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2003/01/07 毎日新聞朝刊
[民主帝国アメリカン・パワー]第1部 イラクとの戦い/6 「国際世論をつくれ」
◇発信情報の確度に疑問も
 「戦争は売り物じゃない。私たちは買わない!」
 4人の中年女性が演壇に駆け寄り、戦争反対を訴えるピンクの横断幕を広げた。昨年12月18日、ワシントンのナショナル・プレスクラブでの記者会見。演壇に立つのは「広告界の女王」と呼ばれるシャーロット・ビアーズ国務次官(広報担当)だ。
 ビアーズ次官(67)は冷静に切り返した。「ありがとう。米国には発言をさえぎる自由があるけど、イラクにはありますか?」。聴衆から拍手がわき、平和活動家らしい4人の女性は追い出された。
 米国屈指の広告会社会長から転身したビアーズ氏は、「モノを売る」達人としてビジネススクールの教科書にも登場する。一昨年9月の同時多発テロ後、米政府の情報戦略の責任者に抜てきされた。「パブリック・ディプロマシー」(大衆外交)と呼ばれるその職務は、外国の大衆向けの世論づくりだ。
 
 騒ぎの直前、ビアーズ次官は完成したばかりの政府広報誌「イラク 恐怖から自由へ」を紹介した。「1988年3月16日、イラク北部の町ハラブジャで、イラク軍の毒ガスにより5000人のクルド住民が死んだ」という内容で、イラク攻撃への支持を訴える意味を込めて、世界中に配布されている。
 冊子には、赤ん坊を背負ったまま道端に倒れる女性や、息絶えた子どもたちの写真が多い。「我々が発信する情報は心を打つ物語でなければ」と次官は言う。ハラブジャ事件にはブッシュ大統領もしばしば言及、「自国民を毒ガスで殺した非道なフセイン政権」の象徴となっている。
 しかし、この事件には実は謎が多い。当時、米中央情報局(CIA)のイラク担当だったステファン・ペレティエ氏(米国の陸軍戦争大学元教授)は「毒ガスはイラクではなくイランのものだった」と主張する。当時はイラン・イラク戦争のさなかで、犠牲者はイランしか持たないシアン(青酸)ガスで死んだ兆候を示していた、というのだ。
 元教授によると、ハラブジャを現地調査した国防総省の情報機関は90年春、部内報告として、クルド人殺害はイランのガスによるものと結論付けていた。ところが、連邦議会の調査委員会は「イラク軍がマスタードガスと神経ガスでクルド人10万人を殺した」と発表し、イラク虐殺説が広まったという。
 だが、密室ではなく戸外に散布したガスで一度に10万人も殺せるのか――。首をかしげる専門家も少なくなかった。その後、広報誌のように「5000人」という死者数が多用されるようになったが、昨年10月のCIAの報告書は死者を「数百人」と記し、宣伝用の数字(5000人)と大きな食い違いを見せている。
 
 真相はやぶの中だが、ハラブジャ事件に限らず、確たる証拠がなくても、一度表に出た情報は独り歩きして世論を形成していく。米政府が広告界の大物を雇い入れるのは、世界的なイメージ戦略を重視しているからだ。
 パブリック・ディプロマシーの予算は、冷戦終結後4割近く削減されたが、同時テロを受けて増加に転じ、今年度は約2億9000万ドル(約345億円)が計上された。その活動の大半は、アラビア語の若者雑誌の発行など中東地域向けだ。次官の補佐役を務めるクリストファー・ロス氏は「活動の狙いは米外交を後方支援すること」と語る。
 情報戦に腐心する米政府の姿は「VOA事件」にも見て取れる。テロ直後、米政府系メディア「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)は、アフガニスタンを支配していたタリバン政権の最高指導者オマル師との会見に成功した。
 普通なら大スクープだが、これを放送しようとした一昨年9月21日、国務省から「VOAは『タリバンの声』ではない」と待ったが掛かった。4日後に放送が許された番組には、オマル師のほかブッシュ大統領やアフガン専門家の声が盛り込まれていた。
 テロ後の米国に、ビアーズ次官が誇るほど「言論の自由」があるかどうか。国益重視で発信される情報が常に正確、公正とは限らない。湾岸戦争(91年)時の情報戦に詳しいジョン・マッカーシー氏は「ホワイトハウスは世界最大の広告会社だ。対イラク戦争は間違った情報に振り回された結果、始まるだろう」と警鐘を鳴らす。
(「民主帝国」取材班)=つづく
◇大衆外交
 通常の外交活動とは別に、外国の一般大衆に直接情報を流し、国際世論の形成を図る活動。自由、民主主義など「米国的価値観」を広めるのが目的だが、同時多発テロ以降はイスラム圏での米国のイメージ改善のほか、イラク問題やパレスチナ問題などで、米国への理解を求めることが緊急課題になった。若者に影響を与えるため、テレビ、ラジオなどを多用する。
 
 ■写真説明
 外国向けの宣伝を担当するビアーズ国務次官=ワシントンで、加古信志写す
 
 
 
 
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