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日本の先進国への歩み
 インドネシアのお話は少し脇に置きまして、我が国が先進国の仲間入りをするまでの歩みを1950年から振り返ってみたいと思います。思い出していただければ、終戦直後のあの厳しい食料難そして食料の増産、その後エネルギーの中心は石油に代わっていきましたがエネルギー増産のために「石炭を掘れ掘れ」といった時代もありました。やがて素材産業から製造業を主体とする軽工業の発展により付加価値の高い製品を大量に生産し、海外に輸出し外貨を稼ぎました。輸出することで高度経済成長が可能となったと思います。
 そしてまた、農村から都市へ若い人口が移動し、良質の労働力が供給されました。上下水道や交通網などインフラストラクチャーも急速に整備されました。また重要なことは、国民健康保険を含む社会保障制度の体制が整備されたことです。保健医療体制・制度の整備の進展もあいまって、我々日本人の所得水準、生活水準、健康水準は今日の恵まれた状況に到達したわけです。
 ここまでに至ったのは、もちろん各界の指導者から労働者に至る国民すべての努力と、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの軍需景気をきっかけとする高度経済成長に負うところが大きいのですが、私がここで強調したいのは、地域においても、それから企業においても、現場で、行政当局のその最前線にいる人達が、また専門家が、そしてその地域の住民が一緒になって工夫を凝らして生活水準向上のために一生懸命努めた、この努力に負うところが大きかったということです。今私が取り組んでいる産業保健推進センターの仕事も、昔の人々に負けないくらいの工夫をして、業績を上げていかなければならないとの思いを新たにします。現在我が国のすべての領域においてそのことが求められていると考えます。
 
フィラリア対策の経験
 行政、専門家、地域住民が一体となっての取り組みについて、古い話で恐縮ですが、私の経験談を以下ご紹介したいと思います。私が研究者として、公衆衛生の領域で働くきっかけともなった経験です。
 若い医学生の時代、それはちょうど、1950年代の末から60年代の初めの頃です。その時目白の伝染病研究所の佐々学教授が組織されたフィラリア病駆除研究班の一員として、奄美の沖永良部島で1カ月調査をしたことがありました。
 昔から鹿児島南部地方から以南の島々では、2割から4割の住民の方がフィラリアにかかっていました。フィラリアは長さ10cm、太さ1mmの大きさで、ヒトのリンパ管に寄生し、リンパ管をふさいで象皮病を起こしたり、腸管から吸収した栄養分が尿に出てしまう乳び尿、熱発の状態になる「草ふるい」などの症状を起こします。この対策としては、保虫者の治療とアカイエカの駆除です。それを駆除するために、佐々先生達と一緒に現場に行ったのです。よくテレビに出ておられます養老孟司先生、感染症研究所の吉倉廣先生などもご一緒でした。その時の経験は、より訓練されたチームが一丸となってやることによってすばらしい成果が上がるということを学んだ非常に重要な経験となりました。
 フィラリアを駆除するためには、フィラリアの中間宿主であるアカイエカを駆除しなければなりません。そのために、生活用水の入っているかめに蓋をするとか、あるいは水たまりをなくす、殺虫剤を播くなどの地道な仕事が必要となります。それから、夜にならないとこのフィラリアの幼虫はリンパ管から血管に出てこないものですから、夜8時以降に住民の方々の耳たぶから採血し、フィラリアの幼虫がいるかどうかということを確認しなければなりません。
 次にフィラリアの保虫者に薬を投与しなければなりません。フィラリアの治療薬としてスパトニンという特効薬がその頃できて、これが1人500円かかるのです。当時の500円は非常に高価なものでした。しかも、住民の方たちは、フィラリアがいても、ご自分が病気だと思っていないのです。西郷隆盛の陰嚢水腫は有名な話ですが笑い飛ばしているようなところもありまして、そこをなんとか納得してもらって治療しました。これには5年にわたる調査班の努力と、それから厚生省、地元の行政の方々の努力、さらに住民すべての努力が結集したからでした。
 
家族計画活動
 もう1つの話もその当時のことですが、北海道の稚内、猿払村、ここに無医村診療の巡回班の一員として、1カ月参加しました。巡回班リーダーは、この広い北海道の原野を担当されていた、国民健康保険組合所属の大西若稲という保健婦さんでした。この方と一緒に仕事をし、彼女から十数年間にわたる家族計画を含む母子保健、生活改善活動についてのお話をうかがいました。1960年と言いますと、もう既に日本は人口転換の段階に入っていたのですから、既に過去の話ということになります。
 話は前後しますが、1955年に東京で国際家族計画会議という国際会議が開かれました。その時の記録を読みますと、会長の下条先生は日本の人口の状況と家族計画に対する日本の考え方を述べたと書かれています。日本でこの会議が開かれた理由は、途上国日本が産児制限に成功した、その話をぜひ聞きたいという外国人参加者のなみなみならぬ関心があったからだそうです。その時に、会長の下条先生はこの家族計画は多産多死から貧困に苦しむ日本の婦人達を解放する運動なのだと主張されています。また、加藤シヅヱ先生は、この会議の議論の重要な結論として、当時、日本では人工妊娠中絶がかなり広く実施されていたが、人工中絶ではない避妊方法を十分習得して、初めて家族計画はより実効が上がることが確認されたと報告しています。
 この大西さんは保健婦で助産婦でもありました。しかも、若いときは、東京で女優をしていた情熱家でした。彼女は猿払原野の開拓地で、それこそ朝早くから夜遅くまで仕事、家事に働きずくめの主婦たちに共同炊事の企画運営、栄養改善指導、特に受胎調節指導、さらに、寄生虫、成人病などの健康管理を行うかたわら、助産婦としても活躍していました。初めは主婦だけの集まりだったのが、受胎調節指導に夫たちも集い、冗談と笑いの中で、村全体の家族計画運動になったと話していたのを思い出します。彼女の意気込みもあると思いますが、彼女は目前にあるいろいろなトラブルを解決する能力を生まれながらにして持っているようでした。
 この地域で、この時に村民とともに今盛んに言われているReproductive health/rightを実践していたのだと思います。彼女の猿払原野でやっていた母子保健・生活活動の仕事は、行政当局の最前線の末端での活動というより、「彼女自身の創意・工夫による運動だ」と当時の私は理解していたのですが、「大西さんのような人々が行政、地域、企業の現場に多数いて、今日の日本を築き上げた」ということに最近気づき始めています。
 
まとめ
 はじめに私は、人口問題とは人口集団を構成する個人個人に生存・生活を保障するための資源、手だてをいかに用意できるかということだと述べました。インドネシアも急速に工業化、都市化が進み、人々は豊かな暮らしを求めています。先に述べたように、人口構造、疾病構造で見る限り、1950年当時の日本のレベルに現在至っており、20年後には従属人口指数も底を打つと推定され、現在下降の途中にあります。JICAは1969年以来、当地で家族計画のプロジェクトを立ち上げ、母と子の健康手帳プロジェクトを実施しているとのことです。そこでは日本の家族計画・母子保健活動の経験が生かされていると思いますが、ぜひその成果を知りたいものです。
 これからのインドネシアの国民が豊かになる道筋ですが、1950年当時の日本と、置かれている状況が相当に異なることでありましょう。国民の生活・教育水準、宗教を含む価値観、そして国際環境、情報環境など1950年とは全く異なると思います。彼らが自ら考え、求めている開発、経済的発展、QOLの方向性に沿って、日本の経験と知恵は生かされていくべきだと思います。
 最も遅れているサハラ以南の国においては、それこそ日本にすべて課題を丸投げされて制度、体制そのものの立ち上げをするような要請もあるのかもしれませんが、基本的には、その国の人々が自らどのように幸福を確保するか考えてもらうべきでしょう。しかし、ゴールは少なくとも、今、目の前に見せられている先進国で享受している健康、社会福祉、社会保障、公衆衛生の水準に達することでありましょう。これを何人も否定できますまい。しかし、現実は貧富の差が広がりつつあります。一方、日本を含め東アジアの地域のごとく人口転換に成功しつつある地域も増え、経済の自立を求めて努力しています。
 多産多死の最貧国に対して、もっと積極的に先進国は、貧困からの脱出のために資金と知恵を出さねばならないと思います。50年後には世界人口は91億と推定されています。これを支える持続的供給可能な資源が一体確保できるか疑問でありますが、もっと真剣に我々は他の国の人口問題を考えねばならないと思います。
 ご清聴ありがとうございました。
 
広瀬:
 村上先生ありがとうございました。
 それでは、次に「少子・高齢化が社会に与える影響」です。現在、我が国が直面している最もシビアな問題ですが、この問題につきまして、気鋭の人口学者である、小川直宏先生にご登壇いただきます。小川先生、よろしくお願いします。







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