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病院における痴呆患者のターミナルケア
上川病院
吉岡充、吉岡あき子、丸茂光二
 
【きちんとした治療やケアで痴呆老人の尊厳を最後まで保つべき】
 高度痴呆の老人は、言語によるコミュニケーションが難しいことや、自己の状態をよく認知できないために治療やケアに非協力的であったり、そのターミナルには困難がつきまとう。
 まだ寿命は残っていたはずなのに、その問題行動の故に「抑制死」などという運命をたどる人もいる。しかし、これはあってはならないことである。痴呆老人にも、きちんとした医療やケアがなされ、彼らが人間としての尊厳を保ちながら、人生の終末を迎えられるようにすべきだと思う。さまざまな生があるように、さまざまな死がある。
 ここでは、当院での痴呆老人の3つの死の看取りの症例を紹介する。
 1例は、激しい問題行動があったが、その人らしさを大切にした適切な治療とケアで次第に穏やかになり、最後にIVHまで受けて、惜しまれて亡くなった症例。2例目は、ターミナルの時間を院内グループホームで過ごした症例。最後は、家族は点滴を拒否したが、糖尿病性昏睡の緩和治療として、家族と話し合いながら治療を行った症例である。
 
【痴呆の進行で激しい問題行動が見られた症例】
■症例1
年齢: 82歳(死亡時) 男性
病名: (1)脳血管性痴呆
  (2)パーキンソン症候群
  (3)硬膜下血腫術後
 
〈当院へ入院するまで〉
 平成3年頃(75歳)から痴呆症状が出現し、「お金をここに置いておいたのになくなった」等、記銘力障害が強くなり、本人にちょっと難しい話をすると、「頭の中でゴキブリが騒いでいる」などと言うようになり、日課もしなくなっていった。
 平成4年、自宅近くの神経内科を受診したところ、パーキンソン病と診断された。
 次第に痴呆が進行し、夜間不眠、徘徊、転倒、物を盗まれたと騒いだり、家族も疲れ果て、平成8年6月、有料老人ホーム(痴呆棟)に入居した。間もなく食堂の椅子に座り損ね、頭を打つ。頭部CTスキャンを撮ったところ、硬膜下血腫が見つかり、ホーム近くの脳外科で血腫除去術を受ける。
 その後、人が変わったようになり、元来の性格にも手の早い傾向があったが、頻回に乱暴するようになり、夜間不眠、徘徊、転倒、不穏の状態が続いた。8月頃から、筋強剛、すくみ足、排尿障害などの症状が強くなり、ホーム近くの神経内科を受診し、頭部MRIを撮影したところ、パーキンソン症状+痴呆+硬膜下血腫後遺症のため、転倒しやすい状態と診断され、精神病院を紹介されるが、本人も家族も入院を拒否した。
 神経内科より向精神薬も処方された。薬の種類や量など、いろいろ調整されたが、日中も傾眠傾向、起こすと暴力をふるうという状態のまま、次第に衰弱していった。平成9年になってからは、肺炎等でホームで臥床状態。肺炎が軽快すると、じっとしておれず、さっそく転倒し、後頭部に怪我。ホームでの介護も限界となり、平成9年2月17日、当院に入院となった。
 
〈入院後の2カ月間〉
 長期臥床後で栄養不良、るいそう著明。目がギョロリとしていた。嚥下困難で、最初はプリン1個を介助で食べるのがやっと。むせこんで飲み込めない。ターミナルである。残された時間を人間らしく過ごすために当院にやってきたといえる。
 ナースたちは、根気よく、たいへんな時間をかけて、食事介助を続けた。一方、歩行も困難で、車椅子に座っていても、じっとしておれず立ち上がって転んでしまう。前後の脈絡はつかないが、短い断片的な会話は可能。HDS−R(改訂版長谷川式簡易知的機能評価スケール)7点。
 問題行動も活発で、しばらくは、手が出る、足が出るの状態。スタッフにも、他患にも、乱暴が激しい。手を押さえると噛みつこうとする。顔面や腕を思い切り叩く。他患が車椅子に座っていると蹴飛ばしたり、食器を投げつけたりもした。つねったりもする。ナースがなぜ叩くのか尋ねると、「分からない。病気だから」との応答。パーキンソン様のたどたどしい小刻み歩行で、見守りの間をぬって、あちこち動いてしまい、転倒、打撲すること頻回。
 家族には、入院時に、起こりうる一般的な危険について、特に誤嚥、転倒による事故の可能性について説明する。家族は「承知しています」と述べ、転倒については「それでも自由にさせてほしい」と希望。できるだけの注意はすると約束する。
 また、向精神薬が必要な旨も話し、了承を得て開始する。老人の場合、ハロペリドール(0.75mg)1/2錠程度のきわめて少量で穏やかになる場合が多いが、この症例の場合は、ある短い時期、以下の量を使用した。当院では通常、このような量を使うことは少ない。最大量に近い量である。
 
(1) ハロペリドール (0.75mg) 2T  
  タスモリン (1mg) 2T  
        2×朝夕食後
(2) ニューレプチル (5mg) 1T  
  ピレチア (25mg) 1T  
  サイレース (1mg) 1T  
  アタラックスP (25mg) 1T  
        1×眠前
 
 暴力は少しずつ減っていった。転倒してナースが必要なときもあったが、病棟レクに参加したりするようになり、次第に穏やかになる。
 3月11日頃より、38℃くらいの発熱。上気道感染。向精神薬は直ちにすべて中止した。解熱、軽快後は、以前ほどの勢いはなくなったが、それでも叩いたり、スタッフの顔にご飯をかけたりしていた。4月13日、入院して約2カ月が経過し、家族を交えてカンファレンスを開く。
 この頃より、いくら時間をかけて介助しても食事を口の中にため込んでしまい、飲み込めなくなる。食事を十分量摂取できなくなり、補液をすることが多くなったが、それでも時々乱暴していた。
 
〈それからの1年間〉
 その後も食事介助はあきらめないで続けられたが、ついに経口摂取がまったくできなくなり、ここで家族と話し合い、経管栄養をすることで合意。6月6日より鼻腔チューブを挿入し、経管栄養を開始した。チューブを自己抜去したり、注入中のひととき、手を握ってくれるナースを叩いたりつねったりもした。
 7月10日頃から、左上肢に軽い麻痺が加わり脳血管障害と思われた。
 体調のいい時には、再び経口摂取できないものか、くず湯などで試してみたが、やはり嚥下はできない。何度か試してみたが、やはり食べられない。楽しみのために、好物のアイスクリームを2、3口、介助で食べられる程度の状態。
 時々発熱がみられ、喀痰多量にて肺炎症状がみられたり、感染症を繰り返し、衰弱は進んでいった。
 ついにまったく歩けなくなり、言葉も次第に出てこなくなる。ときおり簡単な発語がみられる程度となった。「ウー、ウー」と唸りながら、終日ベッドで臥床している時期もあり、いつ亡くなっても不思議ではない状態が何度も繰り返された。
 
〈予期せぬ回復と穏やかな日々〉
 ところが、平成10年4月頃から、いくらか元気になり、日中は車椅子に座って過ごせる時間が増えた。誰も予想しなかったことだった。この頃、HDS−R0点、MMSE(ミニ・メンタルステート試験)4点。
 お気に入りの帽子をかぶって、車椅子に座り、ナースステーションで過ごす穏やかな日々。威厳があった。威張っていたと言う人もいる。アイスクリームも、毎日ふた口ほど介助で食べていた。まれに、「コンニチハ」「オハヨウ」「カンゴフサンイソガシイネ」「デンワダヨ」等短い言葉が出る。それでも、あまり動かなくなった手で世話をするナースを時折つねっていた。経管栄養のチューブが、口の中で結ばれていた時もある。自分で自分の舌を使って結んだようだ。家族は、欠かさず面会にやってきて、「元気になって、また旅行に連れてってね」などと、話しかけていた。
 
〈衰弱の進行−臨終〉
 しかし、発熱、喀痰↑→経管中止→経管再開→喀痰↑発熱→経管中止の繰り返しとなり、衰弱もすすみ、末期的状態となり、ついに経管栄養の再開もできなくなり、IVHの検討がなされる。7月29日、IVH管理をしても、予後的には1−3カ月の延命、また、自己抜去してカテーテル残存により致命的な事故が起こる可能性もあることを家族に話したが、全員一致で「できるかぎりのことをしてあげたい」と、IVHを希望する。
 その後、鼠径部からのIVH管理となったが、自己抜去は一度も起きなかった。本人の関心がそこに向かないよう、ナースたちはいろいろと工夫をしていたようである。衰弱はさらに進んでいったが、それでも具合のよい日は入浴したり、車椅子に座って過ごしたり、基本的なケアは続けられた。
 喀痰は多量で、夜間は呻吟が多く、発熱を繰り返し、本当の末期的状態。それでも世話をしてくれるナースを、最後の最後までつねっていた。「まだつねる力があるから大丈夫ね」と、話しかけ、励ました。そして平成10年11月12日、ロウソクの火が消えるように、臨終を迎えた。孫が2時間、号泣した。褥瘡はなかった。
 
〈考察〉
 この症例では、性格変化が顕著となり、乱暴が激しかったので、最初の1−2カ月の間、向精神薬を使用した。この使用に当たっては、まず、化学的抑制にならないように、少量のみを使用することが重要である。たいへん危険な薬であるから、細心の注意を払って使う必要がある。また、使用する時は、医師のみで副作用を観察することは不可能で、他のスタッフ(主としてナース)に副作用チェックのため24時間体制でモニターになってもらうことが不可欠である。
 しかし、この観察技術は、普段からの基本的なケアをきちんと行えていないと望めない。睡眠パターン、食事の量、嚥下運動の変化、立ちくらみ、バイタルサインのチェック、歩き方、姿勢の変化、朝の覚醒、いつもと比べてなんとなく元気がない等、細かい変化を向精神薬の副作用の可能性として観察して、報告してもらう。また、心電図変化も追っていく。そして、どうも危険だと思われたら、直ちに中止することが大切である。
 また発熱等、身体的負荷の強い時も中止する。向精神薬の量を調節しながら再開する。
 時には、「日替わりメニュー」と呼ばれるほど細かな調節が必要となるが、この症例の場合、この原則をふまえての適切な使用により、少しずつ穏やかになり、ケアしやすくなったと言える。
 さらに、5つの基本的ケア(1.起きること、2.食べること、3.排泄、4.清潔、5.アクティビティ)をしっかりと続けることにより、人間らしさを取り戻していった。そして、もちろん一度も縛られることなどなく、経管栄養、IVHまで受け、その人らしく、家族やスタッフの見守りの中で穏やかなターミナルの日々を過ごせたと思われる。
 この症例では、何度も何度も、もうだめだという状態があったが、回復し、途中、小春日和のような穏やかな日々を過ごすことができた。これは、はじめに医療があったのではなく、病院の中ではあってもその人らしい生活をまず考え、そこに適切な医療や看護やケアや家族の思いが加わったからできたことではないだろうか。家族も含めた、その人らしさを大切にしたチーム医療のたまものと考えている。







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