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2003/06/12 産経新聞朝刊
【正論】理念的仲介のみで中東和平は動かず
作家 曽野綾子
■“似た者同士”の溝埋める智恵を
<<他者が与える平和は偽り>>
 イラク戦争で圧勝したアメリカのブッシュ大統領は今度は中東和平に乗り出した。この原稿を書いているのは六月七日だが、五日付朝日新聞は社説で「この一歩を今度こそ」という見出しの期待と訓戒に満ちた論評を載せている。
 中東和平は、政治家の最大の腕前を示す勲章だろう。それを実現できれば、世界の歴史に残る超一流の政治家だということになるからだ。
 今回ブッシュはイスラエルのシャロン、パレスチナのアッバス両首脳に、パレスチナ国家樹立と平和共存に向けた「行程表」の履行を約束させた。朝日新聞は書く。
 「停戦を根付かせなければ、『行程表』の作業は進まない。何より必要なのは、散発的なテロや銃撃戦が起きても衝突のエスカレートを抑え、停戦合意が壊れないようにするための枠組みだ」
 それを可能にするのは、米政府派遣の少数の停戦監視団ではなく、欧州連合やロシアをも含めた国際監視団でなければならないそうだ。
 国連であろうが、他国の軍事集団が駐留しなければ保てない平和は本物ではない。
 「対パレスチナ強硬派のシャロン氏は、米国の要請に応じて『違法入植地』の一部撤去やパレスチナ政治犯の一部釈放、自治区の封鎖解除を決めた」と朝日は書いている。
 違法入植地というのは、どこを指すのか、実は私には厳密にはわからないのだが、あの辺りを旅していると、時々鉄条網などで囲まれた小さな岡の上に、プレハブ式の家が兵舎か官舎のように並んでいるのを見たことがある。それも違法入植地だと説明された。森や湖があって是非とも住みたいようなきれいな土地ではなく、何でこんな殺風景な岡の上に、イスラエル人たちは自ら武装し、子供たちにまで危険を冒させてもたてこもらねばならないのかというと、この地名が旧約聖書にたった一回出てくるからだという。聖書に一回でも出て来た土地はすなわちイスラエル人の祖国だから、パレスチナ人たちに明け渡すことはできない、というのだ。
 シャロンが政治的にアメリカとの間に何を決めようと、こうした頑強な人々の全人生を賭けた考えを変えさせることは、不可能に近いだろう。
<<共学の小学校建設の勧め>>
 対するパレスチナ人も、しかしユダヤ人たちと同じような考えを持った人たちだ。だから中東和平は、かつてはモンロー主義などというものさえあった遠くの大陸からやって来たブッシュなどの理念だけの仲介でできるものではない。よく似た論理を持ちつつ対立している当事者同士にしか解決の道はないのである。
 先日、或る人と雑談の中で、私が働いている日本財団はこうした和平の動きに何ができるか、と質問された。私は大きなことはできませんが、イスラエルとパレスチナの人たちが望むのなら、今イスラエル側が築いている「中東の壁」のすぐ傍(そば)に、イスラエルとパレスチナと両方の子供たちを集めた「共学の小学校」を実験的に建てることならするでしょうと答えた。
 その学校はまず双方の人々が可能だと判断し納得しなければならない。先生は両サイドから出て、共にまず「神」に祈ることから始める。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の信仰者が、それぞれの信仰を冒し合わないことを習慣づけるためだ。
 その学校はできれば貧しい家庭の子供たちの学校で、小さな畑と花壇を持たなければならない。共に土地を耕して食べるものを生み出し、花に共通の歓びや安らぎを見いだすためである。
 こうした共学が可能かもしれないのは、アラビア語とヘブライ語はその三〇%が共通語だから、同じ授業を受けることが決して不可能ではないからである。
<<双方が譲らぬ美学の人々>>
 イスラエルもパレスチナもどちらも、それぞれの、宗教的、派閥的、部族的、政治的、経済的立場を、強硬に固執して決して譲らない人々である。協調、妥協、淡白に振る舞うこと、などというものは、彼らの美学の中にほとんどないだろう。アメリカ大統領が理念で和平の仲介などしても、まず受け入れるものではない。旧約聖書以来、両者は様々な外的要因に対して、常に戦い、正義の感覚を理由に報復を繰り返して来たのだ。
 こうした膠着(こうちゃく)状態の中にある民族と文化の中に和平がやって来るのは、皮肉な言い方だが、たった一つの条件しかない、と私は思う。それは彼らが芯から抗争に疲れてしまった時だけだが、両者は強靱(きようじん)な人たちで、まだ疲れ果てるところまでは行っていないから和平も当分望み薄である。
(その あやこ)
◇曽野綾子(その あやこ)
1931年生まれ。
聖心女子大学卒業。
作家。日本財団会長。
 
 
 
 
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