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日米ソ三国間了解覚書へのレクイエム
大阪航空局 大阪国際空港長
早坂 光生
 今年の成人式は、ひと頃と比べると大きな混乱もなく挙行されたようであるが、涙目になってこれを喜ぶ市長さんの姿は何とも哀れを誘うものであった。しかし、一部では相も変わらず羽目を外しワイドショーの格好の餌食にされていた。
 それにつけても暴走族風のド派手な揃いの羽織・袴はいただけない。我々の世代の責任も含めて教育の面での失敗は否めないようである。
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 ところで、坪井栄著・二十四の瞳は「十年ひとむかしというならば、この物語の発端はいまからふたむかし半もまえのことになる」で始まるが、こちらは丁度ふたむかし前、今年成人式を迎えた若者達が生まれた年に発生した大事件である。
 この事件の後始末、つまり、再発防止策(協定締結、専用電話回線の開設等)に深く関わった者の一人として、ふたむかしの歳月の移ろいには感慨を覚えざるを得ない。
 
[大韓航空007便]
この年に発生した極めてショッキングな事件は、ソ連軍戦闘機によって撃墜された民間機、大韓航空(KAL)007便の悲劇である。
 昭和58(1983)年9月1日未明、サハリン沖モネロン島北方海域で、KAL007(ボーイング747型機)がソ連極東軍管区飛行師団所属のデプタット805号(サハリン・ソコル基地発進スホーイ15型戦闘機。ゲナジー・オシポーヴィッチ極東空軍中佐操縦)のミサイル攻撃を受けて撃墜され、邦人27人を含む乗客・乗員269人全員が死亡した。
 後に、オシポーヴィッチ退役空軍中佐は次のように述べている。
(1) KAL007の破壊は、極東軍管区のイワン・トレチャク総司令官が命令し、これを受けてソコル基地飛行師団長のアナトリー・コルヌコフ大佐が撃墜命令を発出した。
(注一) ICAO(国際民間航空機関)最終報告書では、ミサイル発射11分前、同大佐はハバロフスクの極東軍管区司令官カメンスキー将軍から撃墜命令を受けたとされている。
(注二) 後に同大佐はトントン拍子に出世し、平成10(1998)年1月にはロシア空軍総司令官にまで登り詰めたが、TVインタビューで「あの事実を悔いていないし、いま、同様の事態が発生したら、同じように行動するだろう。この思い出は私をいくらか嫌な気分にさせるが・・・」と述べ、被害者遺族の気持ちを大いに逆なでするところとなった。
(2) 命令遂行のため、同戦闘機は速射機関砲を4回、合計243発発射した。
(3) それでもKAL007が着陸命令に従わなかったので、空対空ミサイル2発を発射して命令を完遂した。
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 事件発生当時、私は米国・オクラホマ市にあるFAA(連邦航空庁)アカデミーで空域管理研修を受けており、その日は最終授業があった。担任教官が血相を変えて教室に現れ、激怒しながら事の次第を研修生に説明したものであった。
 翌日、ロサンゼルス経由で帰国の途についた私は、投宿先のコンシェルジェが「ソ連は犬をピストルで撃つように民間機を撃墜した」と大きな身振り手振りで怒りを表していたのを今でもよく覚えている。
 
[日米ソ三国間了解覚書]
 事件発生直後の9月2日、国連緊急安全保障理事会が召集され、西側18ケ国が共同提案国となって対ソ非難決議案を提出したが、ソ連の拒否権行使により不採択とされてしまった。
 一方、未曾有の最悪事態を憂慮したICAOにおいても特別理事会が開催され、各国代表は民間機に対するソ連の係る行為を強く非難し、同種事件の再発防止の保障を強くソ連に求めている。
 また、米国は、ソ連のアエロフロート機が米国の空域を飛行する際、米軍の重要軍事施設の上空に意図的に経路逸脱をしている事実を示し、このような場合でも、米国は指定された経路に戻るよう指示を与えるだけで、決して撃墜するようなことはしていないということを強調した。併せて、将来、同種の事件が再発しないよう信用できる保障をソ連に強く求めている。
 これに対して、当事者であるソ連代表は、国際航空路を飛行する民間機の管制機関による監視の責任、インターセプト(要撃)された民間機の責任についてのICAO規則の整備の必要性について発言している。
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 丸腰の民間機を撃墜したことで、国際社会から激しい非難と憎悪の目を浴びせられたソ連は、昭和59(1984)年1月のシュルツ米国務長官とグロムイコソ連外相の会談を契機に、西側諸国が求める同種事件再発防止策としての「北太平洋航空路における航空交通の安全性増進のための日米ソ三国間の了解覚書」の締結交渉に応じる気配を見せはじめたのである。したたかで老獪なグロムイコ外相もさすがに国際世論には配慮せざるを得なかったのである。
 これには我が国も積極的な外交攻勢で臨み、ワシントン、モスクワ及び東京での協議を経て、昭和60(1985)年、7月29日に了解覚書が締結されるに至った。表現上は大韓航空機事件に触れるのを避け、政府間合意という形が採られた。
 また、10月8日には、東京で安倍晋太郎外務大臣(拉致問題で活躍中の安倍晋三内閣官房副長官の父君)と米ソ両駐日大使による外交レベルでの口上書の交換が行われた。
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 一方、了解覚書を実施に移すための「東京、ハバロフスク及びアンカレッジ管制センター間協定(3ACC間協定)」の交渉が直ちに開始され、この結果、11月19日にワシントンで日米ソの航空当局者の代表が署名し、昭和61(1986)年1月28日に発効した。KAL007の撃墜事件から実に2ヶ年余りが経過していた。
 この協定では、発効から210日以内に運用を開始しなければならないこととされており、そのための3ACC間の直通電話回線の新設や各種運用要領等の準備作業が精力的に進められた。
 
[ソ連口上書(官報第17627号]
 第494号 ソヴィエト社会主義共和国連邦大使館は、日本国外務省に敬意を表するとともに、本日付けの日本国外務省の口上書第133号を受領したことを確認する光栄を有する。ソヴィエト社会主義共和国連邦大使館は、ここに、1985年7月29日に東京で署名された太平洋北部における飛行の安全性に関する了解覚書に規定する取極に対する同意をソヴィエト社会主義共和国連邦政府に代わって確認する。
 ソヴィエト社会主義共和国連邦大使館は、更に、前記の取極が、了解覚書の5に規定するように日本国外務省の口上書とこの口上書との交換が行われ、かつ、日本国外務省とアメリカ合衆国大使館との間及びソヴィエト社会主義共和国連邦大使館とアメリカ合衆国大使館との間で同様の口上書の交換が行われる本日にソヴィエト社会主義共和国連邦政府、日本国政府及びアメリカ合衆国政府の間で効力を生ずる旨のソヴィエト社会主義共和国連邦政府の了解を申し述べる光栄を有する。また、前記の取極は、前記の三の政府のうち一の政府が他の二の政府に対して書面による廃棄の意志の通告を行った日の後30日を経過するまで有効であるとソヴィエト社会主義共和国連邦政府は了解する。
 昭和60年10月8日に東京で
 
[了解覚書の終了]
 それから星遷り14年の歳月が流れ、この間、ソ連崩壊等の激動する国際情勢の中で、了解覚書そのものが終了する日を迎えた。前掲官報の側線部分に基づき、平成11(1999)年5月25日、米国務省から日ロ両国に終了通告がなされ、6月24日に失効したのである。
 これについて米国は、平成7(1995)年頃から、世界情勢の変化により冷戦構造が縮小する中、もはやこれらの措置は不必要になったとして、この覚書を廃棄したい旨我が国にも申し入れてきていた。
 我が国としても、札幌ACC〜ユジノサハリンスクACC、札幌ACC〜ウラジオストックACC間で、管制業務移管に関する取極及び専用電話回線が設置され、関係ACC間の通常の連絡手段が整備されたこともあり、了解覚書が失効しても特段の問題は無い状況にあった。
 
[ロシア極東の雪解け]
 了解覚書では「ハバロフスクACCは、北太平洋航空路沿いにあるソ連の各ACCとの連絡の中心となる」と規定されていたため、日米の航空関係者は、ハバロフスクACCがソ連国内の国防及び管制機関間の調整機能を十分に果たしてくれるものと信じて疑わなかった。
 しかし、ソ連崩壊後、平成5(1993)年9月にアンカレッジで行われたカムチャッカ・ルート(アラスカ上空からカムチャッカ半島を横断し、紋別と旭川に至る国際航空路)開設のための日米ロ三国間交渉の席上、ロシア代表が「極東の各ACC間の通信連絡にはHF(短波)回線を使用しているが、バンド(周波数帯)割り当てが少ないため、夜間には電波がスキップしてしまい、連絡不能となることが多い」と発言するのを聞き唖然としてしまった。
 ソ連航空当局は、これらの事実を承知していながら全てを隠蔽していたのである。これを聞くにつけ、北太平洋航空路から逸脱した航空機が無くて本当によかったと胸を撫で下ろしたものであった。と同時に、ロシア側からこのような極秘事項が国際交渉の場で堂々と公表されるのを聞き、ソ連崩壊の現実を強く実感させられたのである。
 
[ロシア管制官交流事業]
 国土交通省では、毎年、極東地域の管制機関を中心に、ロシア全土から選抜された管制幹部に対して研修を実施している。
 この事業は、ソ連崩壊後、組織、運用及び待遇等のあらゆる面で不安定な状態にあったロシアの管制官を我が国に招き、各地の管制施設の視察や意見交換を行うものである。
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 平成2(1990)年初頭、長距離航続性能を誇るB747-400型機、いわゆるダッシュ400の国際線への就航に伴い、我が国と欧州を結ぶ定期航空路線の殆どが、それまでのアンカレッジ経由の北極回り(ポーラールート)からシベリアルートにシフトした。更にその後、韓国とロシアの国交樹立により、韓国の欧州便もシベリア上空を飛行するようになり、シベリアルートの交通量の激増を招く結果となってしまった。
 このため、旧式な真空管製の管制機器等で細々と業務を実施していたシベリアルート沿いのロシア国内のACCが、お手上げの状態にまで追い詰められてしまったのである。
 ソ連時代は、モスクワ中央が絶対的な権限で極東地域を抑圧していたため、これらの事実が表面化したり問題化することはなかったが、ソ連崩壊と共に、あらゆる面で虐げられてきた極東地域の発言力が一気に高まりを見せ、それぞれの主張をし始めたのである。
 このような状況の下、シベリアルート沿いのACCでは、無線標識及び管制機器等の老朽化や不安定な運用状態、ニアミスの発生等を理由に、突然、運航制限を発動することもあった。
 特に、ハバロフスクACCは、平成5(1993)年12月28日、シベリア上空において重大なニアミスの連続発生があったとして大幅な運航制限を発動し、我が国にも深刻な影響が出始めたのである。
 この制限により、連日、成田発の欧州便に2時間近い出発遅延が生ずるようになり、欧州各都市に到着した乗客が乗り継ぎ便に間に合わず、航空会社がその宿泊代やタクシー代を負担せざるを得なくなってしまったのである。航空会社からは、悲鳴にも近い陳情が寄せられる事態となり、航空局としてはロシア問題を最優先で処理する必要に迫られたのである。
 このため、運行制限の緩和に向けてロシア運輸省と精力的に折衝する一方、ロシアの管制官を我が国に招き、施設見学や研修を通じてシベリアルートを飛行する航空機の安全かつ効率的運航の確保に少しでも役立てたいという強い願いがあったのである。
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 平成7(1995)年、私は福岡市東区にある航空交通流管理センター(本省組織)に勤務していたが、見学を終えたロシア視察団の副団長が「日本の管制施設を見学してロシア航空管制の明日の夢を見た感じがした。航空交通流管理センターを見学してロシア航空管制の明後日の夢を見た感じがした」とコメントするのを聞き、研修効果がじわじわ出てきているなと感じたものであった。
 その後もこの研修は続けられてきたが、ロシアの管制官側にも大きな変化が見られるようになった。最近は、英語を話せる人が増えてきたのである。ロシア語の通訳を付けてはいるものの、簡単な内容であれば英語で結構通じるようになってきたのである。
 私自身、この事業には平成4(1992)年から何度かお付き合いをしたが、当時はロシア側視察団に英語を話せる人はなく、全てロシア語通訳のお世話になっていた。その頃お願いしていたのは米原真理さんである。同時通訳の他に多くの著作があり、また、土曜夜のTV番組・ブロードキャスターのコメンテーターとしてもお馴染みの方であるが、当時はそれ程有名ではなく気軽にお願いをしていたものであった。
 ところが、彼女の「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か(徳間書店)」を読み驚いてしまった。「ロシア語に通訳すべき日本語の内容が意味不明であったり論理的でないときは、発言者に殺意を覚えることがある」と述べているのである。
 英語が多用される航空管制分野の術語は、それでなくても日本語になり難いものが多いので、米原女史は、通訳をお願いした私にも相当重度の殺意を抱いておられたのではないだろうか。
 
[あとがき]
 前述のとおり、四年前、了解覚書は日米ロ三国政府合意のうえ失効し、その役割を終えた。これで、二度と歴史の表舞台に登場することはないであろう。時代の移ろいを強く感じさせられた瞬間であったが、したたかで手強いソ連航空当局を相手に丁々発止奮闘された先輩諸氏や我々の苦労は一体何であったのであろうか。
 ただ一つ云える確かなことは、このような特別な仕組みや枠組みを必要としない平和な空が何より一番ということである。
 
(参考資料)
ボイスレコーダー撃墜の証言
(小山巌著・講談社)
 







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