日本財団 図書館


■第1テーマ「SOS!危機に瀕する日本商船隊」
(1)「日本海運の現状と将来の展望」
講師 日本海洋調査会代表 土井全二郎氏
司会 たいへん長らくお待たせいたしました。始まるまで30分ほどだったのですが、日本船主協会のご提供による「日本の海運」というビデオを見ていただきました。ちょっと固い内容だったかと思いますが、日本と海運のかかわりを少しはつかんでいただけたかと思います。
 それではさっそく本日ご講演いただきます土井全二郎さんをご紹介したいと思います。皆様のお手元にレジュメがあります。本日は第一回目なので、最初に今回の前半のテーマであります「SOS!危機に瀕する日本商船隊」の開催企画書をつけています。そのあと2枚めくっていただくと、本日のレジュメ、演題が「日本海運の現状と将来の展望」というかたちであります。
 もう1枚めくっていただきますと、本日ご講演いただきます土井全二郎先生の経歴を簡単にご紹介させていただいております。土井先生は朝日新聞の編集委員として海運、船関係の記事をたくさんお書きになりました。その後、朝日新聞を退職されて、現在は日本海洋調査会の代表を務められ、海や船に関しての著書多数ということで活躍されています。
 それでは土井先生をご紹介したいと思います。拍手でお迎えいただきたいと思います。土井先生、ご登壇ください。
 
<海の儀式の思い出>
土井 皆さんお忙しいところ、またお暑いところ、お出かけいただき、ありがとうございました。ワールドカップ・サッカーの日本対チュニジア戦が本日だったら、みなさんテレビを見ていて、こちらには誰も来られないのでは、と心配しておりました。
 きょうここに来た時、旧青函連絡船の保存船“羊蹄丸”に気づき、しばらく立ち止まって眺めておりました。この船は昭和63年3月31日、廃止になった最後の青函連絡船として函館行き最終航海に旅立っています。そのとき、ちょうど函館にいました。
 たしかその日の午後6時だったと思いますが、お別れの汽笛を鳴らしています。
 函館市民もかなり集まっていて、ペンライトというのでしょうか、舞台の歌手に熱狂的なファンが持つようなものを振って見送っておりました。夜10時過ぎには青森港に着き、これはあとから新聞記事で読んだのですが、やはりそこでも青森市民がいろいろとお別れの儀式をやったということでした。本日、久し振りに“羊蹄丸”を見て、そんなことを思い出し、ちょっぴり感傷にひたったことでした。それに、ここの船の科学館のことになりますが、ここには面白い展示物がたくさんあります。お手元資料の中の経歴にもありますように、私はときどき遠くに出かける船に乗せていただいているのですが、そうした船が晴海岸壁から出港するさいには、この船の科学館が長い汽笛を鳴らして見送ってくれます。
 ご存じかもしれませんが、汽笛を長く三回鳴らす、いわゆる汽笛長三声「ボー、ボー、ボォーッ」というのをやってくれるのです。船からも応えて長三声。もうこれだけで胸がジーンときます。これでしばらく故国ともお別れかと思う一方で、いや、港の人たちがこんなに暖かく見送ってくれる、頑張ろうといった気持ちにもなるものです。
 昔から伝わる海の儀式で、外国でもやってくれます。客船“にっぽん丸”とか、練習帆船“日本丸”や南極観測船“ふじ”で行ったさいにも、あちこちの外国の港でこうした海の挨拶をしてくれました。もっとも、やってくれない港もあることはあります。そうした面、どこの国が海に理解があるか、そうでないか、ある程度分かるような気がします。その意味で船の科学館が古くからの儀式をきちんと守っておられることについて、日本の海の玄関に当たる東京港の格好のシンボルだ、と好感を持っているところです。
 さて、本題に入る前にちょっとお手元の資料を見てもらいましょう。途中で何度もめくっていただくのは恐縮ですので、よろしくお願いします。
 まず日本船主協会から出ている「シッピング・ナウ〜日本の海運〜」というのがありますが、ここの5ページに輸入依存度というのが出ています。これを見れば、日本はほとんど輸入で成り立っていることが分かります。
 それから11ページです。日本郵船の船がサンフランシスコ湾を航行している大きな写真がありますが、その右側の資料に日本商船隊の構造図がついています。これによりますと、純粋の日本船はほとんどいなくなっていて外国用船ばかりになっていることが書いてあります。めくっていただいて、13ページにもいろいろな資料が出ています。右下に1トンの貨物を運ぶに必要なエネルギーが書いてあり、航空輸送などよりも船で運ぶ方が随分安く済むという説明がされています。
 最後の方になりますが、17ページに船橋(ブリッジ)の写真があります。船長さんがきちんとした正装姿ですが、いつもこのような格好をしているわけではありません。航海中は作業服を着ていますので、この正装姿はどうも写真撮影用のためなんですね。右側でカジ(舵)を握っているのはフィリピン人船員です。
 最近はこのようなコンパクトなカジになっていて、こうした自動車の輪っぱよりも小さなカジで5万トン、6万トンといった大きなコンテナ船を動かしています。練習帆船“日本丸”では直径1.5メートルほどの大きなカジがあって、それが2つもあって、これを動かすのは大変でした。
 
<タジマ号事件のこと>
 そんなところで本題に入りますが、固いおハナシは苦手としていますので、どうぞ、ゆったりとしたかっこうでお聞きいただきたいと思います。
 本日の演題のレジュメの一番初めに“TAJIMAMARU”(以下、“タジマ丸”事件)とあります。わざわざローマ字で書いたのではなく、最近は日本語で書く「何んとか丸」という船名の船はほとんどなくて、船籍、つまり船の国籍がパナマとかリベリアになっていることから、実質的には日本船であってもローマ字で書くようになっているのです。
 その“大型タンカー・タジマ丸”のことですが、ここで今年(平成14年)4月7日に殺人事件が発生しました。一般紙も取り上げましたので御存じのことかと思いますが、日本人の二等航海士がフィリピン人船員2人によって殴打されたあと、海上に放り出され、そのまま行方不明になったのです。
 日本の海運界は大騒ぎになりました。もちろん事件そのものの異常さがありますが、いくつか早急に解決すべき難問題を突き付けられた事件だったからでした。台湾沖の公海上で発生したということ。外国籍船の船上で起きた出来事だったこと、さらに外国人によって起こされたこと。この事件には、そういった3つの特徴があります。
 船は事件の第一報を最寄りの日本の海上保安部に通報したあと、中東から運んできた油を陸揚げするために兵庫県姫路港沖まで来たところで立ち往生のかたちとなりました。容疑者のフィリピン人船員は船内の個室に隔離したままです。
 なぜ、このような事態になったかというと、外国船とか公海上の事件となると、日本の刑事捜査権が全く及ばないからです。このため、4月始めに起きた事件がゴールデンウィークを通り越して1ヵ月経っても解決しませんでした。外務省、法務省、警察当局などが連日会議を開いて対策を練ったのですが、最後には船の国籍があるパナマ政府に対して、仮の逮捕権というか、仮の捜査権を日本に与えてくれという交渉を繰り返しました。その結果、40日以上も経ってパナマ政府からやっとOKサインが出て、その依頼を受けたかたちをとり、日本の海上保安部が乗り込んで容疑者2人を拘禁。ようやく一件落着という経過をたどっています。日本の船員と外国人船員が乗る混乗船で、小さな事件はなきにしもあらずでしたが、このような殺人事件にまで発展したのは初めてのことでした。
 
<急増した便宜置籍船>
 日本で混乗船−便宜置籍船(FOC)といいますが―、そうした外国籍の船が日本商船隊に加わるようになったのは昭和50年からです。この年3月、インドネシア人、香港人と日本船員といった組み合わせの第一船が出ています。以来、資料にもありますように便宜置籍船は急増していくのですが、今回のタジマ号事件で浮かび上がったような日本の法律が及ばないという「法未整備の状態」はそのまま続いていたことになります。
 現在、海運界では大慌てで法体制の整備を政府に要望しているのですが、それはそれとして私の個人的な目からしますと、便宜置籍船が日本に登場して四半世紀以上にもなるというのに、律すべき法律もなにもなかったという点に非常に興味があるところです。つまり、逆にいえば、さほど法律を必要として来なかったということです。現在、便宜置籍船での混乗相手はほとんどフィリピン人船員なのですが、全日本海員組合の資料によりますと、日本商船隊に乗っているフィリピン人船員は3万人で、反対に日本船員は2,900人にまで減っております。日本商船隊を動かしているのはフィリピン人船員であり、日本船員はその10分の1にも満たないのが現状となっているのです。
 こうした現状の意味するところについてはあとで触れますが、ともかくもそういうふうに外国人船員が乗組員の大勢を占めるなか、これまで何も起きなかったということは、考えてみれば極めて面白い現象ではないかと思っているところです。ここらあたり気になってあちこちの資料を見てみたのですが、外国の混乗船ではちょくちょく重大な事件は起きているようです。文化の違い、肌色の問題もあるのでしょうが、日本の船でさほど事件が起きていなかったのは、船の責任者であり乗組員を統率する監督者である日本船員側のマネジメント能力が優れているからではないかと思います。これまで3隻の混乗船に乗ってみましたが、日本の船長、機関長といったクラスが、それはそれは外国人船員に対して気を使い、ときには厳然たる態度で接していました。
 私が体験した船は台湾人船員との混乗船が1隻とフィリピン人船員の場合が2隻でしたが、みな気のいい連中ばかりでした。彼らはいわゆる出稼ぎ根性があるのですが、国内の労働者に比べると船員稼業は「いいカネになる」ということで、あこがれの職業となっています。船員希望者はどんどん増えている。したがって競争率も激しい。日本側からみて、年ごとに質のいい人が乗ってくるという仕組みになっています。
 台湾人船員と乗ったとき、こういうことがありました。自動車運搬船で北米大陸東海岸へ航海したのですが、ニューヨーク近くまで行ったところで、着いたら「お祝いの料理をつくって日本人に御馳走する」という話になりました。そこで船内の調理場を点検してみたところ、料理に必要な調味料が若干不足していることが分かりました。
 船はニューヨークの隣にあるニューアークという港に着岸したのですが、そこからニューヨークまでかなりの距離があります。そこで彼らがどうしたかというと、敢然としてタクシーを呼び、大枚をはたいてニューヨークのチャイナタウンまですっ飛ばし、調味料を買い求めて来たのでした。
 航海中の彼らは、汚れ作業のエンジン清掃やペンキ塗りの仕事をすすんでやり、その特殊勤務手当てを5ドル、10ドルと貯めるといったつましい生活だったのですが、いざとなったら、こういう離れ業もしてみせてくれるんですね。昔聞く日本人船員気質のような面も持ち合わせており、日本人船員側は「恐れ入った」とカブトを脱いでおりました。
 また、これは記録で読んだのですが、深夜、いきなり火災報知器が鳴ったということです。こういうことはちょくちょくあって誤作動のケースが多い。そこで日本人船長が「また誤作動か」と、それでも起き出してパジャマ姿のままで報知器を点検していたところ、こちらはヘルメットから、合羽から、ランプから、すべてを用意した台湾人船員が「キャプテン、火事はどこですか」と、どかどかっと集合してきたそうです。
 報告書にあったのですが、このとき、キャプテンはちょっと恥ずかしかったそうです。こちらはパジャマ姿、相手は完全武装。「彼らの真面目さ、仕事熱心さにはうたれた」と書いてあります。私の見るかぎりでも、命令に対する忠実さ、真面目な仕事ぶりには、ちょいとしたものがあるように思ったことでした。
 フィリピンクルーにも同じことがいえるようでした。彼らはパーティが好きで、航海中でも1週間に1度くらいは船内で「パーティをやろうよ」と言い出します。たまたま機嫌がよかった日本人船長が「よし、今夜はノー・パジェット(予算は心配するな)」とでも言おうものなら、「グッドアイディア・サー」と大喜び。船側の方針としてあまりアルコールは飲ませないことにしているのですが、彼らもそれなりに心得ていて、カラオケやダンスで陽気に騒ぐところがありました。
 このフィリピン人船員のお陰で「助かったよ」という話もあります。
 あのイラン・イラク戦争のとき、ペルシャ湾内に入った各国の貨物船やタンカーは、戦闘の推移はどうなっているか。船舶攻撃は続いているか、それこそ必死で情報を収集していました。日本船の場合も例外でなく、日本内地の船会社や海員組合から送ってくるファクス情報を頼りにする一方、行き交う外国船の動きを懸命に観察していました。
 そのさい、フィリピン人船員が大活躍したそうです。なにせ、湾内を走っている各国の船に同国人船員が乗っていますから、お国言葉による相互の無線交信でどんどん情報を仕入れる。イラン・イラク側が傍受しようとしても、タガロク語かなにか知りませんが、ぜんぜん見当がつかない言葉でやり取りしたというわけです。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION