかというとスピードがのろい状況で仕事をしているとどうも本省のスピードとギャップが生じる。そうすると、例えば10分で返事をしなければいけないところが1時間、2時間、下手をすると1日、2日かかってしまうということもあるわけでして、そうすると本省からお叱りを受けるということもあるわけなんですが、そういう意味で温度差というのは何かにつけてある話だと思います。
 
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 そうはいっても具体的な業務として何があるのかということですけれども、外務省マターということで、経済協力局、これは主にODAですけれども、それから経済局、アジア大洋州局、こういうところがメインの外務本省のカウンターパートになってくる。それから、領事移住部とありますけれども、法人保護あるいは旅券の観点から領事移住部も非常に関係してくる。
 例えば、皆様ご記憶かもしれませんけれども、ODAの事業なんかでもし犯罪に巻き込まれる、あるいは襲撃を受けるということがあると、この領事移住部が表に出てきて、極端な話ODAの事業が止まるということもあり得るわけです。
 それから、ODAを離れまして昨今では、今日も保安庁の方がおられると思いますけれども、海賊問題というのが非常に大きなウエイトを占めるようになってきておりまして、ここの経済局の中のある部局あるいはアジア大洋州局と連携のもとにそういうものもやっているということです。
 それから、旧運輸省ですけれども、これは当然旧運輸省の全マターを扱わなければいけないということです。
 人数の関係で私の場合には、いわゆる旧郵政省マターも扱ってください。それから、旧科技庁マターも扱ってくださいということがございましたので、こういうところを全部扱ってこないといけないということがあったわけです。
 
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 それから最後に、現地にかなり旧運輸関係者がおられました。ただ、当然のことながら公務員倫理との関係で、あまり民間の方とおつき合いをすると、これはこれでまた後ろ指を差されてしまうというのがございまして、主にではありますがJICA関係者、あるいはJBICもありますけれども、そういう国関係の方々との懇親といいますか、意見交換というのは頻繁に行っていたという状況でございます。
 最初はちょっと概略ということですので、聞き流していただければ結構だと思いますけれども、現地カウンターパートということで、運輸通信省というのがございます。DOTC(Department of Transportation Communication)ということですが、ここが基本的に運輸省のカウンターパートになります。運輸だけじゃなくて通信も扱っているということであります。
 それからこのDOTCの下には、陸運局であるとか、航空局であるとか、プロジェクトを扱う局であるとか、あるいは計画をする局であるとか、こういうものが内局として存在いたします。それ以外にも当然外局というのがありまして、外局というのはどちらかというと、関係はするんですけれども直接的な関係がちょっと薄れるような組織でありまして、例えばMIAAというのがありますけれどもマニラの空港公団です。PPAというのがありますけれども、これはフィリピンの港湾庁です。LRTAというのがありますけれども、これは軽量鉄道公社と呼んでおります。それからPCG(フィリピン・コースト・ガイ)、MARINA(マリーナ海事産業庁)等。このほかにもいろいろあるわけですけれども、いろんな組織がこのDOTCの下にぶら下がっているということがあります。
 皆様が来られたときにどこを訪問するかと。当然カウンターパートの個々の組織を訪問することになるわけなんですけれども、親元のDOTCというのがありまして、このDOTCがそういう意味ではスーパーバイズしている組織体系になっているということです。運輸通信省の場合にはアシスタントセクレタリであるとか、アンダーセクレタリ、次官ですね、このような方がメインになって相手をしてくれますので、そのような方をポイントポイント当たっていけばそれなりの回答が得られてくるということであります。
 それから観光省(DOT)というのがあります。これは観光マターですけれども、Department of Tourismということで、こういうふうに独立した省庁として存在しております。ただ、フィリピンは観光、観光というわけなんですけれども、観光のスポットというのは先ほどの絵にもありましたように、非常にきれいな砂浜であるとかサイトがあるわけなんですけれども、イメージというのが、特に日本人に対してのイメージが悪くて、入り込み数が少ないというのがございます。そういう意味ではそういうものはこれからどんどんフィリピンにも努力をしていただかなきゃいけないし、逆にいうと現地を訪問した日本の方もこの辺はちょっと注意しなきゃいけないのかなと思っております。
 それから、科学技術省(DOST)というのがございまして、Department of Science and Technologyですけれども、この下に火山・地震研究所(PHIVOLCS)というのと気象天文庁(PAGASA)という2つの組織が、特に関係する組織としてあります。これ以外にもいろいろ組織はありますけれども。こういうような組織、例えばPHIVOLCSですと、ここにコイズミさんがおられますが、火山・地震の観測をしまして早期警報をすることによって人命を救うであるとか、長期的な、津波等の予測にも対応していきましょうということになっています。それから、PAGASAでありますけれどもフィリピンは台風の発生地ですし、雨も多く、そういう意味では気象というのは非常に重要なわけでなんですけれども少し母体が弱いということで、ここをもうちょっとてこ入れしなきゃいけないんじゃないかという話もあります。
 次に専門職管理委員会(PRC)、Professional Regulation Commissionというものなんですけれども、これは大統領府の下にありますが、トータルで数十、かなり多くの国家資格を発行しているところです。運輸省の関係でいきますと、この国家資格の中に船員資格がございまして、ここで船員資格の免状を発行するということが最終的に決まりました。免状を発行すると、免状の認定料というのがございますので、当初MARINAが出すのか、PRCが出すのかというのは内部的にもめた話なんですけれども、最終的にPRCが発行してMARINAがある意味裏書きするといいますか、保管するという形ができたということであります。
 それから、経済開発庁(NEDA)、National Economy and Development Authorityといいますが、このNEDAというのがございます。業務の非常に大きなウエイトとしまして皆さんご存じのとおりODAというのがあります。このODAを動かすときには、フィリピン側は基本的に我が国に要請してきているという立場をとっているものですから、要請してこないと案件が動かない。要請させるというのは、我々も民間の方々もそれぞれみんな大きな使命だとは思いますが、要請するに当たっては関係省庁、例えばDOTCであるとかDOSTであるとか、こういうところからNEDAに書類を持っていって、NEDAの審査を受けて、NEDAから正式にフィリピンの外務省、それから日本大使館、日本の外務省という流れで要請がなされることになります。従ってNEDAというのはODAに関しては非常に大きなウエイトを占めているというところであります。
 それから、関係としてはそんなに大きくないんですが、BCDA(基地転換庁)というのがございます。これはBase Conversion Development Authorityというんですけれども、これは何かといいますと、もともとはアメリカ軍が1900年当初からずっとフィリピンを占領して、途中ちょっと日本が入っていますけれども、占領してきたわけなんですが、1990年代に入りましてアメリカ軍が正式に出ていった。出ていった跡地をどうするのかというところで、跡地利用を図るためにできたのがこの基地転換庁です。特に運輸関係で関係してきますのは、例えばSBMA(Subic Metropolitan Authority)ですけれども、このスービックの開発。例えばここに港湾の開発があります。それからCDAというのはクラークの開発ですけれども、ちょっと地図がなくて申しわけないんですが、こういう個々の開発をどうしていきましょうといったときに、それぞれ日本大使館もかかわってくるということがあります。
 
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 それから、ちょっと本題に入ります前に主な出来事としまして、ご存じかもしれませんけれども、86年にマルコス政権というのが崩壊いたしました。いわゆるピープルパワーということで、民衆による政権崩壊、民衆パワーによって最終的に政権が崩壊したということで、EDSA革命と言われています。つい最近もう1回あったものですから、こちらはあえてEDSAIというふうに最近言われていますけれども、当初のEDSA革命というのがございました。このときには、EDSAという、完全に閉じてはいないんですけれどもフィリピンをコの字型に走っている大きな道路がありまして、その名前をEDSA大通りというんですけれども、そのEDSA通りに戦車が入ってきて、それを民衆が止めて最終的にはマルコス政権の崩壊につながっていったというところがありまして、非常に大きなイベントでありました。これによって皆様もご存じのアキノ政権というのが誕生したわけなんです。
 アキノ政権が誕生しまして、マルコス政権はある種の独裁政治で、当初はそんなに完全に悪かったということは言えないと思うんですが、末期は非常に悪い状態であったと。それでアキノ政権が誕生した。アキノさんというのはもともと大地主の娘さんでありまして、非常にお金のあるところなものですから、お金というものをあまり表に出したくないということで、貧者に対して非常に手厚い保護をしていきましょうというのが1つの政策目標になってしまいました。
 そのために今非常に大きな問題となっていますのが、いわゆる不法居住民というのがこの当時からもう爆発的に増えまして、いわゆる首都圏あたりに増えてきたと。マルコス政権だったら権力をかさにきて排除できたものが、アキノ政権になって排除できなくなった。もうこれは法律でも、そういう意味ではリロケーションというのは決められてしまったということがございます。
 それから6年たちまして、92年にラモス政権が誕生いたしました。ラモス政権はご存じのように非常に働き者であって、かつマスターマインドと言われていますけれども、単なる賢いんじゃなくて、超賢いと言われておりますが、ラモス政権が誕生しまして非常にフィリピンが発展してきた経歴があります。
 ただ、このラモスさんもある意味においては非常にフィクサー的な働きをする方だとは思いますが、そういう意味ではこのラモス政権も当初はうまくいっていました。ただし末期になってきましてフィリピンだけではないいろんな経済的な状況からフィリピン自身の経済も若干おかしくなってまいりまして、フィリピンの政府内においてもいろんな問題が出てきたというのがありまして、ラモスさんはほかの人を推したわけなんですけれども、最終的には民衆の代表ということでエストラーダさんというのが誕生したわけです。
 ここにいるのがエストラーダさんですけれども、ただ、エストラーダさんは非常に民衆には人気があったわけですけれども、あまりにも政治が動かなかったというのもありますし、かつあまりに腐敗が激しすぎたというのがありまして、約2年半の経過で最終的には民衆の力によって政権を降ろされてしまった。
 これがEDSAIIなわけですけれども、これによってアロヨ政権が誕生したということであります。ただしアロヨ政権にも非常に問題が多くて、アロヨさんが大統領で実権を握っているようですけれども、実際に握っているのはどうもアロヨさんではないようだということがございますし、自分の好きでない大臣なんかも自分の閣僚の中に入れ込んでいかないといけないということもありまして、そういう意味で完全なアロヨ政権ということにはなっていない。
 
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 これはもう若干の概略ですけれども、1520年ごろにマゼラン、マガリャニスという名前が今でも残っていますけれども、マゼランがフィリピンに来まして、セブとかサマールとかあのあたりに来たんですが、ただ、来て殺されちゃいまして、殺したのが酋長ラプラプということで、それ以来ラプラプという名前が非常に残っているわけなんです。このときからスペインがこのフィリピンに目をつけまして、当時の国王のフェリペ2世にちなんでフェリペナスということで今のフィリピンに動いているわけですけれども、ただ、このスペインの植民地、一時期英の領地にもなりましたけれども、スペインの植民地下で非常に反スペイン運動というのが高まりまして、そういう意味で革命の気運がどんどん高まって、最終的にアメリカも加わった形で革命が成立したということで、フィリピン独立ということで、フィリピン共和国第一次政権ということでアギナルド政権が誕生したわけなんですけれども、これは裏を返せばスペインの植民地下からアメリカの植民地下に動いたということでありまして、何ら変わってないということです。
 スペインから開放された次の年から、極端な話ですけれども反米運動がまたどんどん高まっていくということがございます。
 それからこの当時ぐらいからだと思うんですけれども、日本からの移民も徐々に増えていったということがございます。それから47年に戦争ですけれども終わりまして、ロハス政権、65年にマルコス政権が誕生して先ほどのスライドに戻る。







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