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オリヴィア ロベロ ブレイタ(アメリカ)
1937年18歳からハワイ州モロイカ島のカラウパパ療養所に暮らす。ハンセン病にかかるとはどういうことなのか、どのような扱いを受けてきたのか、悲しみ、辛さ、人間として扱われるための闘いを記した Olivia My Life of Exile in Kalaupapa の著者。84歳でカラウパパに健在
 
フランシスコ A.V. ヌーネス“バクラウ”(ブラジル)
ブラジルにおけるハンセン病体験者の社会復帰運動団体 MORHAN の創始者であり、ハンセン病患者・回復者を中心とした国際ネットワーク IDEA の初代会長(啓発担当)としても活躍。偏見と差別に力強く立ち向かった言動と生涯は、多くの仲間を力づけた
 
P.K. ゴパール(インド)
大学入試の受験会場で発病を指摘されるという経験を乗り越え、博士号を取得。南インドのハンセン病院でリハビリテーションに携わる職員として勤務した跡に、回復者としての個人的経験を活かし、IDEA会長(国際関係担当)として回復者の諸問題に取り組んでいる。1996年には、回復者として初めて世界救らい団体連合の医療・社会委員会の専門委員として選出された。南インドタミルナドゥ州にて、妻、娘夫婦と孫娘と暮らす
 
マキア マロ(アメリカ)
12歳で発病し、ハワイ州モロカイ島のカラウパパ療養所に入所。30歳で視力を失うが、37歳で大学に入学。講義はすべて暗記して、7年かけて卒業した。視力喪失、指の感覚麻痺にかかわらず、教員免許を取得し、ピアノの演奏や、コンピュータの使用など様々な分野に取り組み、ハワイの民話などの語り手としても活躍している。妻とホノルルに在住
 
明石 海人(日本)
26歳で発病し、療養生活を続けながら短歌の勉強をはじめ、34歳頃かた短歌を発表。37歳で歌集「白描」を発表し、25万部のベストセラーとなるが同年に死去
 
アントニオ デ オリヴェイラ ボルヘス Jr(ブラジル)
平等の就職の機会を求めた裁判の勝訴の後、国家公務員として勤務。自身の体験をつづった Framents of Life  は英語の翻訳が進められている。2000年には在住しているサルバドール市から、「人間的な市にしてくれた」という理由で名誉賞を受賞した。
 
鄭相権(韓国)
IDEA社会・経済向上担当の会長。回復者の仲間と苦労と乗り越え、定着村での自立の実践を基礎に、韓星協同組合を設立し、一大企業に育て上げた。自らの成功の結果を、発展途上国のハンセン病患者・回復者と家族の自立、経済的・社会的向上のための支援を行っている。韓国ソウル市在住
 
アレガ カッサ ゼレレウ(エチオピア)
ラジオ受信局在職時に診断を受け、勤務継続のため数々の困難に直面した自らが設立した全国ハンセン病患者・回復者協議会初代会長として、またエチオピア障害者連同盟副会長を務め、積極的活動している。ハンセン病を理由に離婚の申し立てをされたが、その痛手から立ち直り再婚し、息子達との関係も修復し、アディスアペパで暮らしている。
 
ミエン ファム ベルチェ(アメリカ)
ベトナム戦争中に難民として単身アメリカに渡り、アメリカ人家庭にメイドとして住み込んでいるときに発病。カーヴィル療養所で化学療法を受け回復、結婚。回復者の尊厳の回復を求めて通気ある発言を続けている。
 
エルネスト カバノス Jr(フィリピン)
18歳で発病し、多剤併用療法にて治療を受ける。セブ島のエバースレイ チャイルズ療養所の介護職員として働く傍ら、療養所周辺の定着村に住む若い回復者の奨学資金活動を続けている。体験者がハンセン病対策活動の中で果たす重要な役割を強調。家族と共にエバースレイ チャイルズ療養所に住む
 
写真提供:パメラ パーラピアノ
Photo by Pamela Parlapiano
 
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