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【ターミナルの時間を院内グループホームで過ごした症例】
■症例2
年齢: 76歳(死亡時) 女性
病名: (1)多発性脳梗塞(痴呆、右不全片麻痺、小脳失調)
  (2)廃用症候群
  (3)がん性腹膜炎(入院後発症)
  (1)(2)による活動性の低下、易転倒性がある。
 
〈経過〉
 山形県出身。幼な友達であり、兄の友人であった亡夫と結婚し上京。専業主婦。和裁が得意な1男2女の母。昭和57年頃より長男一家と同居。
 平成4年、夫と死別した頃より痴呆が始まり、家に閉じこもりがちとなる。平成6年6月、脳梗塞を起こし、痴呆が進行したものの、大きな障害は残らず、普通に生活していた。平成8年11月、食思不振から脱水・貧血となり、某院内科入院加療後、他院を経由し、リハビリ・長期療養目的にて平成9年2月26日、当院入院となった。
 入院時、表情は乏しく、記銘力障害・時間的失見当識著明、疎通は比較的良好だったが、外的刺激にさほど興味を示さず、受け答えは支離滅裂という状況。転倒頻回で青あざの絶えない時期もあったが、幸い大事に至ることはなかった。
 同年12月より院内グループホーム(下記考察参照)へ参加、編み物、習字、絵画などを行いながら日常生活を送った。
 すると、徐々に笑顔を取り戻し、表情に喜怒哀楽がみられるとともに、受け答えもはっきりし、社交的となり、他患を気遣い、面倒までみるようになった。体力的にも回復し、転倒の頻度も減少した。
 平成10年8月下旬より腹痛、腹部膨満、食思不振が出現。腹部echoにて腹水を認め、某大学付属病院に依頼した腹部CT上、がん性腹膜炎(原発巣不明)と診断(ちなみに腫瘍マーカーCEA、AFP、CA19−9はすべて正常範囲)。ご家族と話した結果、これ以上の積極的精査・加療はせず、本人にも告知しないことで合意した。病状的に20日間ほどグループホームを休み、適宜補液施行。
 しかし、全身状態に改善がみられないため、QOLの向上をめざし9月中旬よりグループホームに復帰したところ、むしろ経口摂取が良好となり、点滴の必要性はまったくなくなった。腹痛も時にみられる程度で、あっても自制内で経過した。
 10月上旬、故郷山形へお祭り見物のため一泊の帰郷。ご家族からの急な申し出だったため、医師、看護婦は同行できず、急変時に備え診療情報提供書を持たせたが、道中何事もなく、翌日無事帰院した。その後も年内は平穏な日々が続いた。
 平成11年に入り、腹痛が強くなり、アンヒバ、ボルタレン坐薬を使用。しかし、1月中旬にはそれでも腹痛が治まらず、ソセゴン、アタラックスPの筋注を併用。腹部が緊満し経口摂取も低下、グループホームを休み連日点滴(少量のラシックスを併用)でフォロー。ただし、末梢ルートキープ困難、中心静脈確保も検討されたがご家族と話し合い、末梢ルートをとれる日のみ点滴することで合意(それも刺し抜きではなく、極力留置針を維持するよう対応)。
 1月下旬、衰弱著明。亡くなる1週間前よりグループホームの仲間たちが連日見舞いに訪れ、本人も元気づけられたように思う。
 2月1日午後、血圧低下、下顎呼吸、意識混濁するも腹痛訴えあり、積極的にソセゴン筋注。酸素1リットル使用。午後9時過ぎ、ご家族に見守られながら安らかに永眠された。悲報を聞き号泣するグループホームの仲間の姿が印象的だった。
 
〈考察〉
 当院では痴呆のリハビリテーションの一環として院内グループホームケアに取り組んでいる。グループホームでは、それまで生きてきた中で慣れ親しんだ動作や行為を少しの手伝いや見守りのもとで行ってもらうことにより、自分の自信や生きがいを再確認し、自分の生きるべき価値を自覚してもらおうという試みである。いわゆる記銘力障害や失見当識といった医学的な痴呆を「治す」ためのものではなく、痴呆を「よくする」ことに主眼を置いている。
 本症例においても、入院後の対応によってはターミナルへ移行しかねない状況で、積極的にグループホームに参加してもらい、日常的な動作(ご飯をよそる、テーブルを拭く、茶碗を洗うなど)と、趣味的な行為(編み物、習字、絵画など)を行うことにより、人間らしさを取り戻し、ターミナルを回避できた好例といえよう。
 しかし、スタッフ一同喜んでいた矢先に末期がんと判明。今度は視点を変え、がんのターミナルとしてグループホームへの参加を促し、亡くなる約2週間前まで家庭的な生活を営むことができたことから、末期がん患者のQOLの向上と疼痛の緩和に、グループホームが一役買ったものと考え、がんターミナルケアにおけるグループホームの有効性についても、ここに提唱したい。
 さらに忘れてならないのは、グループホームの仲間たち(もちろんみな痴呆老人)が涙する人間的一面も垣間見られたことと、痴呆のため、翌日には忘れてしまう一時であれ、彼らにとって、大切な友人を失ったという心を呼び戻す瞬間を持たせたことが、本症例の存在価値の証になったということである。
 ただし、課題も残る。疼痛緩和に関しては、もっと積極的に薬剤を使うべきではなかったか。そうすることにより、QOLのさらなる向上のみならず生命予後を延ばすこともできたのではないか、と言ったら望みすぎであろうか。
 医学の進歩とともにわれわれ日本人の寿命も確実に延びてきた。しかし、その進歩した医学を駆使すれば、「私の父(母)はもっと生きられるはず」というような妙な神話めいたものが、ターミナルを迎えた老人を取り巻く一部の家族に根づきつつあるようにも思う(実際、QOLを無視すれば、医学は人間の寿命をもっと延ばせる域にまで進歩した)。
 これに対し末期がんと診断された老人の家族は、不思議なほど素直に、自分の父あるいは母のターミナルを受け入れることができる。「寿命」と言われるより「病気」と言われる方が、親が死を迎えるということに納得できるという、変な構図ができあがっているのである。言い換えれば、ふんぎりがつけやすいということだろう。
 その一因として末期がんを含めたさまざまな病気には明確な判断基準があるが、寿命にはそれがないというところだが、人に命に一定の基準が設けられてはたまったものではない。
 いずれ医学は末期がんをも克服するかもしれないが、寿命には永久に勝てないのだ。生あれば死がある、これは動かし難い現実である。だからこそ生命は自然淘汰を経てここまで進化した。なのになぜ、われわれは、人間は、医学は、科学は、それに逆らおうとするのか。あらゆる生物のなかで唯一高度な知能というものを授かった人間の傲慢さに他ならないのではないか。人間は今後も「進歩」はするだろうが、「進化」することはできないのではないか、と私は危惧している。核家族化・病院死・政治・経済・宗教・文化・マスコミなどほかにもさまざまな問題のタネはあるが、ここで論じている余裕はないので別の機会にゆずる。
 こういう問題を踏まえて、われわれ老年科医は、人の寿命とはどういうものかということを社会に啓蒙する役割をも担っているのだと考えている。
 
【家族は点滴を拒否したが、糖尿病性昏睡の緩和治療として家族と話し合いながら行った症例】
■症例3
年齢: 86歳(死亡時) 女性
病名: (1) アルツハイマー型痴呆
  (2) 左大腿骨頚部骨折術後廃用症候群
  (3) 糖尿病
 
〈経過〉
 伊勢山田にて出生。海辺の町で育つ。20歳頃上京し、姉の知人宅で家事手伝いとして働いていたところを見初められ、その家の息子と23歳頃結婚。2男1女をもうける。夫の会社の倒産などもあり、30歳頃から70歳頃まで内職をして生活。60歳頃夫と死別し、次男・長女が独立してからは、独身の長男と2人暮らし。しかし日中はほぼ独居状態であった。
 平成元年(74歳)頃より物忘れが始まり徐々に進行。平成6年、難聴のため補聴器を使用するようになってから「泥棒が入った。」「変な人が見ている。」など妄想的な発言がみられ、日中の独居が困難となり、平成7年9月より次男一家と同居。この時既に嫁や孫のこともわからず、徘徊したり、昼でも寝ていたり、夜でも電気もつけずにボーッとしていたりという状態だったが、デイサービスを利用しながら何とか在宅生活を送っていた。平成9年3月、転倒して左大腿骨頚部骨折を受傷し手術を受けたが、以後、寝たきりの状態が続き痴呆も進行したため平成10年10月19日当院入院となった。なお、この手術の入院の際、糖尿病がみつかり一時はインスリン治療も行っていたが、当院転院時は食事療法のみとなっていた。
 当院入院時、会話は可能だが返答は支離滅裂で重度の痴呆。しかし、精神症状・問題行動は既に鎮静化しており、穏やか。ただし、下肢筋力低下が著明で歩行不能にもかかわらず、不意な起立動作がみられ転倒要注意状態。これに対するリハビリテーションと、糖尿病に対して1200kcal/日の食事療法を中心に加療・ケアを行った。
 時に転倒もあったが大事には至らず、糖尿病に関しても一時オイグルコンを使用したが、逆に低血糖傾向となり、4カ月ほどで投薬を中止。穏やかな日々が続いていた。
 平成12年夏頃より発語及び日中の覚醒レベルが徐々に低下。平成13年春頃には呼びかけに返答はあるものの日中もほとんど閉眼状態で、ターミナルへさしかかっているものと思われた。
 平成13年7月、呼吸困難等はなかったが、心不全によると思われる四肢の浮腫と胸部X線にて胸水を認め、少量のラシックス内服を開始。家族にもターミナルである旨を伝えたところ、「もし食べられない状況になっても点滴などの医療行為はして欲しくない。最期まで口からの摂取で自然な形でお願いしたい。」との希望があった。ただし、発熱に対する抗生剤等、延命ではなく緩和治療的に必要と判断される場合は例外であることも確認した。
 9月22日より37〜38℃台の発熱が持続。感染症+脱水と思われ、抗生剤を含めた点滴治療を開始。それでも家族は点滴に対する拒否の思いが強く、結局、感染が改善しても食べられないようなら500ml/日程度の点滴で経過をみることとなった。
 しかしその話し合いがなされた翌日、けいれん発作・意識障害・右への共同偏視・左不全片麻痺が出現。脳血管障害も疑われたが、デキスターにて血糖「HI」と測定不能・尿糖強陽性・尿ケトン陰性より高浸透圧性非ケトン性糖尿病性昏睡と判断(後の血液データでも高血糖・高浸透圧・高ナトリウム血症を確認)。低張食塩水の点滴とスライディングスケールによる2回/日のインスリンの皮下注を開始。それでも家族は点滴に対する反発心があり、ほぼ連日のように密に話し合いながら治療方針を決定。最終的には、本人に苦痛のないようお見送りしたい、という思いは家族も我々も同じであることから基本方針として、
(1)最小限の輸液管理と血糖コントロールによるけいれん予防
(2)発熱に対する抗生剤・解熱剤の使用
(3)酸素吸入による呼吸の安定
(4)顔をむくませないこと
(5)褥瘡をつくらないこと
を主体に加療・ケアを継続。
 その後、一度もけいれんは起こさず、発熱も治まり、呼吸の平静も保たれ、顔もむくまず、褥瘡もできず、亡くなる3日前には入浴、2日前には散髪もし、平成13年10月18日午前10:46、安らかに永眠された。家族から我々スタッフ一同に心から感謝の言葉を頂いた。







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