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第1部 構造改革に伴い積極的な取組が求められる行政サービス
 2000(平成12)年の11月に私立大学情報教育協会から、米国にe−ラーニングの視察団の一員として派遣された時の事である。MIT(マサチューセッツ工科大学)を訪れた際に、たまたま偶然ではあるが、完成後まだ1カ月しか経っていない最新の遠隔授業対応の教室を見せてもらう事ができた。
 各履修者の机の前にボタンがあり、それを押せば1秒以内でその受講者の顔を画面に映し出す事ができるという、大変優れた設備を備えた教室であった。但し、注目されるのはむしろ設備の方ではなく、教壇の背後の黒板の存在であった。しかもホワイトボードではなく、チョークが置いてあるという昔ながらの黒板であった。どうしてこの様な最新型の教室にこうした昔ながらの黒板があるのだという質問に対しては、案内役の先生によればファカルティ内でも議論になったそうだが、結局発想が浮かんだ際に直ちにそれを書き留める事ができ、しかも修正も自在な柔軟性に富んだ道具として黒板を凌ぐものはないとの結論に至ったとの答えが返ってきた。
 要するに、ハイテクを利用した方が教育効果が上がる部分については惜しげもなく巨額の資金をつぎ込んでいるし、さらにハード面のみならずソフト面でも立派なオンライン教材をMITはつくっている事が知られている。しかし黒板が良いとなれば、当然の様にそれを使い続けるというバランス感覚も備えている。これは非常に重要な事である。
 即ち、電子政府の話でも、すべてサイバー空間でやるのが良いであるとか、より民主的なのだといった暴論が時々散見されるが、決してその様な事ではなく、やはりその場その場で一番良い組み合わせを選んでいくという知恵を持たなければいけないという事をMITから学ぶことができる(注1)。
 
 1930年代の社会主義経済計算論争において、価格が実際に存在しなくてもそれを計算上求める事ができる事から、社会主義経済は合理的に運営され得るというランゲの主張に対して、ハイエクは、計算を行う為に必要な情報は中央計画当局の手に集まらないと主張した。要するに熟練工の現場の経験知は伝えようのないものであり、さらに虚偽の情報伝達も大いにあり得るという事である。その結果、市場を全く利用しないで経済を適切に運営する事はできないという結論がいわゆる近代経済学者によって導かれた。そして実際に歴史的にはその通りになった訳である。
 しかしその後90年代になって、今度は市場原理主義が跋扈してくる。昔から経済学の世界では、市場の失敗があるという事を伝えてきたにも関わらずである。そして市場の失敗が発生した時に、それを補正する為に政府は介入する必要がある。但し問題は、政府もまた往々にして失敗するという事実である。ところで失敗に関しては二つのタイプのものが存在する。一つは意図しない失敗であり、もう一つは意図した失敗である。
 意図しない失敗に関しては、政策科学に基づく対処が有効であるが、意図した失敗の方は非常に厄介な問題を内包している。これはある意味で民主主義的な政治制度を持つ資本主義経済体制固有の病的な現象であり、永らく公共選択論の分野で研究されてきた。この様な病理的現象に対する対処としては、公共選択論の創始者であるブキャナンによる立憲経済学(Constitutional Political Economy)という立場がある。簡略化して言えば、結局ゲームのルールが悪いから病理的現象が生じるのであって、ゲームのルールをいかにうまく設計するかについて検討するというものである。
 
 さて、意図しない失敗に関しては政策科学により対処すれば良いと前節で述べた。政策科学の基本的な考え方は、ラスウェルにより提唱された「政策志向」(Lasswell[1951])とドロアの「最適政策決定」(Dror[1971])に集約されるが、いずれにしても政策決定プロセスの改善を図る事が大切である。
 先ず初めに、問題を吟味する事により目的を定義する必要がある。そして次に選択肢を列挙して帰結の予測を行う。それから評価基準を設定し、それにより政策評価が可能となる。しかし現実には大なり小なり様々な問題が各プロセスで発生すると考えられる。例えば選択肢の列挙については、一般の市民にとっては、実際には選ばれた政策しか結局分からず、他にどういう方法があり得たかという事に関して必ずしも十分な情報が与えられなかったのではないかと思われる。まして様々な選択肢が仮にあったとして、それぞれの選択肢を採用した時に結果がどうなるのかに関して、正確な情報を住民側が与えられていたかに関しては、大変心もとないと言わざるを得ない。
 勿論、帰結の予測はしばしば容易ではなく、例えば短期的効果と長期的効果の区別をつけた上で、個々の政策の長期的効果まで見なければならない。また直接的効果のみならず間接的効果まで含めて考えなければならない。例えばなぜスーパー301条を米国政府が制定しなければならなかったかという事を考えてみると、こうした法律を設ける事で、相手国によって不公正貿易行為が行われていると認定された場合、議会対策上米国政府としてはどうしても報復にコミットせざるを得なくなる。するとこうした米国政府の脅しは俄然信憑性を帯び、その事が相手国の行動を劇的に変えてしまう。法律の制定により自分の手足を縛るという事は、直接的には自らの行動の自由を束縛し、不利な事である様に見えるが、それは相手の行動を劇的に変えるという間接効果まで含めて考えれば非常に合理的である事が分かる。
 評価に関しても、どういった観点から実行案が選ばれたのかという事に関して、十分な説明がなければならない。ところで政策評価に関しては、二つの視点が存在すると考えられる。行政サービスの提供にあたっての効率性と、住民選好との合致である。有名な三重県の事務事業評価システムにおいては、職員が自分で目標を設定し、それに対してどの程度達成したかという事を年度末に自分でチェックする事になっている。この場合、目標の置き方にも達成度は依存するが、概して行政サービスの提供において無駄を排し、目標達成の為にできる限りの事を行うという意味で効率化が図られていると言えよう。しかしまた、住民が果たして本当に要望していたサービスが提供されているのかといった点については、不明である事も事実である。例えば住民が防犯サービスのより一層の強化を望んでいるにも関わらず、立法過程からのさまざまなノイズによって、下水道の普及率を高める事が住民の選好に適っていると議員に主張される事で、防犯サービスの提供が軽視されるとしたら問題である。即ち、単に効率的だから良いという訳ではなく、やはり真の住民の選好というものをいかに把握するかという事が重要となる。そしてe-democracyは、この様な住民選好の把握に大きな役割を果たすのではないかと期待されている。
 

(注1)
米国視察における他のトピックスについては、小澤太郎[2001b]を参照。







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